表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/23

後手後手の男

「只今帰りました」

 まるで事務所に帰った時のように凛太郎は言い、玄関に入った。

「お帰り、凛君。遅かったね」

 定時で帰宅した麻奈未が出迎えてくれた。凛太郎は優菜と話した事で麻奈未との対面ができた。ファミレスを出た後、凛太郎は優菜とバーに行った。いつになくはしゃぐ優菜を見て、凛太郎はホッとしていた。優菜もそうだが、凛太郎も優菜に酷い事をしたと思っているのだ。

(俺は優菜さんの思いを知りながら、それに気づかないふりをして麻奈未さんと恋人になった。優菜さんが料亭であんな事をした原因は俺にあるんだ。俺のせいなんだ)

 凛太郎は優菜の行為を正当化していた。そうする事によって、真実にされた事を浄化しようと思っていた。

「すみません。ちょっといろいろありまして」

 凛太郎は、麻奈未が優菜と会っていたと知れば、気分を害すると思い、言わない事にした。

「あのね、凛君、ちょっと話があるんだけど」

 麻奈未は気まずそうに告げた。

「え?」

 凛太郎は、麻奈未がまだ黒田湊人との事を気に病んでいると思った。だが、

「今日、局長宛に写真週刊誌の編集部から、原稿が届いたの」

「写真週刊誌?」

 凛太郎はギクッとした。

「一つは私と湊人君の写真だった。そしてもう一つは……」

 麻奈未が凛太郎を見て、

「凛君と岸森真実さんのものだったの」

 凛太郎は予想の遥か上をいく展開に絶句した。

(俺と岸森さんの写真?)

 途端に全身の毛穴から汗が噴き出した。一瞬にして、バーで飲んだカクテルが身体から抜けていくのを感じた。

「岸森さんとの写真てどんな写真ですか?」

 凛太郎は激しく動揺しながら尋ねた。麻奈未は俯いて、

「凛君と岸森さんが腕を組んで歩いている写真だったわ」

「え?」

 凛太郎は妄想が先走りし過ぎているのを後悔した。真実に襲われたのは今日の事だ。それが写真週刊誌に伝わるのはいくら何でも早過ぎる。

「ねえ、凛君、何があったの? 凛君は何も言ってくれなかったよね? 私は湊人君との事を話して、謝罪したのに」

 麻奈未はつい語気を荒らげた。時間的に言って、湊人とあった同じ日に、凛太郎は真実と腕を組んで歩いていた。自分は湊人との事を話して詫びたのに、凛君は何も話してくれなかった。麻奈未の両目から涙が溢れ出た。

「わわ!」

 それに気づいた凛太郎は慌てた。そして、

「申し訳ありませんでした!」

 凛太郎は玄関を上がると、その場で土下座した。

「言おうと思っていたのに、言い出せなくて、その、次は許さないって麻奈未さんに言われたのを思い出して……」

 凛太郎も涙をこぼしていた。

「え?」

 麻奈未は凛太郎にそんな事を言ったのをすっかり忘れていた。凛太郎に言われて、その時の記憶が甦った。

「ごめん、凛君。私が悪かったんだね。そんな訳ないよ、許さないなんて、私、それ程了見が狭い女じゃないから。それに今回の事は、私のせいなの」

 麻奈未の言葉に凛太郎がピクンと反応した。

「私のせい?」

 凛太郎は真実の「奥様のせい」という言い回しを思い出した。

(麻奈未さんのせいってどういう事?)

 麻奈未は涙を拭って、

「岸森さんは、査察部の同僚が調査した結果、四季島と繋がりがあるってわかったの」

「シキシマ?」

 政界に疎い凛太郎はその名に聞き覚えがなかった。麻奈未はハッとして、

「ああ、四季島というのは、四葉総理の秘書の名前よ。その男は、元は剣崎前総理の仙台事務所の事務員だった男なの」

「剣崎? 四葉総理?」

 いくら政界に疎い凛太郎でも、剣崎と四葉には聞き覚えがあった。

「四季島は、私に個人的な恨みがあって、私を陥れようとしているらしいの。だから、今回の件は、私のせいなの。ごめんなさい、凛君」

 麻奈未に頭を下げられた凛太郎はバツが悪くなった。

(まずいな……。岸森さんとのその後の事を言い出しづらくなって来た)

 凛太郎は上目遣いでこちらを見ている麻奈未の顔をまともに見られなくなった。

「どうしたの、凛君?」

 麻奈未は凛太郎の反応を怪訝に思い、訊いた。凛太郎はここで言わないとまた同じ事の繰り返しになると思い、

「ええと、実は……」

 意を決して真実との事を話した。麻奈未は見る見るうちに顔を強張こわばらせ、黙り込んだ。しばらく、二人共何も言わずに時間だけが過ぎた。

「はあ……」

 麻奈未が大きな溜息を吐いた。凛太郎は彼女が呆れてしまったと思った。

(今度こそ、ダメだ。離婚される……)

 怖くなって目をぎゅっとつむった。

「ごめんなさい、凛君。それも私のせいね。岸森さんは凛君が何もできないのをいい事に、そんな事までしたのね」

 凛太郎は麻奈未の反応に驚き、目を開いた。そこには泣いている麻奈未がいた。

「いや、俺が情けないからです。そんなの、拒否すればよかったんです」

 凛太郎は麻奈未が号泣しているので、申し訳なくなって言った。

「凛君……」

 麻奈未は凛太郎を見た。涙で濡れた瞳がジッと彼を見つめている。

「麻奈未さんは何も悪くないです。悪いのは、そのシキシマとかいう奴です」

 凛太郎は麻奈未を抱きしめた。

「ありがとう、凛君」

 麻奈未も凛太郎を抱きしめ返した。二人はしばらくそうしていたが、

「凛君、それっていつの話?」

 不意に麻奈未が冷静な声で尋ねた。

「え? あ、あの、午後の話です。お昼を食べて、事務所に戻って……」

 凛太郎は麻奈未がすっかり冷めているのに気づき、ビクッとして彼女から離れた。

「じゃあ、どうして今日は遅くなったの?」

 麻奈未は半目になっていた。完全に疑っている目だ。

(まずい。優菜さんとバーに行った事を隠そうとしたから、時間的に辻褄が合わなくなってしまった)

 話の順番として、真実との話の後に、優菜が登場するのはおかしい。隠したのがバレバレの上、疑念をいだかれる。

(でも、隠した事を正直に話さないと、ずっと疑われてしまう。ここはとにかく、土下座だ)

 凛太郎はまた土下座をした。

「どうしたの?」

 麻奈未の声は冷たかった。凛太郎は土下座をしたままで、

「その、偶然、優菜さんと会って、岸森さんとの事を相談しました。そして、そのお礼にバーへ行きました」

「ふーん」

 麻奈未の冷たい声が応じた。そして、どんと音がした。

「今夜は、ソファで寝てね。私、ちょっと冷静になりたいから」

 麻奈未はそれだけ告げると、寝室へ歩いて行った。

(ひいい!)

 凛太郎は土下座をしたままで震えた。

(今は何を言っても言い訳にしかならない。今日はソファで寝よう)

 凛太郎はしょんぼりとして、リヴィングルームに入った。


(何なのよ、一体!?)

 麻奈未はベッドに入っても寝付けていなかった。

(どうしてりにって、優菜さんなのよ!? 岸森さんとの事を相談したってどういう事? 優菜さんだって、そっち側の人だったんでしょ? 凛君の気が知れない)

 麻奈未はどんどん目が冴えてくるのがわかり、イライラが増した。

(しかも、相談しただけじゃなくて、そのお礼でバーに行ったってますます理解不能だわ! 許せない! 離婚よ!)

 麻奈未は激怒していた。しかし、

(ダメだ、離婚できない……)

 婚姻届に証人として署名してくれた尼寺部長と織部統括官の事を思い出した。

(一年もたずに離婚だなんて、お二人に申し訳なくてできない……。離婚は諦めよう)

 麻奈未はベッドから起き上がった。そして、リヴィングルームで寝ているはずの凛太郎の様子を見に行った。

(きっと、メソメソ泣いているはず)

 麻奈未は凛太郎の情けない姿を見て溜飲を下げようと思った。

「え?」

 リヴングルームの前まで来て、麻奈未は高鼾たかいびきを掻いて寝ている凛太郎に気づいた。

(こいつ、何寝てるのよ!? どういう神経しているの!?)

 麻奈未は感情が抑えられなくなった。

「バカ!」

 ソファの上で気持ちよさそうに眠りに就いている凛太郎の顔を平手打ちした。

「ふが」

 凛太郎は鼾を止めたが、目を覚ます事はなく、また鼾を掻き始めた。麻奈未は殺意が湧いてしまった。

「こいつ!」

 今度は鼻を強く摘んだ。

「ホガホガ」

 凛太郎は苦しそうに顔を歪めたが、目は覚さなかった。

(憎らしい! 安眠しているのが許せない!)

 麻奈未はもう一度さっきより強く頬を平手打ちした。

「がほっ!」

 今度は目を覚ましたようだった。麻奈未は素早くリヴングルームから出た。

「ほえ?」

 寝ぼけまなこで周囲を見渡した凛太郎は、誰もいないので首を傾げて、また眠りに就いた。麻奈未は寝室に戻り、気持ちが落ち着いたので、就寝できた。


 麻奈未はぐっすり眠れたので、いつもより早く目が覚めた。

「あら?」

 寝室を出ると、キッチンの方からいい匂いがして来た。洗面所で洗顔を済ませてから、ダイニングへ向かった。

(凛君?)

 凛太郎が昨日の事を埋め合わせるつもりか、朝食を作っているようだ。

(そんな事で許したりしないけどね)

 麻奈未はむしろ腹が立って来た。優菜との事を何も話さずに濁して終わらせようとする気がしたのだ。

「おはようございます、麻奈未さん」

 凛太郎は昨日のスーツのままで、テーブルに二人分の朝食を並べていた。白飯に味噌汁、焼きサバ、手作りのサラダ。かぐわしい香りの日本茶も淹れている。

(私が作るものより手が混んでいるのも返ってムカつく)

 麻奈未は作り笑顔でダイニングルームのテーブルに着いた。

「おはよう、凛君。どうしたの?」

 目が笑っていない笑顔で尋ねた。凛太郎はそれに気づいて、

「いや、その、昨日の事のお詫びも兼ねて、用意しました」

 顔を引きつらせた。

「あっ、そう。でも、私、まだ何も説明を受けていないんだけど」

 麻奈未は凍りつきそうな冷たい口調で応じた。

「あ、その、ええと、説明させてください」

 凛太郎は麻奈未の横に立つと、深々と頭を下げた。

「わかりました。お願いします」

 麻奈未は朝食を見渡しながら告げた。凛太郎は深呼吸をしてから、優菜に相談した理由、バーに行った理由を話した。

「成程。優菜さんなら、岸森さんの考えがわかるのではないかと思って、相談したと。そして、私に顔を合わせるのが気まずくなったので、バーに行って時間を潰したと」

 麻奈未は全然納得がいかなかったが、凛太郎が誤魔化そうとしていないのは理解した。

「はい。でも、明らかに浅はかでした。その時は最善の策だと思い込んでしまって、自分がどれだけ愚かなのかを考える事もできませんでした」

 凛太郎は消えてなくなりたいと思っていた。

「申し訳ありませんでした! 許してくださいとは言いません! でも、どうか、どうか、離婚だけは勘弁してください!」

 凛太郎はその場で土下座をした。麻奈未は長めの溜息を吐いてから、

「離婚は考えていません。そんな事をしても、私には何一ついい事なんてありませんから」

「え?」

 凛太郎はギョッとして顔を上げた。麻奈未はキッとして凛太郎を睨みつけると、

「離婚する代わりに、しばらく妊活は中断します。寝室で寝るのは許可しますが、私のベッドに入って来るのは厳禁します」

「えええ!?」

 凛太郎にとって、それは離婚以上に衝撃だった。

「そ、そんなあ……」

 彼はがっくりと項垂れた。

(何よ、もう。結局、私の身体が目当てなんじゃない)

 麻奈未は最初にうまくいった時の事を思い出した。

(あの時の凛君は、まるでケダモノのようだったわ)

 痛い思いをしたので、よく覚えている。

「ご馳走様でした」

 麻奈未は淡々と朝食を食べ終えると、食器を片付けた。

「ああ、俺がやります!」

 凛太郎が立ち上がったが、

「結構です。今後しばらく、私のものには触らないでください。自分の事は全部自分でしますので」

 麻奈未はガツンと告げると、キッチンで洗い物をすませ、寝室へ戻って行った。

「はああ……」

 凛太郎はまた項垂れた。


(やり過ぎたかな?)

 寝室でパジャマからスーツに着替えながら、麻奈未はふと思ったが、

(こういうのは、初めが肝心だから、ちょっと強めがいいはず)

 凛太郎にはいい薬だと考えた。

(でも、第三者の意見も聞いておこうか)

 昼休みに聖生に連絡する事にした。

 結局、麻奈未はその後は凛太郎と一言も話さずに家を出た。凛太郎も麻奈未の「話しかけるな」オーラに恐れをなしたのか、何も言って来なかった。

(やっぱり、何も話さないのはよくなかったかな?)

 根は優しい麻奈未は、またそんな事を考えてしまった。

(いやいや、そんな事はない。凛君はこれで二度目なんだし、優菜さんとの事を黙っていたのは、考えようによっては浮気に値するものよ。そもそも、あれ程怖がっていた優菜さんに相談して、バーに飲みにいくなんて、言語道断!)

 地下鉄の駅の階段を駆け下りながら、麻奈未はハッとした。

(私、優菜さんに嫉妬しているんだ。相手が優菜さんだから、余計に許せないんだ)

 『私、それ程了見が狭い女じゃないから』などと偉そうな事を言っておきながら、最終的には凛太郎を追い詰めてしまった。

(その事も含めて、聖生に相談しよう)

 妹の判断に委ねる事にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ