探り合い
「そうか。成程」
中禅寺茉祐子から、南渋谷税務署の神宮真帆を保護した報告を受けた織部統括官は、回転椅子に沈み込んだ。
「伊呂波坂先輩にも話したのですが、どうにも合点がいかないのです」
茉祐子は、四季島が背後にいるのであれば、真帆をこんな簡単にこちらに渡すはずがないという論調だ。織部は腕組みをして、
「確かに、神宮に近づき、肉体関係まで持ったのに、彼女に何もさせていないのは不自然だな」
「只単に神宮さんの身体目当てだったのだとしたら、下衆過ぎです。彼女はずっと以前から四季島に恋心を抱いていたようですから」
茉祐子は国税局の会議室で真帆から四季島との関係を聞き出した。その話は、どちらかといえば冷静な茉祐子でも、涙ぐんでしまう程、純愛だった。真帆の四季島への思いが伝わって来て、ますます四季島を許せなくなった。
「ですから、一度リセットしてみました。そして、ある結論に至ったんです」
茉祐子は織部をまっすぐに見た。
「結論?」
織部は眉をひそめた。茉祐子は大きく頷いて、
「はい。神宮さんへのアクションは、フェークなのではないかと」
「フェーク? どういう事だ?」
織部は腕組みを解いて身を乗り出した。
「まさにマジシャンがよくやる方法です。観客の視線を見て欲しくないものから逸らさせるために大袈裟に手を動かしたりする、あれです」
茉祐子の言葉に織部は目を見開いた。
「我々は騙されたという事か?」
茉祐子はまた大きく頷き、
「まあ、騙されたという程ではありませんが、無駄足を踏まされた感じではあります」
「では、本命が別にあると?」
遂に織部は立ち上がった。
「はい」
茉祐子は小さく頷いた。
「はあ……」
綾子は自分の席の回転椅子にぐったりと座っていた。大下と話し合ったのだが、会話が全く噛み合わず、大下は自分はこれだけ努力しているの一点張りで、反省するどころか、綾子や凛太郎を責め始めた。綾子は強制的に大下の言動を遮ると、今日は帰るように諭した。大下は涙ぐみながらも、事務所を出て行った。その一部始終を見ていた岸森真実は、
「大下さんて、見かけより子供なんですね」
ボソリと言った。凛太郎は真実のあまりにも客観的な意見に引いてしまった。
「岸森さんは大下君の事をどう思う?」
綾子は苦笑いをして真実に意見を求めた。真実は綾子を見て、
「大下さんはマザコンではないかと思います。自立ができていないようです」
凛太郎と綾子は「マザコン」というワードにギクッとした。
「え? マザコン? どういう事かしら?」
綾子は顔を引きつらせて尋ねた。真実は綾子に近づくと、
「所長への言葉遣いと先輩への言葉遣いから、明らかに先輩を下に見ているのがわかりました。かといって、所長を上司として見ているかというとそうではなく、母親として見ていると感じました。ですから、マザコンではないかと思うのです」
凛太郎は真実の言葉にショックを受けていた。
(岸森さんも、大下が俺を見下していると思っていたのか……)
綾子は顔を引きつらせたままで、
「成程、貴重な意見、ありがとう。参考にするわ」
チラッと凛太郎を見た。
(な、何だよ、母さん、その目は!?)
凛太郎は敏感に反応した。
(こちらの思惑通り、食いついてくれて、感謝だな)
四季島はまさに悦に入っていた。茉祐子の読み通り、真帆との関係は誘導だった。
(本命はあくまで伊呂波坂麻奈未。あの女の破滅こそが目的だ)
四季島の目は狂気を帯びていた。
(うまくやれよ)
四季島は官邸の控室の窓から外を眺めた。その時、ドアがノックされた。
「入りなさい」
四季島の声に応じて、若い部下が入って来た。
「そろそろ準備はいいか?」
四季島は無表情な顔で部下を見た。
「はい、いつでもいけます」
部下は爽やかな笑顔で告げた。
「ならば、手筈通り、伊呂波坂麻奈未を陥れろ」
四季島も笑顔で返した。
「はい」
部下は一礼して控室を出て行った。四季島は再び窓の外を見た。
(部下のスキャンダルで転げ落ちてもらうぞ、一之瀬)
四季島は一之瀬財務事務次官をも陥れようとしていた。
「一体、何の用でしょうか?」
織部統括官は、尼寺部長と共に局長室へ向かっていた。
「さあね。新任の局長への挨拶がないと言いたいのかも知れんよ」
尼寺は肩をすくめた。
「四季島を調べている事に何か言いたいのではないでしょうか?」
織部は前を向いたままで呟いた。
「それもあるかも知れないが、ならば、ナサケの統括官を呼ばないのはおかしい。まあ、よくわかっていないのだろう」
尼寺は苦笑いをした。そして、目の前の「局長室」のプレートが着いているドアをノックした。
「入りたまえ」
中から甲高い声が聞こえた。尼寺と織部は顔を見合わせてから、
「失礼します」
ドアを開いて中に入った。中にいたのは、四季島が四葉大二郎総理大臣にゴリ押しして局長になった兼守乙彦がいた。黒のスーツに紺のネクタイをしている。痩せ型で、髪をセンター分けしていて目が吊り上がっている。誰が見ても善人には見えないと尼寺は心の中で思った。
「やっと来てくれたね。君達は僕の事が嫌いのようだね」
相変わらず甲高い声で兼守は皮肉を言い、自席から立ち上がると、ソファを手で示し、自分は一人がけに座った。
「滅相もありません。ご挨拶に伺うのが遅れたのはお詫びします」
尼寺は織部と一緒に頭を下げた。
「まあ、座って。話は長くなるから」
兼守は口をへの字にして自分の感情を表現すると、二人を見上げた。
「はい」
尼寺と織部は二人掛けのソファに並んで座った。兼守は腕組みをして二人を見比べながら、
「どういうつもりかね? 私を飛び越えて、長官とやりとりしているのは?」
予想とは違った事を尋ねて来た。
「長官と、ですか? 身に覚えがありませんが?」
尼寺は微笑んで応じた。しかし、兼守は、
「この期に及んで、シラを切るつもりか!? 惚けても無駄だぞ。前任の局長の時も、度々頭越しに話をされたとの情報も入って来ているんだ! 組織を何だと思っているんだ!」
耳障りな声で怒鳴った。
「それは更に身に覚えがありません。確かに前任の局長とは意見が相違した事が何度かありましたが、長官に直接話をした事はありません」
尼寺は臆する事なく毅然とした態度で反論した。兼守は尼寺が反論するとは思っていなかったのか、口をパクパクさせていたが、
「もういい! 時間の無駄だったようだ。業務に戻りたまえ!」
ソファから憩いよく立ち上がると、自席へ大股で歩き、回転椅子にドスンと腰を下ろすと、背を向けた。尼寺と織部は顔を見合わせてから、ソファから立ち上がると、
「失礼します」
一礼をして、退室した。
「結局、用はなかったようですね」
織部がボソリと言った。
「まあ、そんなものだよ」
尼寺は織部の肩を軽く叩いた。
「何よ、こんな時間に?」
綾子は隆之助からのいきなりの電話に驚き、事務所を出てビルの廊下の隅へと移動していた。
「こんな時間だからだよ。大下はどうなったんだ?」
隆之助の声は荒々しかった。綾子は隆之助が不機嫌なのを感じ取り、
「大下君には辞めてもらうわ。今日は帰ってもらったの」
「そうか。それならよかった。凛太郎が酷く気にしていたからな」
隆之助の言葉に綾子はムッとして、
「凛は貴方に告げ口したの?」
「告げ口ではないよ。相談して来たんだ。母さんが大下にメロメロだってね」
隆之助の口調は綾子をからかっているように聞こえた。
「メロメロって、そんなはずないでしょ? それはまあ、私は好印象だったのは認めるけど、さっき話した限りでは、自己中心的で自分に非があるとは全く思っていない傲慢なところがあるのがはっきりしたので、もうこれ以上働いてもらうのは無理だと判断したの」
綾子はそこまで一気に告げると、
「凛たら、ヤキモチ妬いていたのね。母さんを盗られたって」
ムスコンを発揮し始めた。
「違うだろう? 凛太郎は事務所の行く末を案じていたんだよ。そんな個人的な事じゃない」
隆之助は綾子の悪い意味でのポジティヴさを嗜めた。
「はいはい。貴方も同じなのね。愛妻を盗られそうだと思ったんでしょ?」
綾子の前向きな思考は止まらなかった。
「どこをどう押すとそういう発想になれるのか、理解できないな。まあ、取り敢えず、大下を解雇するのであれば、私は何も口出しする気はないよ」
隆之助の反応に綾子は口を尖らせて、
「解雇ではなく、自己都合での退職にしてもらうつもりよ。その方がウィンウィンでしょ?」
「本採用ではないから、その辺は問題ないだろうが、首よりは自主退職の方が大下にはいいだろうね」
隆之助の声は呆れているようだった。
「そうでしょ? 私は彼の事を考えているのよ」
綾子はドヤ顔で言った。
「ねえ、先輩」
綾子が事務所を出て行ったので、真実がまた凛太郎に近づいた。
「な、何?」
凛太郎は真実と優菜を重ねてしまったので、彼女にも畏怖を感じている。
「さっきの話なんですけど、奥様と会わせていただけませんか?」
真実はグッと顔を近づけて来た。凛太郎は椅子を下げて真実から少し離れると、
「どうして?」
疑問をぶつけた。すると真実は首を傾げて、
「どうしてって? お話を聞きたいからですよ。マルサの人って、憧れなんですから」
「君は税理士目指しているんでしょ? マルサは対極の立ち位置じゃないの?」
凛太郎は話を逸らしたくて仕方がない。麻奈未の話をしたくないからだ。
「だからこそですよ。税理士にとって、マルサは研究対象なんです。だから、知りたい事がたくさんあるんですよ」
真実はまた詰め寄って来た。
「わかった。妻に訊いておくよ」
凛太郎は話を打ち切る方向で応じた。
「はい。お願いしますね、先輩」
真実は凛太郎の耳元で言った。凛太郎は総毛だってしまった。
(麻奈未さんに相談しよう。上手い対処方法を伝授してもらえるかも知れない)
相変わらず、麻奈未頼りの凛太郎であった。
「もうこんな時間か」
麻奈未は茉祐子と今後の事を話し合って、茉祐子の案を基本として調査を進める事で一致した。
「では、私はこれで」
茉祐子は実施部門のフロアを出て行った。
(ああ、また思い出しちゃった)
茉祐子と話している時は忘れていたのだが、一人になるとストーカーの事を鮮明に思い出すのだ。
「伊呂波坂、護衛を付けようか?」
麻奈未の様子に気づいた織部が声をかけてくれたが、
「いえ、大丈夫です。お先に失礼します」
バッグを掴むと、一礼してフロアを出た。
(統括官には強がってしまったけど、やっぱり怖い)
麻奈未は後悔したが、今更護衛を付けて欲しいとも言い出しにくいし、皆忙しくしている時なのに、自分のために人員を割いてもらうのも気が引けた。
(凛君に駅まで迎えに来てもらおう)
麻奈未は凛太郎にラインを送ると、国税局を出た。
「伊呂波坂麻奈未さんですね?」
最寄りの地下鉄の入口の直前で、男に呼び止められた。
「え?」
麻奈未は身構えて声の主を見た。それは四季島の部下の若い男だった。
「突然すみません、私、こういう者です」
男は麻奈未に名刺を差し出した。
「はあ……」
麻奈未は名刺を受け取り、ギョッとした。
「四葉総理の秘書官の方、ですか?」
という事は、四季島の配下の者だ。麻奈未は更に身構えた。男は微笑んで、
「そう警戒しないでください。私は総理の秘書官です。四季島さんとは顔見知りですが、あの人の部下ではありません」
それでも麻奈未は警戒心を解かずに、
「秘書官の方が、私に何のご用でしょうか?」
眉をひそめて尋ねた。男は微笑んだままで、
「名刺にも書いてありますが、改めて自己紹介します。黒田小次郎です。四葉の息子です」
「ええ?」
麻奈未は意外な関係に目を見開いた。
「ご存知の通り、四葉は離婚しています。私は母に引き取られたので、母の姓を名乗っています」
小次郎は爽やかな笑顔で告げた。
(あれ? この人、誰かに似ている。ああ、そうだ、アイドルの湊人君だ)
追っかけとまではいかないが、麻奈未は大学時代、かなり熱心に応援していた芸能人がいた。それが黒田湊人だった。
「どうやら、私の弟をご存じのようですね?」
小次郎に指摘され、麻奈未は頬が紅潮するのを感じた。
「湊人君のお兄さんなんですか?」
麻奈未警戒心は真夏のかき氷のように溶けていってしまった。そのせいで、小次郎が不敵な笑みを一瞬浮かべたのを見逃していた。
「そう、わかった。気づかれないように尾行をして」
茉祐子は誰もいなくなった情報部門のフロアで、誰かとスマホで話していた。そして、通話を終えると、スマホをスーツのポケットに入れ、
(さてと。どっちが本命かな? 難しいな)
腕組みをして首を傾げた。
「帰るか」
茉祐子は鞄を持つと、フロアを出て行った。
 




