歓喜する男、謎めく女
凛太郎は定時まで事務所に残り、留守番電話のボタンを押し、戸締りをして帰路についた。
(母さんが戻って来なくて、ちょうどよかった)
綾子と顔を合わせるのがつらかったので、直帰してくれた母に感謝した。
(岸森さんはいつまで来るつもりなのだろうか? 週刊誌が発行されるまで?)
しかし、麻奈未の話だと、その週刊誌は偽物なので、発行される事はないという。
(麻奈未さんに訊いてみよう)
凛太郎はそこでハッとした。
「ああ……」
そして、麻奈未に「妊活の中断」を申し渡されたのを思い出し、項垂れた。
(俺はどうすればいいんだ?)
麻奈未は話を聞いてくれるだろうか? 今朝、一言も口を利かずに出勤した麻奈未の事を思うと、まともに話ができるとは思えなかった。凛太郎は胃がキリキリして来た。
「あれ?」
家に着くと、明かりは点いていなかった。
(麻奈未さん、まだ帰っていないのか?)
少しホッとした凛太郎は玄関を開錠して、中に入った。靴もない。麻奈未はいなかった。凛太郎は明かりを点け、寝室へ向かった。そして、スーツを脱ぎ、ハンガーにかけると、クローゼットに入れた。ズボンとワイシャツを脱ぎ、室内着の黒のスウェットの上下に着替えた。ズボンはプレス機でしわを伸ばし、ハンガーにかけてクローゼットに入れた。
麻奈未はまだ国税局にいた。
「岸森真実は現在仙台にいます。よって、高岡税理士事務所に現れたのは、岸森真実のなりすましです」
実施部門のフロアに来た中禅寺茉祐子が告げた。
「ええ? どういう事?」
麻奈未は目を見開いた。茉祐子は苦笑いをして、
「わかっているのはそこまでです。岸森真実のなりすましが四季島の差し金なのか、また別の何者かの手引きなのかはわかりませんが、高岡税理士事務所に勤務しているのは、間違いなく岸森真実本人ではありません」
「仙台にいるのが本物だという確証は?」
織部が口を挟んだ。茉祐子は織部を見て、
「仙台国税局に調べてもらったので、間違いありません。岸森真実は剣崎の仙台事務所の元職員で、剣崎の周囲を洗った時に素性を確認しています」
「なるほど、そういう事か」
織部は合点がいったという顔をした。
「どういう事ですか?」
麻奈未と茉祐子が異口同音に尋ねた。織部は二人を交互に見て、
「要するに、岸森真実なる人物が捜査線上に浮かんでも、岸森真実には完璧なアリバイがあり、関与していないと主張するつもりなのかも知れない。なりすましは四季島の策略だろう」
「なるほど」
麻奈未と茉祐子は異口同音に応じた。
「今日はここまでにしよう。中禅寺は引き続き、仙台と連絡をとって岸森真実を調べてくれ。そんな事をする理由が知りたい」
織部は席から立ち上がった。
「わかりました」
茉祐子は黒いリュックサックを背負って応じた。麻奈未はハンドバッグを持った。
「伊呂波坂も上がってくれ。私は部長と話をしてくる」
「わかりました。お先に失礼します」
麻奈未は一礼して、茉祐子と一緒にフロアを出た。
(麻奈未さん、帰って来ないなあ)
凛太郎は夕食を用意して麻奈未を待っていた。しかし、予想以上に彼女の帰宅が遅いので、冷えたグラタンを温め直したものか思案していた。
(連絡もない。やっぱり、怒っているのかな?)
麻奈未が連絡をして来ないのはそういう事なのかと凛太郎は後ろ向きな思考に陥っていた。
(もしかして、夕食をすませてくるのかな?)
どんどん悲しくなって来る。
(ひょっとして、もう帰って来ないとか?)
不安に駆られた凛太郎は、麻奈未の荷物があるか、寝室に見に行った。麻奈未の服や持ち物はそのままあった。
(よかった……)
とうとう凛太郎は泣いてしまった。
(麻奈未さん、どうして連絡してくれないの? やっぱり、怒っているの? まだ許してくれていないの?)
凛太郎の心は荒れ狂う嵐の中の小船状態だった。
「あ!」
麻奈未は地下鉄の駅の階段を駆け降りていて、ハッとなった。
(私、凛君に連絡してなかった!)
時刻はすでに午後九時を回っていた。仕事に夢中になっていて、朝、凛太郎に酷い仕打ちをした事を忘れていた。
(すぐに謝らないと!)
麻奈未は取り急ぎ、ラインで遅くなった事を謝罪した。
(今から帰ります。ごめんなさい)
麻奈未は泣きそうになっていた。
(きっと、凛君は私がまだ怒っていると思っているんだろうな。酷過ぎるぞ、麻奈未!)
自分を嗜めた。
(とにかく、帰ったら、土下座して謝ろう。そして、妊活中断は撤回する事を伝えて、すぐに再開……)
そこまで考えて、麻奈未は赤面した。
(やだ、何を妄想してるんだ、私は? 凛君に許してもらうために、そんな事をしようと思うなんて……)
岸森真実(今となってはどこの誰かはわからないのであるが)が凛太郎にした事を自分もしようと思った。それで凛太郎への贖罪になるとは思えないが、今はそれしかないと思ったのだ。
(確か、優菜さんも同じ事をしたって凛君は言っていた。という事は、二人を超えるには、それしかないって事?)
麻奈未は凛太郎への罪の意識に拘るあまり、途方もない思考に陥っていた。
「あ」
凛太郎は麻奈未からのラインに気づいた。
(今から帰ります。ごめんなさい)
それだけだった。しかし、凛太郎は救われた。
(よかった。麻奈未さんは怒ってはいないんだ)
根が単純なので、あっさりそう思っていた。
(だったら、もう少ししたらグラタンを温め直そう。麻奈未さんが帰った時に適温になっているように)
凛太郎は麻奈未の分のグラタンの皿を電子レンジに入れた。
「あ」
ところが、「妊活の中断」の件を思い出して、また落ち込んだ。
(そっちは無理だよな。だって、俺のせいだから……)
優菜の時も情けなかったが、真実の時も言い訳のしようがない程情けなかった。何故どちらの時にも抵抗ができなかったのか? 優菜も真実も凛太郎より小柄だ。力もない。結局のところ、凛太郎は二人の魔性に呑まれていたとしか思えなかった。要するに、凛太郎はどうしようもない程優柔不断で、美人に抵抗できないヘタレなのだ。
(グラタンを温めないと)
気を取り直して、レンジを操作した。その時、玄関の鍵が開く音が聞こえた。
「麻奈未さん!」
凛太郎はご主人様の帰りを待っていた子犬のように廊下を走り、玄関へ赴いた。
「只今」
麻奈未は何故かバツが悪そうな顔で言った。
「お帰りなさい」
凛太郎は目を潤ませて応じた。
「ごめんなさい!」
麻奈未は玄関から上がるなり、土下座をした。
「ええ!?」
凛太郎はあまりの事に面食らい、固まった。
「凛君が不安に思っている時に、仕事にかまけて連絡を忘れてしまって、ごめんなさい!」
麻奈未は床に額を擦り付けていた。
「いや、あの、俺が悪いんですから、麻奈未さんが謝ったりしないでください。そんな事されたら、俺、いたたまれません」
凛太郎はしゃがみ込んで告げた。
「凛君……」
麻奈未は目を潤ませて凛太郎を見つめると、抱きついた。
「わわ!」
はずみで凛太郎は後ろに転んだ。
「凛君、優し過ぎるよ。こんな時は叱ってよ。連絡くらい寄越せって!」
麻奈未は凛太郎にのしかかった。
「麻奈未さん……」
凛太郎は麻奈未の柔らかい身体を感じて、つい反応した。
「え?」
麻奈未はそれに気づき、顔を赤らめた。
「凛君」
しかし、彼女は凛太郎の反応に引かず、唇にキスをした。
「麻奈未ひゃん……」
凛太郎は分け入って来た麻奈未の舌を受け入れ、自分の舌を絡ませた。
「そうか。うまくいっているようだな。そのまま、伊呂波坂の夫を弄べ。伊呂波坂が病むくらいにな」
四季島は誰かとスマホで話していた。
「私、あんなマザコンとこれ以上深い関係になりたくないです、勇悟さん」
相手は岸森真実のなりすまし女だった。
「もう一押しなんだよ。我慢しろ。そうしたら、お前と結婚する」
四季島は心にもない事を言った。
「嬉しい、勇悟さん。必ずよ。税務署の女と一緒にしないでね。私はそこまでバカじゃないわよ」
真実のなりすまし女は声を荒らげた。
「もちろんさ。お前は最高の女だよ」
四季島はフッと笑った。
「む?」
その時、キャッチが入った。
「ちょっと待ってくれ」
四季島はキャッチの相手を確認したが、非通知のものだった。
(またか)
四季島はそれを無視して、なりすまし女との会話を再開した。
「間違い電話だったよ。じゃあ、頼んだぞ」
「わかったわ、勇悟さん」
なりすまし女は通話を切った。四季島はキャッチで入った非通知の着信に舌打ちをした。
(しつこい奴だな。一体何者だ?)
四季島はそれでもその着信に出るつもりはなかった。
(もしかすると、査察の奴らが正体を隠して接触して来ているのかも知れないな)
警戒心の塊の四季島はそう思った。
「ご馳走様」
麻奈未は凛太郎と楽しく食事をした。つもりだったのだが、凛太郎はあまり嬉しそうではない。玄関先で押し倒してのキスの流れになった時、発情した凛太郎を押し退けたのが原因のようだ。
(凛君たら、盛りのついたオスみたい)
麻奈未は呆れていたのだが、自分からキスをしておいて、お預けにしたのだから、凛太郎だけが悪いのではないのはわかっていた。
「えっとね、凛君」
麻奈未は俯いている凛太郎に話しかけた。
「はい」
凛太郎は、まだ「妊活中断」が有効状態だと思ったため、酷く落ち込んでいる。
「妊活の事なんだけど」
「妊活」と聞き、凛太郎はピクンとした。
「中断て言った件なんだけど」
麻奈未も凛太郎が落ち込んでいるので、言い出しにくくなっていた。
「はい……」
凛太郎は、
(中断じゃなくて、中止、離婚と言われるのか?)
心臓が口から飛び出そうなくらい動揺していた。
「撤回します。いくら何でも酷過ぎだと思ったので……」
麻奈未の言葉が予想と全く違っていたので、凛太郎はポカンとしていた。
「私、優菜さんの事になると、どうしても嫉妬が強くなるみたいで……。ごめんなさい。また今夜からも引き続き、よろしくね」
麻奈未ははにかんだ表情で上目遣いに凛太郎を見た。凛太郎は号泣していた。
「え?」
それを見て麻奈未は若干引いてしまった。
「麻奈未さーん!」
凛太郎は雄叫びをあげると、テーブルに突っ伏して泣いた。
「あの、凛君、泣かないでよ。私が悪かったから」
麻奈未は立ち上がって凛太郎のそばへ行くと、肩を撫でた。
「じゃあ、お風呂に入ろうか」
麻奈未が声をかけると、
「麻奈未さん!」
凛太郎はいきなり立ち上がって、麻奈未を抱きしめた。
「ちょっと、凛君、着替えさせてよ。このままお風呂に行くの、ちょっと嫌なんだけど」
麻奈未は凛太郎を押し退けた。
「あ、はい」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、凛太郎は頷いた。
「おかしいわ」
太蔵と同じ布団に寝ている美奈子が言った。
「何がだね?」
眠ろうとしていた太蔵は目をこすりながら訊いた。美奈子は太蔵を見て、
「爆弾をちらつかせたのに、相変わらず四季島は計画を実行しているみたいなのよ。ちょっと舐め過ぎたかなと思って」
「爆弾?」
太蔵は眉をひそめた。美奈子は笑って、
「比喩よ、比喩。本当の爆弾じゃなわよ。あの爺さん、そこまで捨て身になっているのかしら? 仙台で再起を賭けてやり直すつもりだって聞いたんだけど、もうどうでもよくなったのかしら?」
腕組みをした。
「剣崎龍次郎は本当におとなしくしていると仙台の同期から聞いているよ。それはないだろう。四季島が暴走しているのかも知れんよ」
太蔵は話を切り上げたいのか、あまり乗り気ではない口調である。
「うーん、そうなのかな? 明日、もう一押ししてみるね」
美奈子は寝ようとする太蔵にベタベタして告げた。
「それなら、寝てくれないか」
「わかったわよ。つれないんだから」
冷たい対応の夫に口を尖らせ、美奈子は背中を向けて眠りに就いた。
「はあ」
凛太郎は恍惚とした顔で浴室を出た。
(まさか、麻奈未さんがあんな事を……)
麻奈未が思ってもいなかった行動に出たので、凛太郎は速射してしまったのだ。しかし、麻奈未はニッコリして応じた。
(麻奈未さん、そこまで連絡しなかった事を申し訳なく思ったのだろうか?)
凛太郎は、麻奈未が優菜と岸森真実のなりすましに対抗意識があるのを知らない。
(でも、嬉しかった……)
結局のところ、凛太郎は満足していた。しかもその後も、心ゆくまで妊活に励めたのだ。
「早く子供欲しいね」
湯船で上気した顔を緩めて、麻奈未が言ったので、凛太郎は更に寝室でも張り切ろうと思ったのだが、
「ごめん、明日早いから」
それはあっさり断わられてしまった。
(麻奈未さんの気持ちがわからない)
また不安になる凛太郎であった。一方、麻奈未は、
(まずかった……。岸森真実のなりすまし女がトイレで吐いたっていうのも、頷ける)
凛太郎を先に浴室から出して、浴槽をシャワーで洗いながら回想していた。
(でも、これで私は優菜さんともなりすまし女とも並んだはず。優位にはなれていないかも知れないけど)
まだまだ対抗意識剥き出しの麻奈未である。