妊活と政界の闇
「いいよねえ、中禅寺さん。もう子供、生まれたんだよね」
昼時、行きつけのカフェで、高岡麻奈未は妹の伊呂波坂聖生に愚痴を言っていた。
「お姉のとこ、まだなの? 私らはもうすぐ安定期だよ」
聖生はやや膨らみ始めた腹をさすった。
「ウチは問題ありで、しばらくは妊娠はないかな」
麻奈未は深い溜息を吐いた。
「どういう事?」
聖生は声を低くして姉に顔を近づけた。麻奈未はもう一度溜息を吐いて、
「凛君、ダメなのよ。もう、びっくりなんだけどね」
「ダメってどういう意味? EDなの?」
聖生は目を見開いた。麻奈未は聖生の言葉に顔を赤らめると、
「そんなんじゃないわよ! 失礼ね! 凛君はまだ二十代だよ!」
「いや、あれ、年齢関係ないらしいから。お姉がプレッシャーかけ過ぎなんじゃないの?」
聖生は半目で麻奈未を見た。
「プレッシャーなんてかけてないわよ!」
「じゃあ、どうしてなの? 何が原因で妊娠できないの?」
聖生は俯いた姉の顔を覗き込んだ。麻奈未は、
「それは……」
何かごにょごにょ言っている。
「聞こえないよ。何?」
聖生がせっついた。麻奈未は顔を真っ赤にして顔を上げると、
「凛君、早過ぎるのよ!」
聖生は呆気に取られたが、
「いやいや、早くても、妊娠はできるでしょ?」
笑い出した。
「笑い事じゃないのよ! 絶対に妊娠できない状況なんだから!」
麻奈未は湯気が出そうなくらい顔を赤くして反論した。
「意味わかんないよ。どうして早過ぎると妊娠できないの?」
聖生は首を傾げた。麻奈未はまた下を向いて、
「凛君、行為の前に出ちゃうの……」
更に顔を下へ向けた。
「はあ?」
聖生は一瞬どういう意味かわからなかったが、
「ああ、そういう事か。なるほど、それじゃあ、妊娠はできないよね」
笑うと姉が激怒しそうなので、必死に堪えた。そして、
「凛太郎さん、お姉に長い間お預けさせられてたから、溜まってたんでしょ? 仕方ないよ」
姉を宥めようとしたが、
「そういう事じゃないのよ。そんな事なら、何度か経験すれば、何とかなると思うんだけど、もう私達、凛君の家で同居を始めてから、一ヶ月以上経つんだよ。溜まってるとかそういう事じゃないと思うの」
麻奈未は目に涙を浮かべた。
「え、そうなの? じゃあ、病院に行ったら?」
聖生は詰め寄る姉を押し退けて告げた。麻奈未は椅子に戻りながら、
「でも、凛君、そうじゃないって言うの」
「そうじゃない? 凛太郎さんは理由がわかっているの?」
聖生が尋ねると、
「そうみたいなんだけど、その理由を教えてくれないの」
麻奈未はもう一度深く溜息を吐いた。
「うーん。だったら、何度も挑戦して、慣れるしかないね。それでもうまくいかなかったら、凛太郎さんに問い質さないとダメだよ」
聖生は流石に笑えない状態なのを理解して、真剣に応じた。
「わかった。ありがとう、愚痴を聞いてくれて……」
麻奈未はまた涙ぐんだ。
「いや、こういうのって、話せる相手が限られるからさ。また何かあったら、遠慮なく言って。いつでも相談に乗るから」
「うん。ホントに感謝してるよ、聖生」
麻奈未はとうとう泣き出してしまった。
「よしよし」
聖生はそんな姉の姿を初めて見るので、引きそうになったが、麻奈未の頭を撫でた。
「凛」
事務所を出ようとしたところで、凛太郎は母に呼び止められた。
「何?」
気怠そうに振り返ると、
「あんた、麻奈未さんとうまくいってないの?」
綾子は他意なく尋ねた。しかし、凛太郎はギクッとして、
「何言ってるのさ、そんな訳ないだろ? ラブラブだよ、俺達」
顔を引きつらせた。
「そう? ならいいんだけど」
綾子は所長の席に着くと、
「気をつけてね」
視線を向けずに告げた。
「ああ」
凛太郎は顔を引きつらせたままで、事務所を出た。
(びっくりした……)
凛太郎は冷や汗を掻いていた。
(母さんに気づかれたのかと思った。そんなはずないよな)
麻奈未とうまくいっていない事はないが、念願だった子供の件に関しては、うまくいっていないのは事実だった。
(自分でも情けない。いくら堪えようとしても、麻奈未さんに触れるだけで、いっちゃうんだもんなあ)
凛太郎は麻奈未が美し過ぎるからだと勝手に考えている。だから、麻奈未にはどうしても理由を言えない。言ったら、麻奈未を傷つけてしまうと思っているのだ。
(溜まっているせいだと思ったから、本番の前に処理してみたけど、無意味だった。やっぱり、麻奈未さんを前にすると、ダメなんだよな)
凛太郎は麻奈未に理由を訊かれた時、言おうかとも思ったのだが、本当にそうなのかはわからないので、言うのを拒んだ。優しい麻奈未はそれ以降訊いてこなくなったが、それはそれで気まずい。その日からも、やはりうまくいかない。
(こんな事が続いたら、子供を作れない。どうすればいいんだろうか?)
だが、相談できる相手がいない。母親には絶対に相談できない。そうかといって、父親にもできない。友人にと思ったが、そんな事を相談できる友人がいない。話したりしたら、吹聴しそうな連中ばかりだからだ。
「あ」
一人思い当たった。彼なら、俺の事をわかってくれる。彼も俺と同じ境遇だったから。
(大介君に相談してみるか)
凛太郎が思いついたのは、義理の弟である伊呂波坂大介であった。
(でもなあ……)
大介は信用できるが、義理の妹である聖生が信用できない。麻奈未に喋られてしまう可能性がある。
(大介君に口止めすれば、大丈夫かな?)
凛太郎は何度か大介と食事をしたりして、彼が誠実で真面目な男なのを知っている。聖生には話さないでと言えば、きっと内緒にしてくれるだろう。そう判断して、凛太郎は大介に相談する事にした。
「先輩、どうしたんですか? 最近、何だか暗い感じがするのですけど?」
産休から復帰した中禅寺茉祐子に声をかけられ、麻奈未はハッとした。二人は自販機コーナーの前にいた。
「ああ、そうかな? 自分ではそんなつもりはないんだけど……」
麻奈未は苦笑いをした。
「聖生ちゃんからラインがあったんですよ。心配していましたよ」
茉祐子の言葉に麻奈未は目を見開いた。
「聖生が何か話したの?」
麻奈未は茉祐子に詰め寄った。
「聖生ちゃんからは何も聞いていません。只、先輩、元気ないなあと思っていたので……」
茉祐子は後退りした。麻奈未は溜息を吐いて、
「中禅寺さんとこ、赤ちゃんも生まれて、順風満帆みたいだから、羨ましいわ」
「え? もしかして、凛太郎さんとうまくいっていないんですか?」
茉祐子の質問は直球過ぎた。麻奈未は項垂れてしまった。
「あ、すみません、不躾な訊き方でしたね」
茉祐子は慌てた。
「その通りなの。仲が悪いとかじゃないんだけど……」
麻奈未は長椅子に腰を下ろした。茉祐子はその隣に座って、
「え? どういう事ですか?」
「妊活がうまくいっていないの」
麻奈未は俯いたままで応じた。
「そうなんですか」
茉祐子は顔を引きつらせた。
(深入りしちゃダメなヤツだ)
茉祐子は作り笑顔で、
「あ、すみません、出かける準備がありますので……」
素早く立ち上がると、逃げるように自分のフロアへと走って行ってしまった。
(中禅寺さん、仕事柄、勘が鋭い)
茉祐子の後ろ姿を見送った麻奈未はまた溜息を吐いた。
「え? 凛太郎さんと会うの?」
聖生は大介から夕食を外で済ませる事を告げられ、理由を訊いたら返って来た答えがそれだったので、鸚鵡返しをしてしまった。
「あ、うん。ちょっと話したい事があるって言われて」
大介はバツが悪そうな顔をした。聖生は大介の顔を間近に見たので、
「構わないよ。義理のお兄さんなんだし。どんどん会って」
いつものようにデレデレになった。
「なるべく早く帰るから。聖生の体調も心配だし」
大介は聖生のお腹を見た。
「ああん、そんな優しい言葉、言わないでよお。涙が出そう」
聖生が言った時、
「ここは自分の家じゃないんだから、いちゃつくの、遠慮してよね」
二人がいたのは給湯室で、そこへ入って来たのは、聖生と大介の同期で聖生の親友の神宮真帆だった。
「ああ、ごめん、真帆」
聖生は赤面して謝ると、
「行こう」
大介を連れて給湯室を出て行った。
(全く、見せつけないでよね。こっちは告る前に失恋したんだから)
真帆は口を尖らせた。
「凛太郎の様子がおかしい?」
出先で妻からの電話を受けた木場隆之助は鬱陶しそうに応じた。
「そうなの。何だか、麻奈未さんとうまくいっていないみたいで」
綾子は自分の妄想なのを構わずに隆之助に告げた。
「確かなのか?」
隆之助は地下鉄のホームで電車を待っていた時だったので、周囲を気遣って柱の陰に回り込んだ。
「確かよ。いつも俯いていて、暗い表情をしているの。麻奈未さんと喧嘩でもしたのかしら?」
妻の暴走だと判断した隆之助は、
「わかった。私から直接凛太郎に訊いてみるよ。だから、君は余計な詮索をしないように」
「え?」
綾子は隆之助の強い口調にたじろいだようだ。
「電車に乗るから、切るぞ」
隆之助は綾子の返事を待たずに通話を終えると、スマホをスーツの内ポケットに入れ、ホームに入って来た電車に乗り込んだ。
(やっと同居を始めたところなのに、そんな事があるとは思えない。多分、綾子の取り越し苦労だろう)
隆之助は綾子が凛太郎に過干渉になるのをよしとしていないので、宣言通り、本人に確認してみるつもりでいた。
「どうしたの、凛君?」
帰宅時、凛太郎からの電話に驚き、麻奈未は慌てて通話を開始した。
「すみません、忙しいですか?」
凛太郎は麻奈未の願いも虚しく、同居をしてからもずっと丁寧語をやめてくれない。敬語は使わなくなったが、ですます調は変える様子がないのだ。
「大丈夫だよ。何?」
麻奈未はなるべく凛太郎が萎縮しないように穏やかな口調で尋ねた。
「これから、大介君と会って食事する事になりました。急で申し訳ないんですが、そういう事で」
凛太郎の声が若干怯えているように聞こえた麻奈未は、
「別に構わないよ。義弟と食事はいい事だから。でも、あまり遅くならないでね」
「はい、では」
凛太郎があっさり通話を終えたので、
(凛君、最近、素っ気ないんだよな。やっぱり、あの事が影響している?)
麻奈未は不安になった。
『お姉がプレッシャーかけ過ぎなんじゃないの?』
聖生に言われた言葉が脳裏に蘇った。
(私、凛君に威圧的なのかな?)
麻奈未は俯いて歩き出した。その麻奈未を尾けている男がいた。麻奈未は男に全く気づいていなかった。
「そうか。わかった。引き続き、監視を続けてくれ。そして、伊呂波坂の弱点を見つけるんだ。頼んだぞ」
スマホに低い声で話している男。歳のころは四十代。黒髪の七三分けで、チャコールグレーのスーツを着ている。男は通話を終えると、スマホをスーツの内ポケットに入れた。
(伊呂波坂麻奈未。剣崎先生の仇。必ず、追い落としてやるぞ)
男はギリッと歯噛みした。その時、机の上のインターフォンが鳴った。
「はい、四季島です」
男はボタンっを押して応じた。
「ちょっと来てくれ」
声が言った。
「すぐに参ります、総理」
四季島は隣の部屋と繋がっているドアへ大股で歩み寄り、ノックをした。
「入りなさい」
ドアの向こうから声が言った。
「失礼します」
四季島はドアを開き、中へ入った。そして、声の主へと近づくと、
「東京国税局の件でしょうか?」
回転椅子に座っている男は四季島を見上げて、
「そうだ。何故、兼守を局長に推しているのか、もう一度確認したくてね」
口調は穏やかだが、目は鋭い。四季島は一瞬気圧されそうになったが、
「それは、兼守さんが剣崎先生と縁故がある方ですから」
作り笑顔で応じた。
「剣崎先生、ね」
回転椅子に座っている男は、脱税とスキャンダルで総理の座を追われた剣崎龍次郎の後継者となり、総理大臣に指名された四葉大二郎である。五十代で長身痩躯、黒々とした髪をオールバックにし、濃紺のスーツにレモンイエローのネクタイをしている。剣崎とは違い、真面目で通っている。四季島は元は剣崎の地元の事務所の事務員だったが、剣崎が失脚して、四葉に拾われた。
「はい」
四季島は四葉が剣崎の事をあまり好きではなかったのを知っている。剣崎はそれを承知で後継者としていた。それだけ四葉を買っていた。
(だからこそ、この堅物を利用して、剣崎派を元の派閥に戻すのだ)
四季島は四葉を利用しようと考えているのだ。
「いいだろう。財務大臣には伝えておく。多分、そのまま通るだろう」
四葉は椅子を回転させ、四季島に背を向けた。
「失礼します」
四季島は会釈をして、退室した。