事実は小説よりも、奇なりになる理由
北海道で凄惨な事件が起きました。
田村瑠奈容疑者ら家族による事件ですが、どこか不自然な感じがします。
報道によると、どうも田村瑠奈容疑者は犯行に至るまでには綿密に計画を立てていたようで、その証拠に田村瑠奈容疑者の指紋は、犯行現場では検出されませんでした。
刃物を多数用意し、かつ遺体の一部を自宅に持ち帰ったり、しかも変装まで行っていることから見ると、計画的な犯行なのは間違いないでしょう。
だが、その後が出鱈目です。
遺体を残しておけば事件はすぐに発覚するだろうし、しかも遺体の一部を自宅に持ち帰ったりするのは、私がやりましたと言うようなモノでしょう。
人間の遺体は時間と共に腐敗し、その臭いは半端ではありません。
臭いは衣服に付着し、分かる人には分かる臭いになります。
それにも関わらず、遺体の一部の隠ぺい先を自宅にする段階で、もう計画的な犯行とは言えません。
普通なら、遺体そのものを隠すモノだからです。
計画性とか準備と比べると、どうも変な話しに見えます。
このちぐはぐさは、一体なんだろうか?
短期的計画は綿密に立てられるが、中期的や長期的の計画を立てられない存在がいます。
サイコパシーと呼ばれる存在が、まさにそれです。
もっとも、田村瑠奈容疑者がサイコパシーかどうかは、この段階ではまだ分かりませんし、主犯が誰なのかも裁判にならないと断定は出来ませんから、あくまでもこれは私個人の推測になります。
サイコパシーは共感能力を始め、人が様々な社会性を持つのに必要な能力の欠如が見られます。
これは脳内の機能に偏りは欠損が見られ、実は当事者も結構苦しんでいたりします。
何故なら、犯罪を犯すようなサイコパシーは、実はほんの一握りになるからです。
サイコパシーの大半は社会に順応したり、あるいは順応するふりをすることで社会に受け入れてもらい、善良な市民として一生を過ごします。
むしろ、危機の時に冷静沈着な行動を取ることで、称賛を得ることもしばしば存在します。
勇敢な警察官や消防士、あるいは勲章を何度も授与された兵士も、サイコパシーの可能性があると言われているからです。
サイコパシーは、恐れを知らないのです。
それゆえにサイコパシーは勇敢であり、勇気と忠誠の持ち主の代表ともいえる気質になります。
その一方で、サイコパシーは信じられないぐらいの凶悪事件を起こすので、彼らを一般に反社会的気質と呼びます。
もっとも、サイコパシーとは心理学や脳科学の観点からの呼び名で、社会学ではソシオパスと呼ばれます。
いずれにせよ、ネガティブなイメージで見られるのが、このサイコパシーになります。
しかし、長期的視野を持てないゆえに、瞬発力や突破力があり、創業者に向いていると言われます。
普通なら躊躇うことを、躊躇することなく実行出来るゆえに、他人からは魅力的に見えます。
サイコパシーは、概ねリーダーに相応しい人物に見えるのです。
その一方で共感能力の低さから、驚くほど酷薄なところがあり、残酷な行為も平気で出来ます。
本来なら、共同体意識の強い日本では、サイコパシーの居場所が少ないはずです。
つまりサイコパシーはすぐに排除されそうですが、その一方でカリスマ性を持つ者も多く、人を精神的に支配する能力があります。
それが逆に、この日本のような国で、生き残っている要因と考えます。
恐らくですが、オウム真理教の教祖麻原彰晃などが、サイコパシーと考えられます。
サイコパシーは長期的視野を持てないゆえに、虚言癖があります。
麻原のその場限りの発言や、ハルマゲドンといった支離滅裂ぶりは、サイコパシー特有のモノとも言えると考えられます。
地下鉄サリン事件を始めとする凶悪事件も、サイコパシーゆえに先を読む事が出来ず、ただその場さえ凌げればいいといった感覚が、彼を、彼らしてをそのような行動に駆り立てたと考えられます。
つまり、その場さえ良ければ後はどうでもよく、嘘に嘘を重ねます。
そしてその嘘を、吐いた瞬間から忘れるのです。
普通の人間なら、こういったおかしな人間から離れるものです。普通ならです。
しかしその一方で、こういったサイコパシーに共感し、騙されても付いていく人々も一定数います。
オウム真理教信者がいまだに存在するのも、こういった存在と考えられます。
これらを踏まえると、田村瑠奈容疑者の共犯と思われる父親も、この瑠奈容疑者の信者に成り果てていたと考えられます。
瑠奈容疑者の父親の職業は、精神科医と聞きます。
本来なら心理学に精通している専門家のはずですが、むしろ純粋培養されたエリートやインテリの方が、こういった精神的支配に晒されると、むしろ素人よりも強固に洗脳されます。
オウム真理教事件でも、エリートやインテリが信者になっていった上に、事件の犯行に及んだようにです。
自分の知的センスに自信があればあるほど、自分の犯した選択の間違いを認められないからです。
これは認知的不協和の状態になったと考えられ、エリートやインテリが一旦こうなると、もう事実とか真実よりも、教祖の神託や詐欺師の言うことを信じるようになります。
むしろ、否定する者が居ればいるほど、強固なまでの依存状態になってしまいます。
カルト教の信者はもちろん、詐欺の被害者の洗脳を解くのが大変なのは、こういった依存関係を構築してしまっているからとも言えます。
エリートやインテリが、第三者の目から見て、びっくりするぐらい愚かになるのも、むしろ自然の話と言えます。
そしてそういった人心掌握術に長けているのも、サイコパシーの特徴と言えます。
普通ならあり得ない話ですが、普通ではない状況を作るのが、サイコパシーのすごいところと言えます。
人を孤立させ、閉鎖空間に追い詰めてから手を差し伸べ、精神を支配するやり方を、誰かに学んだわけでもないのに普通に出来るのが、サイコパシーなんです。
どうしてそんな真似が出来るかと言えば、ある能力に特化しているからとも考えられます。
中期的、長期的な視野が欠落している分、短期的な視野に普通ではない集中力があるからこそ出来る空間支配能力であり、そこに嵌まるともう逃げられなくなります。
その一方で、リソースの大半を短期的視野や目先の計画に特化しているので、それが破綻したらもうどうにも出来ません。
ただ、普通の人ならそこで破綻しますが、サイコパシーは開き直って人のせいにします。
そして信者を周囲に集めて固めてしまい、悪いのはあいつだ的に印象操作し、レッテルを貼って罪を他人に着せます。
そして自分を、被害者に演出します。
私は被害者だ、悪いのは他人であると。
こうして、騙された人、洗脳された人はサイコパシーの操り人形となり果て、善悪の判断が完全に逆転するのです。
だが、これを小説で書くとすると、どうしても荒唐無稽になってしまいます。
何故なら、用意周到に計画し、周囲を味方に付け、準備万端で行った計画が、実は穴だらけであり、最初から破綻していたなんて、ちょっとありえません。
小説ではこのようなサイコ的な犯罪者は、概ね知的レベルが高く、長期的視野を持って計画し、とんでもない陰謀をするものだからです。
しかし現実には、そのような人は少なく、結構みっともない最期を迎えます。
ヒトラーがその典型でしょう。
世界を巻き込むようなとんでもない事をしておきながら、最後は行き当たりばったりで計画性の欠片もなく、最後は愛人と結婚した挙句、国家と無理心中を図ろうとするなんて、みっともなさ過ぎて物語に出来ません。
これをそのまま書くことは、ちょっと無理があるからです。
悪役にするにしても、ちょっと辻褄が合わないからです。
しかし、そもそもサイコパシーに辻褄を合わせようとする能力が最初から欠落しているので、そのサイコパシー的な人を物語に登場させ、筋の通った行動を物語に落とし込んだ瞬間、実は根拠の無い作品に成り果ててしまいます。
事実は小説より奇なりではなく、小説を書く人がただ、サイコパシーと比べてまとも過ぎるだけの話になると思います。
知的ではないサイコパシーなら書けると思いますが、それはもうサイコパシーではないでしょうから。