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狡猾な罠

(嘘、あれ、湊人君?)

 麻奈未は小次郎に導かれるまま、フレンチレストランに入っていた。そして、VIPが使う個室に通され、そこに待っていた黒のスーツに身を包んだ人物を見て、歓喜していた。

「お初にお目にかかります。黒田湊人です」

 その笑顔を見て、麻奈未は大学時代に戻っていた。叫んだりはしなかったが、身体が震えていた。当時、発売される「湊人グッズ」を買い漁り、ライブには都合がつく限り行った。今となっては懐かしい思い出なのだが、本人を目の前にすると、思い出では収まらない感動が湧いてきていた。

「先程、兄から聞きました。僕のファンの方なのですよね?」 

 湊人は当時のままの容姿を保っており、まるでタイムスリップして来たかのようにそこに存在している。麻奈未は自分が国税局査察部所属だと忘れてしまうくらい、舞い上がっていた。

「とても嬉しいです」

 湊人は麻奈未に近づくと、スッとその右手を取り、抱き寄せた。

「あ……」

 麻奈未は抵抗する事もせず、湊人に身を委ねた。

「ささやかですが、貴女のためにディナーを用意しました。お口に合うかわかりませんが、よろしかったらどうぞ」

 湊人は麻奈未を席にエスコートし、椅子を引いた。麻奈未は夢うつつの状態で着席した。

(何これ? どうなっているの? 私、夢を見ているの?)

 麻奈未はぼんやりとした目で湊人を見ていた。


「え? 先輩が?」

 中禅寺茉祐子は国税局の建物を出た時、夫で部下の充から連絡を受けていた。

「はい。高級フレンチの店に連れて行かれました。あそこは会員制なので、入る事ができません。どうしますか?」

 充はお手上げ状態だった。茉祐子は一瞬考え込んだが、

「わかった。ちょっと待ってて、何とかする」

 一旦充との通話を切り、誰かにかけ直した。

「中禅寺です。伊呂波坂先輩が会員制のフレンチレストランに連れて行かれました。お力を貸してください」

 茉祐子は事情を説明した。すると相手が何かを告げた。茉祐子はそれを黙って聞いている。

「わかりました。部下に伝えます。ありがとうございました」

 茉祐子は通話を切り、また充にかけた。

「はい」

 充はワンコールで出た。

「うまくいったわ。壱子さんの名前を出せば、顔パスよ。十分後にもう一度そのレストランへ行って」

 茉祐子から意外な名前を告げられ、充は目を見張った。

「壱子さんて、まさか、あの……?」

「そうよ。あれ以来、お友達になったの」

 茉祐子はフッと笑った。

「茉祐子さん、凄いっす! 尊敬です!」

 充は感激していた。

あがたてまつりなさい」

 茉祐子はおどけてみせた。

「ははーっ!」

 充がそれに乗って応じた。


(麻奈未さん、どうしたんだろう?)

 事務所を出た凛太郎は麻奈未に電話をかけたり、ラインを送ったりしたが、何の応答もないので、不安になっていた。

(まさか、ストーカーに襲われたのでは?)

 嫌な妄想しかできなくなった凛太郎は、麻奈未のスマホの位置情報を探ろうと思い、アプリを起動したが、麻奈未のスマホは電源が切れているらしく、情報が入って来なかった。

(ダメだ。どうすればいい?)

 凛太郎は藁にもすがる思いで、聖生に連絡した。

「はいはーい。どうしました、お義兄さん?」

 聖生は凛太郎の不安を知らないので、陽気に応答した。

「聖生さん、麻奈未さんに連絡がつかないんです。スマホの位置情報も掴めなくて……。どうしたらいいかわからないんです」

 凛太郎は泣きそうな顔で告げた。


 アパートに帰り着いていた聖生は姉が音信不通だと知り、すぐに全てを察した。

「わかりました。任せてください。すぐにつてを辿ってみますから」

 聖生は通話を終えると、茉祐子に連絡した。

「はい、茉祐子です」

 茉祐子はすぐに出た。まるで待っていたかのような速さだったので、

「茉祐子、お姉が音信不通らしいの。何か知らない?」

 聖生は一気に捲し立てた。

「先輩はフレンチレストランにいるわ。充が見張っているから、安心して」

 茉祐子の返事に聖生は眉をひそめて、

「え? どういう事?」

 茉祐子は事情を説明した。聖生は話を聞いて、

「大丈夫なの? お姉は黒田湊人の事になると、正気を失うくらい舞い上がってしまうのよ?」

 麻奈未の黒田湊人好きを知っているので、返って不安になった。

「今のところ、危害を及ぼす恐れはないと思う。まだ、何が目的なのかよくわからないから、充にしっかり見張らせる。私も現場に向かうわ」

 茉祐子の言葉に聖生はホッとしたのだが、

「とにかく、凛太郎さんが動揺しているので、必ず助け出してね。お願い」

「任せて。ナサケを信じて、聖生ちゃん」

 茉祐子は力強い口調で言った。

「うん。信じてるよ、茉祐子」

 聖生は通話を切り、凛太郎にかけ直した。

「あ、聖生さん、麻奈未さんの居場所、わかりましたか?」

 凛太郎が食い気味に訊いて来た。聖生は苦笑いをして、

「ええ。お姉はレストランにいるそうです。茉祐子の旦那が見張っているので、安心してください、お義兄さん」

「レストランに? 見張っているってどういう事ですか?」

 凛太郎は混乱していた。

「詳しい事はまた後でお話しします。取り敢えず、心配は要らないです。では」

 まだ何か訊きたそうな凛太郎を無視して、聖生は通話を切った。

「どうしたの?」

 風呂から上がった大介が聖生に尋ねた。聖生は微笑んで大介を見ると、

「ちょっとね。後で話すから」

 大介を押し退けると、

「お風呂入ろっと!」

 浴室へと歩いて行った。

「え?」

 大介は聖生を態度に首を傾げた。


「はあ……」

 自宅へ道すがら、凛太郎は麻奈未の事を思って溜息を吐いた。

「どうしたんですか、先輩?」

 不意に背後から声をかけられて、

「え?」

 ビクッとして振り返ると、そこには笑顔の真実がいた。

「岸森さん、どうしてここに? 家は全然違う方角だよね?」

 凛太郎は顔を引きつらせて尋ねた。真実は笑顔のままで、

「先輩が深刻そうな顔で歩いているのを見かけて、心配でついて来ちゃいました」

 凛太郎の左腕に自分の右腕を絡ませて来た。

「あ、何?」

 凛太郎は慌てて真実の腕を振り払った。

「ひっどーい! 何ですか、その反応は? 後輩が心配しているのに」

 真実は口を尖らせた。

「ひどいも何も、俺は妻帯者なんだからさ、そういうの、やめてくれないかな?」

 凛太郎はムッとして真実を見た。

「別に腕を組むぐらい、いいじゃないですか? もしかして、他の女性と腕を組んだだけで離婚されちゃうとかですか?」

 真実はヘラヘラしながら凛太郎を見上げている。凛太郎は顔が火照るのを感じた。

「離婚なんてならないけど、いずれにしても良くないと思うんだ、俺と岸森さんが腕を組むのはさ」

 凛太郎は顔が火照っているのを真実に知られたくないので、顔を背けた。

「という事は、先輩は私を意識しているって事ですか?」

 真実はニヤニヤしている。

「違うよ! どうしてそうなるんだよ!?」

 凛太郎の声が大きかったので、周囲を歩いている人達が一斉に二人を見た。

「あ……」

 凛太郎はそれに気づき、顔を更に熱くしてしまった。周囲の人達は、恋人同士の痴話喧嘩だと判断したのか、クスクス笑いながら歩き去った。

「残念ながら、私は先輩くらいの年代の人は眼中にないんです。むしろ、先輩のお父様がストライクゾーンですので」

 真実はニコッとして告げた。凛太郎は唖然としてしまった。

(この子、まさか本気で父さん狙いなのか? 母さんが知ったら、大変だぞ)

 真実は凛太郎の反応などお構いなしで、

「だから、こんな事しても、何ともないんです」

 また凛太郎に腕を絡ませて来た。

(おちょくられてるのか、俺?)

 凛太郎は振り払う気力もなくなっていた。ところが、

「何だか、先輩って、真面目過ぎてつまらないですね。がっかりです」

 真実は不意に腕を解いて離れた。

「じゃあ、また明日」

 彼女はにこやかに告げると、駆け去ってしまった。

「はあ……」

 凛太郎はようやく解放されたと思い、安堵の溜息を漏らした。

 

(私、幸せだ)

 麻奈未は憧れの黒田湊人と二人で会食している事を現実だと理解し、喜んでいた。夫の凛太郎に対する後ろめたさはない。これは浮気ではない。アイドルとの夢にまで見た食事。男女の関係ではなく、一ファンとしての関係なので、何もやましい事はない。半分言い訳であったが、そう思っていた。

(私、それくらい頑張って来たよね)

 麻奈未は自分でも驚く程、自己弁護を繰り返していた。

「すみません、時間です。そろそろ出ましょうか」

 湊人が微笑んで告げた。

「あ、はい」

 妄想を破られて我に返った麻奈未は慌てて応じた。

「行きましょうか」

 湊人は麻奈未の右手を取り、更にスッと彼女の腰に腕を回して歩き出した。

(ああ、湊人君を独占している)

 麻奈未はまた恍惚としていた。二人は個室を出て、たくさんの客がいる大広間を抜け、店の外へと出た。

(先輩、何か飲まされたのか?)

 柱の陰から二人を見ている充は、麻奈未の様子がおかしいのでそんな事を考えてしまった。別の場所から麻奈未達を監視していた小次郎は、四季島に連絡を取っていた。

「うまくいきました。完璧です。国税のネズミがうろちょろしていましたが、何も問題ありません」

 小次郎は不適な笑みを浮かべて四季島に報告していた。

「そうか。これで伊呂波坂麻奈未はマルサにいられなくなる」

 四季島の声が言った。

「最後の仕上げにかかります」

 小次郎はスマホを切り、麻奈未達を追いかけた。充も麻奈未達を追いかけた。

「きゃっ!」

 麻奈未は舗道への階段を踏み外し、転びそうになった。

「危ない!」

 咄嗟に湊人が麻奈未を抱き止めた。二人の顔が接近し、麻奈未は赤面した。

「あ、ありがとう、湊人君」

 麻奈未は恥ずかしさのあまり、俯いた。

「いいえ。お怪我はありませんか?」

 湊人が耳元で訊いた。

「だ、大丈夫です」

 麻奈未は湊人から離れて応じた。

「今日は楽しかったです。またお会いできますね?」

 湊人の笑顔に麻奈未は心臓を撃ち抜かれたような気がした。

「もちろんです」

 彼女は大学時代の自分に戻っていた。熱心な湊人のファンに。

「では、また」

 湊人は麻奈未に手を振ると、歩き去った。

「ああ、湊人君……」

 麻奈未は追いかけたくなったが、踏み留まった。視界の隅に、充を見つけたからだ。

(どうして彼が?)

 麻奈未は少しだけマルサの自分を取り戻していた。


「兄さん、もう嫌だよ。僕は降りる」

 黒塗りの高級車の後部座席で、湊人は言い放った。

「バカを言うな。今更、善人ぶるんじゃないよ。お前はこれから伊呂波坂麻奈未を籠絡して、最終的には肉体関係も持つんだからな。それを望んだのはお前だぞ」

 運転席の小次郎が怒気を含んだ声で言い返した。

「確かに、あの美人とそういう関係になりたいとは言ったけど、四季島さんの命令で動くのは嫌なんだよ。あの人、イカれているから」

 湊人はネクタイを緩めながら吐き捨てた。

「失礼な事を言うな。四季島さんのお陰で、お前はアイドルになれたんだぞ。あの人がいなければ、お前は仙台の繁華街のキャバクラのボーイで終わっていたんだ」

 小次郎はルームミラー越しに(湊人)を見た。

「それは感謝しているけど、今やらされている事は、納得できないんだよ。剣崎なんていう爺さんの復讐のために利用されているのが我慢ならない」

 湊人はネクタイを振り解き、座席に叩きつけた。

「仕方ないんだよ。そもそも、剣崎先生のお陰でもあるんだから、俺達も恩返しをする必要があるんだ」

 小次郎は前を見た。湊人は何も言わずに窓の外を見た。


 麻奈未は充に声をかけようと近づいた。すると、別の方向から茉祐子が現れた。

「中禅寺さん……」

 麻奈未は茉祐子の登場に目を見開いた。

「ご無事で何よりです」

 茉祐子は微笑んだ。

「え? どういう事?」

 麻奈未は茉祐子と充を交互に見た。

「取り敢えず、車へどうぞ。お話がありますので」

 茉祐子に誘導されて、麻奈未は充が運転する国税局の車に乗った。

「黒田湊人は四季島の配下です。貴女を陥れるために近づいたのがわかっています」

 茉祐子は前を向いたままで告げた。

「ええ!?」

 湊人君が私を陥れる? にわかに信じがたい事を言われて、麻奈未は動揺した。

「何を企んでいるのかまではわかっていませんが、黒田兄弟が骨の髄まで四季島に染まっているのは明白です。次に接触して来たら、絶対に応じないでください。どれ程魅力的な事を言われたとしても」

 茉祐子は聖生から、

「お姉は黒田湊人の事になると、正気を失うくらい舞い上がってしまうのよ」

 そう教えられているので、強い言葉で伝えた。

「そんな……。信じられない……」

 麻奈未の言葉に茉祐子は溜息を吐き、

「ダメですよ、その見方は。いつもの冷静沈着な先輩に戻ってください。聖生ちゃんの言った通りですね。黒田湊人の事になると、先輩は正気を失うくらい舞い上がってしまうのですね」

 麻奈未を見た。

「あ……」

 麻奈未は茉祐子の言葉で自分が何をしていたのか理解した。そして、スマホを取り出して、凛太郎からの着信がたくさんあった事に驚いた。

「凛君……」

 一気に後ろめたい気持ちが大きくなり、麻奈未は俯いた。

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