1. 兄妹
けたたましい汽笛の音に、利史郎は目を覚ました。一瞬何がどうなっているのかわからなかったが、見覚えのある室内の様子に状況を把握する。
あの断崖で捕まったあと、頭を殴られ気を失ったのだ。そして知里と牧野警部が囚われていた船室に放り込まれ、今度は荒縄ではなく大げさとも言える手錠で拘束されている。
「よく寝た?」
例によって皮肉を言う知里とは、背中合わせになっていた。いつも綺麗にイギリス編みにしている髪からピンが取れ、長い髪を肩に垂らしていた。
利史郎は頭を捩って、窓の外に目を向ける。早朝らしく白々とした明かりが差し込んでくるが、濃密な霧に包まれているようで視界が殆どない。ただ白い濃淡の中に黒々とした煙を吐き出す煙突が時折現れ、再び汽笛を鳴らす。丁度この島に到着した所らしい。すぐに男たちの声が響き始め、積み荷を降ろすためか人影が右往左往しはじめた。
「ここのところ、まともに眠れていませんでしたから」利史郎は言いつつ、固まった筋肉を解そうと背を逸らす。「あれから十時間ほどですか」
「まぁ、そんな所でしょうね」
そこで急に、彼女は堪えきれない様子で笑い始めた。
知里の笑い声は初めて聞いたかもしれない。さすがに理由もわからず目を白黒させていると、ようやく彼女は顎で利史郎の足を指してみせた。
それで気づいた。ブーツが脱がされている。
「あぁ。これですか。何か面白いですか?」
「警部と話してたのよ。『少年探偵なら靴に仕込み刃が入れてあって、それで縄を切れるだろうに』って。まさか本当に入ってたなんてね」
「姉さんに押しつけられるんです、あの手の物は。とても使い道はないと思いつつ、断るのも悪くて。でもたまに――本当にたまにですが、役に立ちます」
「他には何かないの? 手錠を溶かす薬品の入ったペン、助けを呼べる発煙筒――」
「普段は帽子に仕込んでいるんですが。残念ながらガスマスクを被る必要があったので」
つまらない冗談のつもりだったが、どうやら知里のツボを突いてしまったらしい。途端に息も絶え絶えに笑い始め、利史郎の方が困惑する。
「――そんなに面白いですか。やっぱり貴方は不思議な人だ」
ようやく知里は笑いを飲み込み、それでも苦しそうに言う。
「だって、いつもは冷静沈着で美形と評判な少年探偵が、靴だけ脱がされて囚われてるのよ? こんな可笑しい事ないじゃない。全然意味がわからないわ」
「そうでしょうか。確かに世の中には偶然も多いですが、大抵の事には意味があります」知里の警戒心を呼び起こすには、十分な言葉だった。身を固くして息を詰める彼女に、利史郎は続ける。「今のうちに、話しておく事はありませんか」
「――何のこと?」
「僕が思うに、あまり時間はありません。何か口止めしておく必要があるならば、今のうちに言っておくべきです」
数秒、彼女は黙り込んだ。だがやがて発せられた言葉は、利史郎が予想していた通りだった。
「口止め? 一体何の――」
やはり、時間はなかった。知里が口ごもったのは、船室の外の騒がしさが次第に近づいてくるのを察したからだった。間もなくハンドル型の取っ手が回り、扉が開いて冷たい空気が流れ込んでくる。
そして霧の中から現れたのは、黒い外套に身を包んだ男――レヘイサムだった。
彼は霧に濡れた長い髪を掻き上げ、あの切れ長な瞳を露わにすると、知里に、そして利史郎へと目を向ける。
「ここまで来るとは――正直、予想していなかった」
レヘイサムの傍らには、渋い顔の伊集院が立っていた。彼は片眼鏡の位置を直しつつ、苛立ちながら言う。
「結局、分離主義者なんぞこの程度だな。何が絶対に見つからん南海の孤島だ。ずっと前から潜入捜査されていたんじゃないか」
レヘイサムを挟んで反対側に立つのは、濡れそぼっている狼男だ。彼は牙をむいて伊集院にうなり声を上げたが、レヘイサムはそれを可笑しそうに遮って言った。
「それは少年探偵を買いかぶりすぎだな。彼が来たのは、そう――せいぜい二、三日前といったところだろう。違うか?」
「いえ。実は一月前からちょくちょく伺っていました」
ぎょっとして目を向ける知里。一方のレヘイサムは品定めするよう、無精髭をさすりながら言う。
「無意味な嘘――エシルイネから韜晦を学んだか? どうやら少年探偵は更に手強くなったらしい」
この会話自体が無意味だ。そう思って黙っていると、彼は腰を折って利史郎の顔を覗き込む。
「何だ。どうした? いつものように、俺は異常者だとか、あの爆弾で何人殺すつもりだとか、問い詰めないのか?」
「そもそも、貴方は僕に会いに来たんじゃないでしょう。何なら席を外しますが?」
途端、背中越しに知里の緊張が伝わってきた。そして目の前のレヘイサムは眉間に皺を寄せ、喉の奥で唸り、身を離して大きく息を吐いた。
「こいつが自分で言うはずがない。絶対に。ということは少年探偵お得意の推理か。しかし――限りなく不可能に近い。俺以外にお前を出し抜ける奴がいるとしたら、こいつしかいない。まさか――Dloopか? 一体連中とどんな取引をした」
どこまで本気で言っているのかはわからない。だが彼は見た目上は困惑し、利史郎から情報を引き出そうとしている。
「彼らは全て教えてくれましたよ。貴方が一体何者なのか。何を望んでいるのか。そして貴方の倒し方までも――」
「いいか、お前は理解していないのかもしれないが、お前が今、こうして生きているのは、お前に可愛げがあったからだ。あまり生意気なことを言っていると、すぐに始末する」
「誰のおかげで可愛げをなくしたと思っているんです。貴方の所為だ」
「もういい」
伊集院も、狼男も、一体何の話をしているのか理解出来ず、ただ困惑しているだけだった。だから当然、その言葉を発したのは知里だ。
彼女はずっと息を詰め、事の成り行きを伺っていた。しかしもはや手に負えないと踏んだのか、大きく息を吐き、レヘイサムを、そして利史郎を見つめ、不思議そうに言う。
「でも私も知りたいわね。一体どうしてわかったの」
「――幾つもの状況証拠の積み重ねです。貴方と会った当初、貴方はレヘイサムに対して殊更に無関心だった。彼は無意味だ。忘れろとも言った。蝦夷ならば何かしらの意見を持っているであろう彼に対してです。しかし政治に無関心な人もいる。だからあの頃は特に注意を向けなかった。しかし貴方は、賢すぎた。そして何事にも意見を持ちすぎていた。平民にしては。そして蝦夷にしては。それは何故か? 一番簡単な答えは、貴方に特別な教師がいたから。そう考えるのが妥当です。そんじょそこらの教師じゃない。並みの華族以上の見識を持ち、行動力があり、思考力がある人物。ですがそんな人が、蝦夷にいるでしょうか? しかも箱館ですらなく、僻地である釧路に、孤児の教師として存在するでしょうか? あり得ない。普通はあり得ないとして、可能性から排除します。しかし――一人だけ、該当しそうな人物が存在した」
目を向けられ、レヘイサムはやや余裕を取り戻した様子だった。以前のように軽妙な笑みを浮かべつつ言う。
「やはり、お前は何も学んでないらしいな。明かす必要もない手柄をべらべらと口にして――」
「貴方に話してるんじゃない。いいから黙っていてください」不意を突かれて黙るレヘイサムを確かめてから、利史郎は続けた。「いいですか。もしその推理が正しければ、知里さんが貴方に対して無関心だった理由もわかる。その人物との関わりは、決して誰にも知られてはならない。〈無関心を装わなければならなかった〉んです。
ですが、これは荒唐無稽とも思える推理でした。あまりにも線が細すぎる。だから僕は当初、その可能性を取り上げませんでしたが――しかしあの満州でDloopが口にした言葉を耳にし、再検討せざるを得なくなりました。
〈もう一人はどうした〉。
彼らの使徒である田中久江は、知里さんに向けてそう口にした。全く意味不明です。しかし彼らは決して、無意味な言葉は口にしない。あの言葉は、明らかに知里さんに向けられていた。そして彼らは以前から知里さんに注意を向けていた。人類など取るに足りないと無視し続けていた彼らが、です。そして同じように注意を向ける人物が、もう一人いる。それは何者でしょうか。知里さんと関わりがあり、Dloopに目を付けられた人物。それはもう、知里さんの教師と考えるのが一番妥当だ。ではその教師とは何者なのか――」
「兄妹だ」
レヘイサムは、それがどうした、というように言い放った。




