ジョーカー
麻奈未はフロアに着くなり、
「伊呂波坂、一緒に来てくれ」
統括官の織部に言われ、部長室へ向かった。途中で中禅寺茉祐子と充も合流して、尼寺のいる部長室へ着いた。
「まあ、かけてくれ」
尼寺は自席の回転椅子から立ち上がって、麻奈未達にソファを勧めた。麻奈未達は一礼して織部と麻奈未、中禅寺夫妻とに別れて二人掛けのソファにそれぞれ腰を下ろした。
「まずは、中禅寺からの報告を頼む」
尼寺が一人掛けのソファに座りながら告げた。
「はい」
茉祐子が応じて書類を各自に配った。
「そこに書かれているように、出版社が送って来た原稿の下刷りは偽物でした。当の出版社に問い合わせたところ、そのような記事は出す予定がないと言われ、裏取りもした結果、四季島の手の者が独自に作成した偽りの原稿だということが判明しました」
麻奈未は目を見開いて、
「何故そんなすぐにわかる事をしたの?」
茉祐子は麻奈未を見て、
「これは私の推測ですが、伊呂波坂先輩を動揺させるため、そして、局長に出世を確約する事により、財務省全体の支配を強めるためだと思われます」
「財務省全体? それが最終的な狙い?」
麻奈未は茉祐子を見てから、尼寺を見た。
「記事が本物か偽物かはどうでもいい事で、意に添わない人間を追い落とすためには手段を選ばないのが、四季島のやり方だ」
尼寺は腕組みをして言った。
「という事は、真の狙いは事務次官ですか?」
織部が尼寺を見た。尼寺は頷いて、
「恐らくそうだろう。一之瀬さんは、実質的に剣崎を追い落とした張本人と見られている。一之瀬さんを退任に追い込み、政治家に与しない扱いにくい九条長官も降格。更には私もお役御免にして、局長が長官に、事務次官には言う事をよく聞く人間を据える。そして、功労者の兼守局長が国税庁長官に昇進して、自分の子飼いを査察部部長にする。全ては四季島の思惑だ」
「なるほど」
麻奈未は四季島の執念を感じて身震いした。
「四季島にそれ程の力があるのは何故ですか?」
麻奈未が尼寺に尋ねた。尼寺は腕組みを解いて麻奈未を見ると、
「財務省は一枚岩ではないからね。一之瀬さんが事務次官でいると都合が悪い連中がいるのさ」
「一之瀬さんが事務次官になった時、天下った同期の人達ですよね」
茉祐子が言った。隣の充は顔を強張らせている。
「そして、その下に連なっている者がいる。その一人が、兼守局長なのさ」
尼寺は肩をすくめてみせて、
「省内の栄枯盛衰は仕方がないにしても、今回の四季島のやり方は到底許せるものではない」
眉間にしわを寄せた。
「何とかならないんですか?」
ずっと黙っていた充が溜まりかねたように口を挟んだ。すると尼寺は、
「心配するな、代田。こっちにはジョーカーがいる」
チラッと麻奈未を見た。麻奈未はそれに気づいて苦笑いをした。
「ジョーカー、ですか?」
意味がわからない代田はポカンとした。隣の茉祐子はクスクス笑っている。
「多分、一番いいタイミングで動くと思います」
麻奈未は微笑んだ。
「はあ」
凛太郎は落ち込んでいた。岸森真実は全く以前と変わらない顔で出勤している。母親の綾子も何も気づいていない。真実が話すはずがない。彼女はこの状況を楽しんでいるのだから。凛太郎は麻奈未から聞いた真実の正体を半分信じられなかった。只のエロい女だと思っているのだ。その証拠に、綾子がちょっと事務所を出ていくと、途端に艶かしい表情で凛太郎を見て、
「先輩、またしてあげてもいいですよ」
すうっと背後に立ち、囁いて来た。
「お断わりだよ」
凛太郎は麻奈未が今度こそ許さないと言っていたので、毅然とした態度で告げた。ところが真実は、
「だったら、所長に言います。先輩に強姦されたって」
衝撃的な返しをして来た。
「えええ!?」
凛太郎がナイスリアクションだったので、真実はクスクス笑い出し、
「冗談ですよ。先輩の奥様、きっと激怒なさったんでしょう? 先輩の事だから、絶対に内緒にはできないですよね?」
「ぐ……」
図星なので、凛太郎は歯噛みした。麻奈未は真実の事は自分のせいだと謝罪してくれた。しかし、優菜との事は凍り付くような声で非難された。激怒はされていないが、麻奈未は妊活の中断を言い渡して来た。凛太郎にとってはそれの方がショックだった。
「私の目的は、奥様を苦しめる事です。先輩のご家族を不幸にするのは望んでいません」
真実の言葉は支離滅裂に思えた。凛太郎はムッとして、
「妻も家族だよ!」
奮戦とした。しかし真実は、
「もうすぐ家族ではなくなるでしょう?」
意味深な事を言った。
「え?」
凛太郎はギョッとした。
(麻奈未さんには、岸森さんの正体に気づいている事は悟られないようにしてって言われたから、うっかりした事は言えない)
真実は凛太郎が動揺していると思ったのか、
「おっと、これ以上は秘密でした。ごめんなさい」
チロッと舌を出した。凛太郎が言い返そうとした時、綾子が戻って来た。真実はすぐに業務を開始した。凛太郎も鞄を持って立ち上がり、
「行って来ます」
事務所を出た。
「行ってらっしゃい」
真実は笑顔で応じた。
「気をつけてね」
綾子は微笑んで応じた。
(また凛太郎、深刻な顔している時がある。本当に麻奈未さんとうまくいっているのかな?)
綾子は見当違いな事を心配していた。麻奈未とうまくいっていないのは事実であるが。
「先輩、お昼はどうするんですか?」
部長室を出てフロアに戻る途中、茉祐子が声をかけた。麻奈未は茉祐子を見て、
「今日は、聖生と会う約束をしているの」
「同席してはダメですか?」
聖生の親友である茉祐子がそう言うのは無理はない。しかし、今回は茉祐子に聞かれたくない相談内容なので、
「ごめん、ちょっとプライベートな話なので……」
やんわりと断わった。
「そうですか。すみません。ではまたの機会に」
茉祐子は何かを察したのか、ぼんやりしている充の耳を引っ張ると、廊下を速足で駆け去った。
(さすがに、凛君との事を中禅寺さんには聞かれたくないからなあ。ごめんね)
駆け去る茉祐子と充に手を合わせて詫びた。そして、実施部門のフロアに戻ると、バッグを持って局を出た。
(聖生は調査先からそのまま来るって言ってたな)
麻奈未は聖生に無理を言って、東京国税局近くの店に来てくれるように頼んだ。だから、遅れる訳にはいかないので、走った。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、聖生はまだ来ていなかった。
「お好きな席にどうぞ」
まだ空いているので、麻奈未は奥の席に座った。麻奈未が注文を終えた時、聖生が入って来た。
「ヤッホー、お姉」
見た目にも妊婦だとわかるくらいふっくらとして来た聖生は歩き方がゆっくりとしていた。
(あいつ、今でも大きいのに、出産が近づくと、もっと大きくなるのかな?)
麻奈未は巨乳の妹にジェラシーを感じた。凛太郎は「おっぱい星人」ではないので、麻奈未の胸に関しては何も不満はないのであるが、麻奈未はそうは思っていない。男は皆巨乳好きだと思っている。
「待った?」
聖生は慎重に椅子に腰を下ろした。
「私も今来たところよ。あんたより遅くなる訳にはいかないから」
「私はこの状態だから、こんな遠くまで来るの、結構大変なんだけどね」
聖生は大きな溜息を吐いた。
「悪かったわよ。でも、私もあまり遠くには行けないから。今度、埋め合わせする」
麻奈未が詫びた時、店員が近づいて来た。聖生は手早く注文をすませた。
「まあ、お姉が無理を言う時は、結構深刻な話だってわかっているから、そんな事は気にしてないよ。それより、相談て何?」
麻奈未は声を低くして凛太郎の事を話した。真実の事は抜きにして、優菜の事だけ。
「はあ。凛太郎さんて、サイコパスなのかな? そういうの、全然気にしないよね」
聖生は苦笑いをした。麻奈未はムッとして、
「凛君はサイコパスじゃないわよ! マザコンなだけ」
結局のところ、凛太郎はディスられた。
「優菜さんにも相当失礼な事しているの、わかってないみたいだし、お姉にも気遣いが皆無だよ。サイコパス予備軍だよ。矯正しないと、本物になっちゃうかもよ」
聖生が真顔で更に言うと、麻奈未は顔を引きつらせて、
「そうなのかな? 私が何とかしないといけないの?」
「取り敢えず、あんまり追い詰めない方がいいよ。妊活の中断は、凛太郎さんの逃げ場を奪ってしまうから、撤回した方が賢明だよ」
聖生がアドバイスをすると、麻奈未は俯いて、
「そうかあ。追い詰めると、凛君、暴走しちゃうかな?」
「暴走というか、迷走しそうな気がするね。気遣いができない割には、繊細だから」
聖生の凛太郎批判がやまないので、
「そこまで言わないでよ。凛君はマザコンで繊細なだけだよ」
麻奈未は凛太郎を庇ったが、マザコンは譲れないようだった。
「いずれにしても、凛太郎さんとの事は、お姉の度量次第なんだから、もっと年上の余裕を見せないと。凛太郎さんは筋金入りのマザコンなんだから」
聖生も凛太郎のマザコンは同意のようだ。
「わかった。妊活中断は撤回する。ありがとう、聖生。遠くまで来てくれて」
麻奈未は店員が置いていった伝票をスッと自分のそばに引き寄せた。
「いえいえ、どう致しまして」
聖生は微笑んで応じた。
四季島は南渋谷税務署の神宮真帆が連絡を絶って来たので、
(国税が動いて、真帆を保護したようだな)
想定内だと言わんばかりに悦に入った顔になった。
(伊呂波坂を苦しめる本命は、あの女の夫だ。一番の弱点だからな)
四季島の読みは当たっていた。麻奈未は自分のどの家族を攻められるより、凛太郎を攻められるのがきつい。
(真帆は前から抱きたいと思っていたから、それだけでいい存在だった。いくら昔のよしみだとはいえ、仮にも税務署の職員が言いなりになるとは思っていない)
四季島は真帆の身体が目当てだった。茉祐子が危惧していた事はその通りだった。しかも、四季島は離婚などしておらず、妻子は仙台に残して来ている。真帆は完全に騙されていたのだ。
「む?」
非通知の着信が入った。
(誰だ?)
四季島は通話を開始するかどうか考えた。
「総理がお呼びです」
その時、机の上のインターフォンが鳴り、部下が告げた。
「わかった、すぐ行く」
四季島は非通知の着信を無視して、部屋を出た。
「只今戻りました」
午後の顧客巡回を終えて、凛太郎が事務所に戻ると、
「お帰りなさい」
また真実しかいなかった。
「しょ、所長は?」
凛太郎は壁に張り付いて尋ねた。真実はフッと笑って、
「木場先生の事務所へ行かれました。そのままご帰宅されるそうですよ」
「そ、そうなんだ」
凛太郎は嫌な汗を掻きながら、自分の席へと進んだ。
「何を期待しているんですか? もうしてあげませんよ」
真実はニヤリとした。凛太郎は顔が赤くなるのを感じた。
「期待なんかしていないよ!」
鞄を自席の回転椅子に叩きつけ、凛太郎は怒鳴った。
「そうですかあ? あんなにいっぱい出したのに?」
真実は舌舐めずりをした。
「……」
凛太郎はその時の事を思い出し、顔面蒼白になった。
「飲み込むの、大変でしたよ。濃かったから」
真実はまた事もなげに言った。
「もしかして先輩、私が本気で自分の事を好きになったとか思っていないですよね?」
真実の顔が険悪なものになった。凛太郎は顔が引きつった。
「なる訳ないじゃん、あんたみたいなマザコン。キモいわ」
真実は鼻で笑った。
「そっか、奥様はしてくれないんですか? だから、私がしたのを見て、俺の事好きなんじゃないかって勘違いをしたんですね?」
凛太郎はギクッとした。半分当たっているからだ。
(麻奈未さんはしてくれた事はない。そもそも、そういう事をしてくれないし、飲むなんてとんでもないと思っているはず)
真実は脚を組んで、
「はっ、思い上がるなよ、マザコン。あんたなんか、眼中にないわ。最初に言った通り、私の本命はあんたの父親だよ。木場隆之助なら、愛人になってもいいと思っているよ」
凛太郎は絶句した。真実は更に、
「あんたがあまりにも早くて、喉の奥まで飛ばしたから、飲むしかなかったんだよ。あの後、トイレで全部吐いたけどね」
残酷な現実を告げた。凛太郎は機能を停止したように動かなくなった。
「さてと。所長には、あんたが帰ったらあがるって伝えてあるんで、そろそろ帰るね」
パソコンの電源を落とした真実はハンドバッグを持つと、
「お先に失礼します、マザコンさん」
捨て台詞を吐いて事務所を出て行った。凛太郎のメンタルは崩壊寸前だった。
(岸森さん、君は一体どういう人間なんだ?)
凛太郎は椅子に崩れ落ちるように座った。




