急転直下
(ああ、昨日と比べて、今日は何ていい日なんだ!)
昨夜、心ゆくまで麻奈未と妊活をできた凛太郎は、有頂天だった。ベッドでの延長戦は拒否されたが、それはあまり気にならなかった。
「凛君、一緒に寝よ」
麻奈未からのお誘いで、麻奈未のベッドに入り、一晩中、麻奈未と手を繋いで眠れたからだ。何度も麻奈未に挑もうと思ったが、今度こそ「離婚」を突きつけられてしまうと思い、踏み留まった。
(また今夜がある。妊活の中断は撤回されたのだから)
連日連夜、妊活に勤しもうと思っている凛太郎をよそに、麻奈未は母親の美奈子からのラインが気になっていた。
(四季島が動きを止めないって、何かしら?)
謎めいたラインを見て、麻奈未は凛太郎との会話中も気もそぞろだった。
(お母さんはもう、動いたって事? でも、四季島には効いていないという事?)
麻奈未はハッとした。
(もしや、四季島はすでに剣崎とは関係なく行動しているという事なの? だとしたら、何も意味がないじゃないの?)
麻奈未は急いで東京国税局へと向かった。
「麻奈未さん、気をつけて!」
凛太郎が見送ってくれたのに返事もせず、麻奈未は地下鉄の駅へと走った。
(どうしたんだろう、麻奈未さんは? 昨日、明日早いって言ってはいたけど)
能天気な凛太郎は、麻奈未が慌てている事を深く考えていなかった。
一方、官邸の一室では、
(しつこいな。ブロックしておくか)
非通知での着信が頻繁に来るので、四季島はスマホを非通知着信拒否に設定を変更した。
(これで着信音も鳴らなくなる。何か重要な連絡であれば、事務所か自宅にかけて来るだろう)
四季島は、相手が一向に他の連絡先にかけて来ないので、新手の迷惑電話だと思っていた。
「四季島さん、総理がお呼びです」
そこへ黒田小次郎が入って来た。四季島は微笑んで、
「わかった。すぐ行く」
四季島はスーツの襟を整えると、部屋を出た。
「あの」
小次郎は前を歩く四季島に声をかけた。
「何だ?」
四季島は立ち止まらず、振り向きもせず応じた。小次郎は口籠もってしまった。
「言いたい事があるのなら、はっきり言え!」
四季島は苛立って怒鳴った。小次郎はビクッとして、
「あの、湊人の事はどうなるのでしょうか? 写真週刊誌に載れば、湊人は芸能界を干されてしまいます」
四季島はニヤリとして、
「ならば、お前が身代わりになれ。そうすれば、湊人は生き残れる」
「え?」
小次郎はギョッとした。見せられた写真に写っていた弟の湊人は、はっきりと顔がわかるものではない。
「あれは弟ではない、自分だ。訂正記事を載せろと主張するんだよ。それしかない」
四季島は、記事がフェイクだと小次郎に伝えていないのだ。
「わかりました」
小次郎は力なく言った。四季島は歩を早めて、
「だが、お前は今の地位には留まれない。形式上、辞職してもらう事になる」
「はい……」
小次郎は俯いた。四季島はなおも、
「心配するな。うまくいった暁には、別の部署で採用してやるから」
ニヤリとして告げた。
「ありがとうございます」
小次郎は四季島の言葉は嘘だと思っていた。
(最初から俺達を利用するつもりだったのか。許せない)
小次郎の目は鋭くなり、四季島の背中を射抜くように見ていた。
「はあ……」
凛太郎は憂鬱な顔で事務所に向かっていた。綾子から、
『税理士会の会合に出席するので、午後から事務所へ行きます。寂しいだろうけど、我慢してね』
お気楽なラインが来たのだ。
(また、岸森さんと二人きりか……。嫌だな)
綾子は、真実が凛太郎を全く恋愛対象としていないと思い、警戒していない。優菜の時のように二人きりにならない策を考えるつもりがないのだ。だからと言って、
「岸森さんと二人きりにしないで欲しい」
などと言えない。言ったら、母はすぐに真実を問い詰める。そうなれば、真実が、
「凛太郎さんに襲われました」
恐ろしい偽りを訴える可能性がある。凛太郎にとって、悪夢の展開だった。
(今日に限って、決算整理の予定を入れている。どこかの顧客に急に行く訳にもいかないし、そんな事をすれば、岸森さんが母さんに告げ口をする。何か策はないか?)
凛太郎は考えた挙句、父に助けを求める事にした。だが、そうなると、理由を説明しなければならない。優菜の時に続いて、またそんな事かと父親に呆れられるかも知れないが、真実と二人きりになるよりはマシだと思った。
「どうした? 今、母さんと一緒に税理士会の会合に来ているんだが?」
何と、間が悪い事に父は母と一緒だった。考えてみればわかる事だ。父も母同様、税理士なのだ。
「どうしたの? 凛から?」
電話の向こうで、母の声が聞こえた。
「父さん、母さんから離れて。聞かれたくないんだ」
「わかった」
察しのいい父親は、母に何か告げると、離れてくれた。
「ここなら母さんも入って来られない」
父の声が反響しているので、
「どこ?」
不思議に思った凛太郎が尋ねた。
「トイレだよ。いくら母さんが図々しくても、ここまでは追いかけて来られないだろう?」
「ああ」
さすが父さん! 母さんの扱いに慣れてる。凛太郎は隆之助に敬意を抱いた。
「何かあったのか?」
隆之助は声をひそめて訊いて来た。凛太郎は言い淀みかけたのだが、真実との事を話した。
「……」
隆之助は絶句した。そして凛太郎は、麻奈未から聞いた事も打ち明けた。
「そうか。それは災難だったな。母さんには黙っておくよ」
隆之助は一呼吸置いて告げた。
「うん、それだけは頼むよ、父さん。それで、事務所には岸森さんだけなので、行くのが怖いんだ」
凛太郎は恥を忍んで口にした。
「それもわかった。岸森さんを呼び出すよ。彼女は私の呼び出しなら、喜んで来るだろう」
父の提案に凛太郎はギョッとした。
「いや、母さんが怒るだろ? 大丈夫なの?」
「凛太郎の緊急事態なのだから、何も言わせないよ。うまく取り繕っておく」
父は自信満々の口調だ。
「わかったよ。お願いします」
凛太郎は通話を終えると、スマホをスーツの内ポケットに入れて、事務所へ向かった。
「うん?」
スマホが鳴り出したので、驚いて取り出した。
(げ、事務所からだ!)
事務所の電話からという事は、真実からだ。どうしようと思ったが、出ない訳にはいかない。
「はい、凛太郎です」
震える声で応答した。
「お疲れ様です。今、木場先生からお誘いがあって、出かける事になりました。私がいなくて、悶々とするでしょうけど、我慢してくださいね」
真実は嬉々としていた。
(全然、勘ぐってはいない)
凛太郎はホッとして、
「わかりました。気をつけて」
「はい」
上機嫌な真実は、弾んだ声で応じると、通話を終えた。凛太郎は安堵の溜息を吐き、スマホを再びスーツの内ポケットに入れた。
税理士会の会合は何事もなく終了した。
「どういう事? 岸森さんを呼び出すなんて」
凛太郎の予想通り、税理士会館のロビーで綾子は剥れていた。ここからだと、聖生と大介がいる南渋谷税務署も近い。
「凛太郎のピンチなんだよ。岸森さん、凛太郎にちょっかいを出して来たらしいんだ」
隆之助は事実をうまく濁して伝えた。
「え? そうなの? マザコンは嫌いって、彼女言ってたのに」
綾子は目を見開いた。隆之助は苦笑いをして、
「それは方便だろう。私を狙っているというのも、恐らく方便だ。君を油断させるためのね」
「まあ……」
綾子は真実に絶大な信頼を寄せていたので、すぐには信じられないという顔をしている。
「だから、ちょっと問い詰める。どういうつもりなのかね」
隆之助は真顔になった。
「そ、そうなの」
綾子は夫の顔にキュンとしたが、気づかれまいとして顔を背けた。
(取り敢えず、綾子はコントロールできたようだな)
隆之助はホッとしていた。
(後は、岸森さんの真意だ。凛太郎が麻奈未さんから聞いた事が真実だとすれば、相当したたかな女だろう)
隆之助は真実の口車に乗せられないように気を引き締めた。
「四季島君、電話だ」
四葉総理大臣に執務室へ呼ばれ、四季島が出向くと、いきなり四葉に机の上の固定電話の受話器を差し出された。
「は?」
四季島は理解が追いつかず、ポカンとしてしまった。
「早く出ろ。何を惚けている!」
四葉がいつになく大きな声で言ったので、
「あ、はい」
四季島は慌てて受話器を受け取った。
「お電話代わりました、四季島です」
相手が誰なのかもわからないまま、四季島は応答した。
「貴様、いつからそんなに偉くなったのだ!? 何故私の電話に出ない!?」
その声は剣崎龍次郎のものだった。四季島の全身から大量の汗が噴き出した。
(まさか、あの非通知、剣崎先生からの?)
四季島は顔色を変え、
「申し訳ありません、先生からのお電話とは気づかずに……」
見えない相手に頭を下げた。
「言い訳はいい! 今すぐに貴様が独断で進めている計画を取りやめろ。これは厳命だ! いいか、今すぐにだ!」
剣崎の声は受話口から飛び出して来そうなくらい激しかった。
「いえ、その……」
四季島がなおも弁解をしようとすると、
「反論は許さん! 早く取りやめろ! いいな!」
剣崎はそれだけ言うと、通話を切ってしまった。四季島は呆然として四葉を見た。
「四季島君、君には悪いが、私の秘書を辞任してくれ。これも、今すぐにだ」
四葉は無表情に告げた。
「え?」
四季島は後ろ盾を失った人間の末路をその瞬間に悟った。
「良かれと思ってしていたのだろうが、ご本人の承諾もなく事を進めるからそういう事になる。勉強になったな」
四葉はそれだけ言うと、ドアを指し示した。出て行けという合図だ。
「はい」
四季島は力なく応じて一礼すると、執務室を出て行った。こうして、四季島の謀略は露と消えた。
「あいつ、声が震えてたわよ。申し訳ないと平謝り。いい気分だわ」
夫の太蔵とカフェテラスでランチを楽しんでいる美奈子が言った。
「あまりいじめないでくれないか。もう只の老人なのだから」
太蔵は剣崎を憐んで告げた。美奈子はクスッと笑って、
「まあ、これで二度と剣崎龍次郎の政界復帰はなくなったわね。選挙と名のつくものに出たら、私が知っている事を全部白日の下に晒すって言ったから」
「彼が首謀者ではないのだろう?」
太蔵が指摘すると、美奈子は口を尖らせて、
「だとしても、四季島のような悪人を作り出したのは、剣崎よ。その責任は重いの」
「確かにね」
太蔵は肩をすくめた。
「あ、黒田さん」
麻奈未は自分宛に訪問して来た人がいると受付から連絡をもらい、そこにいた小次郎に驚いた。
「ご迷惑をおかけしました。四季島の悪事の全てをお話しします」
小次郎は一礼して言った。
「え? 悪事の全て?」
麻奈未は眉をひそめた。
「はい。四季島の隠し財産、名義貸しによって入手した預金通帳のありかを知っています。奴を告発してください」
小次郎はUSBメモリを麻奈未に見せた。
「それに入っているのですか?」
麻奈未はメモリを凝視した。
「そうです。四季島を追い詰めるデータが入っています」
小次郎はメモリを差し出した。
「わかりました。詳しいお話をお聞かせください」
麻奈未はメモリを受け取り、小次郎をエレベーターホールへと先導した。
「弟とまた会っていただけますか?」
小次郎が尋ねた。麻奈未は苦笑いをして、
「私、既婚者なので、それはちょっと……」
小次郎も苦笑いをして、
「そうですよね。弟には諦めるように言います」
麻奈未は小次郎の言葉に、
(うわあ、揺れるう! 凛君には申し訳ないけど、湊人君ともう一度くらいお食事したいい!)
いけない事を考えてしまった。
ウキウキして隆之助に会いに行った真実は、落ち合ったフレンチレストランで顔を引きつらせていた。
「岸森さん、いや、どこの誰かわからないなりすましさん、一体どういうつもりで凛太郎にちょっかいを出したのか、教えてくれないか?」
真顔の隆之助と綾子に詰め寄られて、自称岸森真実は嫌な汗を流していた。
「言い逃れはできないよ。先程、東京国税局の中禅寺さんから、君の事を教えてもらった。正直に話した方が身のためだと思うよ」
なりすまし女は、がっくりと項垂れた。
「黙ってないで、何とか言いなさいよ!」
すっかり騙されていたと知った綾子は、隆之助以上に強い口調で言った。
「は、はい……」
なりすまし女はビクッとして顔を上げた。
「なかなかのイケメンでしたね」
茉祐子は玄関まで見送った小次郎を評してそう言った。
「ま、茉祐子さん!」
一緒に来ていた夫の充が叫んだ。
「まあね」
麻奈未も、何だったら、小次郎とでもいいから、食事がしたいとほんの一瞬思ってしまった。
(ごめん、凛君!)
麻奈未は心の中で手を合わせた。
「これで、四季島はおしまいです。しばらく、娑婆には出て来られないでしょう」
茉祐子は小次郎が提出したUSBメモリを見つめた。
「明日から、また忙しくなるわ」
実施部門の麻奈未が言った。
「ですね」
茉祐子は悲しそうに自分を見つめている充の頭を軽く小突いた。
「でも、あの人も無傷って訳にはいかないですよね」
充が言った。麻奈未と茉祐子は顔を見合わせた。
「そうね。加担していたのは事実だし、先輩を陥れようとした事は犯罪だし」
茉祐子はチラッと麻奈未を見た。麻奈未は、
「でも、不起訴相当だと思う。私は被害届を出さないから」
「え? そうなんですか?」
充が二人を見た。
「イケメンは得なのよ、充」
茉祐子はウィンクした。
「ええ?」
充が更に驚くと、
「冗談よ。情報提供が情状酌量されて、不起訴になると思われるの。イケメンは関係ないよ」
茉祐子は充の頭を軽く叩いた。




