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What a true comfort in the Life?

作者: 葉泉 大和

 ***


 ――海を見ると、心が解放されたような気分になる。


 今、目の前には、青い青い海が広がっていた。


 平日の真っ昼間から、こんな最果ての地で海を見る人なんていないだろう。まるで、目の前に広がる海を、僕一人で独占しているようだった。たった一人でこんなにも広い海を独占しているという感覚は、今も社会のルールに従って規則正しい生活を送っている人達よりも自由だと、楽に生きているのだと――、そんな優越感を僕に与えてくれる。


 何ものにも縛られていないということを更に実感するために、僕は大の字に寝転がった。まるで高級な寝具のように、砂浜は僕のことを包み込んでくれる。


 青く高い空、鳥の鳴き声、波のさざめき、海独特の磯の香り。爽やかな風が、時折僕の頬を優しく撫でる。

 まさに楽園とでも称すべき、素晴らしい場所だった。何もせずとも優雅に流れる時間は、僕を心底楽な方へと誘う。


 これこそ、僕の求めていたものだ。


 燦々と光を降り注ぐ太陽を遮るように、目元に腕を押し当てた。ちょうどいい暗さ、このまま微睡みに襲われて、眠ってしまうのも悪くはない。あまりにも楽で自由な幸福の時間に、ふっと口角が上がる。


 どうして僕は自由気ままに、こんな時間に海にいるのか。


 その始まりは、今から一か月ほど前に遡る。


 ***


 最初のきっかけは、職場でのいつものやり取りだった。


 いつも通り電車に揺らされながら会社の最寄り駅に着いて、アンドロイドのように建てられた無機質なビル街を歩き、首にぶら下げていた社員証で会社の中に入った。そして、始業前に職場の人と雑談をしている中、ふっと一言「何やってんだろ」と疑問を抱いた。否、抱いてしまった。


 別に会社に対して、大きな不満があった訳ではない。「給料上げろ」とか、「残業なくなんねぇかな」とかは、同僚の人と愚痴る時はあったけど、何気ない雑談の範疇だった。本気で辞めようとかは、今まで一度も思ったことはなかった。

 会社の人と話しながら、冷静にこのような考えに至った理由を問い詰めていく。幸か不幸か、答えにはすぐに至ることが出来た。


 ――慣れ、だった。


 もうすぐ両手で数え切れなくなる社歴になって、なんとなくで仕事をこなせるようになった。もちろん、辛いこともあるけれど、適当に流せば大抵のことはうまくいく。


 やりがいのない仕事に時間を費やしていることに対して、急速に冷めた目で見るようになってしまった。


 始業時間になって、話し込んでいた周りの人が、それぞれの机に戻った。僕も皆に倣って自分の席に着く。座ったと同時、誰にも気付かれないように溜め息を吐いた。

 電源の入っていない暗いモニターに映る僕の顔は、物凄く老けていて、何だか別人のように思えた。


 このことをきっかけにして、何日も何日も、会社にいる意義について考えるようになった。

 不思議なもので探せば探すほど粗が出て来てしまい、やりがいとか慣れとかを除いても、ますます会社にいる理由が分からなくなった。


 たとえば、仕事そのもの。僕がいなくても十分回るのに、色々な仕事を押し付けられ、忙しさに溺れる。

 たとえば、得意先の相手。立場上優位だからといって、無理難題を押し付けて、こちらが困る姿を喜んでいる。

 たとえば、僕よりも立ち回りが良く出来る後輩。上司にこびへつらって、実力はないのに、どんどんと出世していく。

 たとえば、僕より社歴が長いのに、やたらと仕事が遅い先輩。これでどうして僕よりも高い給料を貰っているのか、分からない。


 見ると、もやもやするから積極的に関わるのをやめた。必要最低限だけ言葉を交わし、後はただモニターに向き合って黙々と仕事をした。けれど、先輩の顔も後輩の顔も取引先の相手も心にずっと染み付いて、離れて消えてくれない。息苦しさは募る一方だった。まるで毒だ。


 そして、ついには会社に足を運ぶだけで気分が悪くなって来た。

 こんな思いをしてまで、どうして働くのだろう。僕は本当は何がしたいのだろう。


 ――あぁ、そうか。


 楽をして生きたいのだと悟ってしまった僕は、気付けば会社に辞表を出していた。



 それから、会社を辞めるために思いのほか時間が掛かってしまったが、会社という縛りを手放した僕は、誰にも邪魔されない自由な時間を使って旅に出た。

 家にいるだけでは会社を辞めた意味がない、と思っての行動だった。


 最初は会社とは正反対の方向に向かう電車に乗るだけで、優越感に浸っていた。新幹線ではなく、鈍行列車を使って一駅一駅味わうことも、僕の心を高揚させた。


 弾む心で移動しながら、よく名前を耳にする有名な駅があれば、手あたり次第に降りてみた。その土地でしか食べられない物を食べ、その土地でしか見ることの出来ない物を見た。気分は、まさしく旅番組に出るリポーターだった。


 だけど、そんな気分に浸れるのも最初の数時間だけで、途中からどこに行けばいいのか迷いが生じ始めた。観光地の名前だけ知っていても実際に何があるのか詳しく分からないから、本当に有名どころだけ見たら満足してしまい、それ以上先には進めないのだ。

 そうなったら、また都心と反対方向の電車に乗って、新たな観光地を目指す。


 未踏の観光地では、僕を知っている人は誰もいない。何もしなくていい。好きな時に食べて、好きな時に休んで、好きな時に歩く。自由に過ごしても、文句は言われない。楽だった。楽なはずだった。


 なのに、僕の心に疼くモヤモヤは、なくなってはくれなかった。

 気付けば、どの土地にも長く居座ることは出来なくて、得体の知れない感覚に足を掴まれないようにと必死に動き回ることしか出来なかった。


 都心とは反対方向の電車に何度も何度も乗る。都心から離れれば離れるほど、人の流れは少なくなっていく。乗客が僕一人だけというのも珍しくなくなった。


 現実から取り残されたように僕一人しかいない空間で、流れる景色を見ながら思うことは、ただ一つだった。


 ――楽になりたい。


 心の声が強くなる。


 働いていないから楽だろう。自分の好きなように生きているから自由だろう。


 そう言い聞かせても、心の叫びは止まらない。


 求めた楽を手に入れているはずなのに、どうしてこんな思いに駆られるのか、自分で自分が分からなかった。

 けれど、分からないことが多い中で、分かることもあった。


 旅をやめれば、暗雲とした感情に呑まれて動けなくなってしまう。


 そのことだけは、直感的に分かっていた。


 気付けば途中下車をすることもなく、電車に揺られながら最果てを目指した。

 僕が安心して過ごせる場所。僕が僕らしくいられる場所。そんなまだ見ぬ楽園を目指して、僕は進む。


 走って、迷って、振り切って、行き着いた先。それが――。


 ***


 海を見ると、心が解放されるような気分になる。だけど、それは気分だけで本当じゃない。誰もが羨むような楽な生活を手に入れたのに、僕の心は未だに「楽」という言葉に縛られたままだった。


 太陽に顔向け出来なくて、腕で目を覆っていたが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。全身が固まって、痛かった。


 体を起こすと同時、大きく全身を伸ばす。伸ばした箇所が、大きくボキボキと音が鳴って心地よかった。

 動かないことは楽なはずなのに、こうして動いて体を解した方が、身も心も楽になるとは、なんて皮肉な話だろう。


「……ふぅ」


 体を伸ばし、背後に付着した煩わしい砂を払って、考える。


 電車を乗り継いで、日本海の果てまでやって来た。開放的で圧倒的な大自然を感じて、僕はここに楽園を見出した。

 だけど、僕の心を満たすものは何も変わらなかった。一瞬の充実感の後にやって来るのは、それに比例した虚無感だ。


 これから僕はどうすればいいのだろう。


 曖昧な答えは分かっていた。多分、日本にいても何も変わらない。

 ならば、海外に行って、自由気ままに旅をするのもありかもしれない。

 旅をする中で、世界の大きさを知って、自分が抱えているものが小さく見えるようになって、自分という存在を知ることが出来る。いわゆる、自分探しの旅というやつだ。


 そう考えると、我ながら名案な気がした。


 もう少しの間、ここで海を眺めたら、飛行機に乗って世界へ行こう。行き先は、空港にでも行けば閃くはずだ。


 そう結論付けた時――、


「……あれ?」


 何もない海の上で、ひとつの影が動くのが見えた。

 惹きつけられるように視線を注ぐと、どうやらその影が、人のものだということに気が付く。


「海に、人……? 何やってんだろ?」


 人影は、止まることなく果敢に波に向かって進み、臆せずに堂々と波の上に立ち上がった。


 そこで、海にいる人物がサーフィンをしているのだと思い至った。


 ――こんな時間にサーフィン? 夏はとっくに終わってるのに寒くないのか? そもそもサーフィンは太平洋側でやるような気がしたけど、どうして日本海側でやってるんだろう?


 頭の中で色々な疑問が思い浮かぶが、僕の目はサーフィンをしている人物から離れることはなかった。


 僕が彼に抱いた第一印象は、とにかく自由奔放に生きている人だった。世間の常識からずれても我を貫く姿が、僕の理想にピッタリと適している。

 だから、もしも話すことが出来れば、僕の悩みを解決してくれるかもしれない。


 砂浜へと戻って来た男の人に向かって、気付けば僕は近づいて、


「何しているんですか?」


 何の躊躇いもなく声を掛けた。


 見知らぬ人に話しかけたことに、自分でも動揺してしまった。今までの僕だったら考えられない行動だったからだ。社会から自由になったことが、僕に自信を与えてくれたのだろうか。いや、一種のふてぶてしさと捉えても相違はないかもしれない。


 でも、と冷静に心の中で首を振る。

 声を掛けたとからといって、相手の反応がどうかまでは分からない。


 無視されるかもしれない、という恐怖に怯えながら立ち尽くしていると、


「あぁ、見ての通りだよ。今日はサーフィン日和だからさ」


 フィンさん――日本人離れした風格に、サーフィンをしているから、安直ながらも勝手に脳内でそう呼んだ。彼の名前を、僕は知らない――は嫌な顔を一つせず、白い歯をニッと見せて答えた。白い歯が眩しかった。


「あ、やっぱり」


 優しい声音で返事があったことに、僕は胸を撫で下ろした。これで安心して、この人と話を広げることが出来る。


「でも、日本海側でサーフィンなんて珍しいですよね。地元の人なんですか?」

「いや、違うよ。そういう君も、ここの人じゃない……よね」

「そうなんです。実は――」


 気付けば、僕はフィンさんにここまで来た経緯を説明していた。


 フィンさんは口を挟むことなく、真摯に僕の話を聞いてくれた。フィンさんが打ち明けやすい雰囲気を作ってくれたおかげで、僕は不必要なことまで饒舌に話してしまったと思う。

 加えて、フィンさんの人柄だけでなく、僕自身が話すことを楽しんでいたということもあった。久しぶりに人と話してみると、話すことが楽しいことだと改めて気が付いたのだ。僕の口は止まらなかった。


 そして、僕の話を一通り聞き終わると、フィンさんは考え込むように一度頷き、


「――それって逃げてるだけじゃない?」


 そう冷酷な声で、ハッキリと切り捨てた。


 一瞬、世界が止まったような感覚に陥った。波の音、海の色、磯の香り、足元の砂の感覚――その全てを、何も感じなかった。

 それほどまでに、彼の言葉は僕に衝撃を与えた。


 しかし、世界はすぐに動き出す。


「……ぇ」


 止まっていた息を吐き出すと同時、小さくか細い声が僕の口から漏れた。


 僕の動揺している姿を見ながら、フィンさんは肩を落としてふっと軽やかに息を吐き出すと、


「自分の都合のいいように着色して、自分探しだなんてカッコ良く言っているけどさ。本当は、現実から逃げて、自分の都合のいいように生きたいだけじゃない?」


 逃げてる? 僕が、現実から? いや、違う。僕は僕の思いに従って、楽なように生きようとしただけだ。その結果、会社が不都合だったから辞めた。そして、仕事を辞めただけで甘んじることなく、僕が僕らしく生きられるようにと、ここまで行動して来た。


 彷徨って、彷徨って、自分に相応しい何かを探して。だけど、探せば探すほど、自分が分からなくて。だから、これは逃げじゃない。仕方のないことだ。

 本当に逃げていたら、僕が理想とする道を先に進んでいるあなたに訊ねることさえもしないだろう。


 自分自身を知って、楽に生きようとすることのどこが逃げに値するのか。


「……っ」


 けれど、虚しくも僕の思いは言葉にならない。フィンさんが口にして出した現実を打ち消すように、ただ一人、自分の胸に言い訳のように言い聞かせることしか出来なかった


「ねぇ、楽ってなんだと思う?」


 呆然とする僕に、フィンさんが子供をあやすような優しい声音で問いかけた。


「……な、何も考えずに、ぼーっとしていること、……ですか?」


 息を何度も呑んだ末、ようやく僕の思いを口にすることが出来た。

 必死に捻り出した答えは、僕の本心だった。いや、僕だけではなく、世間一般的にもそう言われている答えだ。


 動かなければ、楽になる。それは当然の道理だろう。体力は奪われないし、エネルギーを無駄に浪費することもない。下手に動いて自分が傷ついてしまうよりも、よほど良い。傷ついて動けなくなってしまったら、元も子もないのだ。


「どうやら君は、世間で一般的に知られているものに影響されやすいみたいだね。楽なことだったり、サーフィンは日本海ではしないと思っていたり」

「え、サーフィンって太平洋側でやるものじゃないんですか?」


 先ほど言葉を発したこともあって、純粋な疑問が僕の口から飛び出す。僕の言葉を聞いたフィンさんは、予想通りと言わんばかりにくつくつと笑った。真っ白に輝く歯を久しぶりに見た気がした。


「それは、大多数の人がサーフィンと湘南が紐づいているからじゃないかな」


 確かにフィンさんの言う通り、テレビにおいてもサーフィンのことを取り上げられるのは湘南が多い。その情報が、僕の中での指針となってしまったのだ。


 フィンさんはひとしきり笑うと、再び真剣な表情に戻り、


「でも、君の言う世間一般的にも楽だと思われる生活を送っても、疑問を抱き続けたんだよね? そして、疑問を抱いたからこそ、何かを渇望するように色々な場所を渡り歩いた。君が話してくれた本心とは反しているはずなのに、ね」

「……」


 フィンさんの言葉はあまりにも的確で、またしても口を噤むことしか出来なかった。


 何もかも見通すこの人の前から逃げ出したくなるが、彼の言葉は僕の足を地に縛り付けているようだ。動くこともままならず、全身に嫌な汗が流れる。


「つまり、だ。世間では楽とされるものが、実は本当の楽には繋がらないって、君は本能的に感じていたんだよ」

「……でも、あなたの言う本当の楽に関する答えを、僕はハッキリと見出すことが出来ません。考えれば考えるほど苦しくなって、そんな思いするなら、何も考えない方が楽だって……!」


 気付けば、フィンさんの言葉を打ち消すように、叫び出していた。まるで癇癪を起した子供のようだと、自分でも思う。


 でも、僕は間違ったことを言ってはいない。

 仕事をしていた時、途中からどうして働いているのか分からなくなった。命令に従って規則正しく動くロボットのようにずっと生きるのかと思うと、ぞっとして抜け出したくなった。もっと仕事に精を出そうと頑張ったが、頑張っても変わらない不当な評価や扱いに、働くことの意義を余計に見失った。

 僕が置かれていた状況を打破する方法が分からなくて、思考が脳を巡る度、頭が痛くなった。


 このまま仕事を続けていたら歯車がズレてしまいそうだったから、僕は手っ取り早く楽な道を選んだ。


 ――それなのに。


 理解して貰えると思っていたはずの人に僕の苦しみが伝わらなくて、もどかしかった。実際に、呼吸も上手く出来ず、胸が苦しかった。


「苦難の先に、光があるんだよ」


 僕の切羽詰まった叫びに反して、沁み込むようになだらかに、フィンさんの言葉が紡がれる。


 魅かれるように顔を上げると、白い歯を見せて、優しい顔で僕のことを見つめていた。


「苦しいことがあって、立ち止まりたくなる気持ちは分かるよ。誰でも苦しいのは嫌なもんだ。だけど、苦労するのも、その先にある良いものを手に入れるための過程なんだ。そこで荒波に立ち向かうことを放棄したら、得るべきものも得れずに、波に吞まれて沈んでしまう」

「――」

「それにさ、考えることを放棄して何者にもなれなかったら、今以上の苦労が山のように積み重なった時、耐え切れずに倒れてしまう。仮にその瞬間だけは楽だとしても、それは果たして本当に楽だと言えるのかな?」


 フィンさんの言葉は間違っていなかった。僕自身が置かれている状況が、まさに言葉通りだったからだ。


 楽になるためだ、と嫌なことから目を背けて来たけれど、僕の心は縛り付けられて苦しいままだった。このまま生きていけば、軽い衝撃だけで崩れてしまうことは明らかだった。


 だけど、楽になるために、果敢に立ち向かって、自分で手にしろ、とフィンさんは言う。


 今までの僕になかったフィンさんの考え方は、今まで高く隔たれていた限界という壁を、音を立てて壊してくれた。


「君自身も実感しているんじゃないかい? 今まで頑張って働いたから、その分、今の君は自由に動ける余裕を得ることが出来たってことを」


 会社で働いていたことを思い出す。

 新入社員の頃は慣れない仕事に苦労していたが、年数が経ってからは上手く仕事をこなすことが出来るようになった。


 つい先日まで会社で働き詰めだったのに、思い返すと、ひどく遠い昔のように思えた。

 しかし、何年も働いた僕がいたから、こうして旅をする資金が手元に残っていたのだ。入社してすぐに働くことを辞めていたら、きっと今よりも更に重たい苦労を背負って、自由にお金を使うことは出来なかったはずだ。


 あの働いた日々は、間違いなく今の僕に生かされている。


「そのようにさ、今大変で苦労したとしても、立ち止まることなく自分に費やせば、将来必ず有益になる。今度は、君自身に考えを向けるんだ。自分に何があるのか考えて、どこに投資するのか向き合って、全てのことに適応できる自分へと変わっていく――。そうすれば、本当の楽が手に入るはずだよ」


 語るべきことを語り終わったのか、フィンさんはゆっくりと僕の方に歩み寄ると、


「頑張ろうぜ、青年。この世界で、一緒にさ」


 すれ違いざまに僕の肩に手を置いて、僕の前から去っていった。


 一人残された僕は振り返ることなく、その場に座り込んで、大の字に寝転がった。柔らかいの砂一粒一粒を、背中に感じた。


 ――木を切り倒すのに八時間を与えられたら、わたしは最初の六時間を斧を研ぐのに費やす。

 ある偉人は語った。


 ――涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。

 また、ある書物では、このように記されている。


 雄大な自然を感じながら、ふと僕の脳裏にどこかで見聞きした言葉がよぎった。


「――」


 ふっと微笑んだ。


 今までずっと見ていた景色が変わる。

 どこか顔向け出来なかった太陽も、優しい光を僕に降り注いでくれている。太陽が僕一人だけに祝福を与えてくれているかのようだ。


「――」


 今までとは異なる力が、少しずつ全身を巡る。


 本当の楽が何かは、まだハッキリと実感出来ない。本当の楽を突き詰めようとすると、頭に疑問符が浮かんでしまうままだ。


 しかし、フィンさんと話す以前に感じていた、考えるほどに増す胸の不快感はなくなった。僕が今まで楽だと思って行動して来たことは、本当の楽ではなかったということを身に染みて分かったからだろう。


 この先、何が起こるか分からない。真剣に人生に向き合えば、様々な困難が波のように押し寄せて来る。時には、暴風雨のように凄まじいものかもしれない。


 だけど、波に乗る方法が分かれば、楽しむことが出来るように。たとえ、危機的状況に陥っても、基本が出来ていれば柔軟に対応出来るように。


 自分自身を磨き上げれば、人生を謳歌出来るようになるはずだ。


「――っし!」


 力が充電出来たことを確かめるように小さく拳を握り締めると、僕は勢いよく立ち上がった。もう僕の心は、この景色のように晴れ渡っている。迷いはどこにもなかった。


 楽園と思えた場所を背にして、次の目的地へと一歩を踏み出す。まずは、自分という存在を、僕がいた場所で見つめ直すのだ。



 僕の疑問がなくなった時。その時は、きっと感嘆して、胸を張って言えるようになる。


「あぁ、なんと素晴らしい――!」

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