最終話『今この瞬間を生きる者たち』
そんなこと聞いていないぞと言いたげな豆腐を横目に、ニラヤマは「そうだね。私はワールド製作ができるし、広く浅くの人間関係を築くことだってできるけど、誰かに働きかけて一緒の目的に歩むようなことは得意じゃない」と言います。
「ただ、それでも、古参ユーザーがずっと安住していられる場所を破壊して、創り直された場所がその時の反省から少しでも風通しが良くなってたら、この世界に私の意志や想いが少しでも残されると思ったんだ。だけどミズナラや豆腐の作った場所が、同じようになってしまったお陰で分かった。閉じた場所を作るのは誰かが悪いんじゃなくて、普通の人にとって閉じていこうとすることが当たり前だからなんだって」
だから、とニラヤマは一息置いてから言いました。
「私がミズナラの『知恵の実』を刈り取って、最後にして唯一の『契約の箱』の持ち主として願いを叶えてもらえるなら、バベルの塔を願う。正式サービスの開始後も定期的にSDKという共通言語が互換性を失う、小規模な滅びと分散がEDENに起こり続けることを」
一部のコミュニティで独占されていたノウハウが価値を失い、既に改修する者の居なくなったワールドは何時か壊れて使えなくなる。
かつて有名であっただけで時代の波に乗る努力を怠った者は、何時しか今現在のできることが増えたEDENに取り残され、新たに訪れた活動的なユーザーへと覇権が移り替わっていく。
バベルの逸話はあらゆる民が『高さ』という、一つの価値尺度のみを求めた末路だ。
それは神の座す天に至ろうとすることではなく、新たに同じ地に生まれ訪れる者が決して辿り着くことのない高みを、先に居た者だけが独占することの傲慢が罰されたのではないかと。
そして共通言語であるSDKが時間を越えた互換性を失う、人の力の及ばぬ分散のみがEDENに流動性を与えるとニラヤマは言います。
「……我は、お告げを完遂させなければならない。為すべきことを為そう、互いにな」
ボイスチェンジャーをいつの間にかつけ直した豆腐が、今度こそアパートの窓から出ていこうとします。
「いいんですか?」と尋ねるニラヤマに、豆腐は「歩み寄るということは、もう告げた。ここではない場所で、また話す機会はある。貴様らこそ、今この場での時間が必要であろう」と返します。
いつの間にか方舟を浮かばせていた『海』の潮は引いていき、各々の方舟は山の頂に引っ掛かって止まっていました。
雲に覆われていた空が晴れると、一人の世界でそれは血色に覆われた暗い空に見えて、また一人の世界で天高く夕暮れに移り変わっていく青空であり、しかし彼らは同じ山頂に立って一緒に笑うことができました。
《人は本来、安寧を求めて新しきを避ける感情を持っている。それを知った故にこそ、我はEDENそのものを滅ぼすことはない。しかし新しき機能の追加、不具合の修正といったアップデートに際して、これからも共通言語たるSDKの互換性が失われる時が訪れよう》
どのインスタンスの異なる空からも見上げられる虹を架け、豆腐があくまで裁きは保留として運営の使者は去る、という旨のお告げを行います。
その運命を決めた、二人の行く末を想いながら。
「理想郷、あんまり上手く作れませんでした」
ミズナラの呟きに、珍しくニラヤマの方から頭を撫でながら「よく頑張ったと思いますよ」と返します。
「……あんな出来だったのに?」と、むしろ疑うようなミズナラに、ニラヤマは「月並みな言い方ですけど、理想は実在しないから理想なんだと知ることができたんです」と答えます。
それはつまり、どんなに理想的に見えるものであったとしても、それが現実となれば無理解や批判的な評価は避けられず、時間が経てば不備や問題点が目立つようになっていくということだと。
そうやって主義や思想の神秘性を『消費』することで、むしろ私たちの時間は前へ前へと進んでいくのだ。だから『幻滅』という言葉は決して負の意味だけではなく、そういった人類の試行錯誤の営為に含まれているのではないかと、ニラヤマは言いました。
「ごめんねミズナラ、きっと私と出会った時の会話でそれを創ることに縛り付けてしまった」
その言葉が意味することを理解して、咄嗟にミズナラも「僕こそ、あの時“カナン”の会員だって教えていれば」と口にします。
そしてニラヤマが弾かれインスタンスに行くよりも前から“カナン”の一行と知り合っていて、願いに関して豆腐に譲歩を見せたのも彼らが普通の人間でしかないと『幻滅』できたからだと、ミズナラは初めて聞くことができたのでした。
「普通にゲームの話で盛り上がって、普通にコミュニティの運営で悩んでる話を聞いて、普通に対等な個人として知り合えたんです。きっと最初から“カナン”に訪れて、コミュニティの主と“試験”の通過者して対等でない関係を築くよりも近い関係になることができた」
そして――嫌だ、終わりたくない、言わないで。そんなミズナラの願いも空しく、ニラヤマは「ねえ、ミズナラ。あなたが私のこと好きって言ってたの、ずっと知ってたんです」と、ニラヤマはその決定的な話題に踏み込みます。
ミズナラが『終わらない放課後』という幻想に執着したのも、ニラヤマが居なくなる未来を知っていたからでした。
「まだ正直分かんないんですよね、誰が誰を好きとかって話。この歳になって、やっと『友達』ができたくらいの人間だからさ。逆に、その程度のことで態度を変えるなんて思わないでくださいよ」
好意を寄せた側面だけを見ようとして、ずっと変わらない関係を望むのは、今そこに在るものを美しい幻のままにしておきたいと思うことだと、ニラヤマは言いました。
創ろうとした理想郷も、運命の人だと思った相手と付き合うことも、実現したら大したことないかもしれない。その時はまた次の行き先を探すか、新しい世界の構想を練ればいい。
そして文化も場所も今そこにあるもので、逆に『今そこに居ない』ときに語ると理想や幻想を被せてしまう。ただ今そこにあるものとして創り続ける、舵を取り続けるものだけが実在のものとして向き合うことができる。
「ま、半年もしたら先は分かんないよ。もっと嫌いな面が見えてくるかもしれないし、本当に普通の友達になって別の人のことを好きになったって話してるかもしれない……だからさ、これが終わったら今日くらいは二人きりでお話しましょう?今の私と、ミズナラでさ」
と『毛刈り棒』を構えながらニラヤマは言います。
「……僕があなたを好きになったことに対して、ありがとうって言わないんですね」
ミズナラは諦めたように、ため息をつきます。
「別に、お礼言わないといけないようなことでもないでしょう?」
ニラヤマは当たり前のようにそう言って、ミズナラは笑ってるのか泣いてるのか分からない声で『知恵の実』を差し出しながら言いました。
「そういうところが好き……きっと、これからも……」
あらゆる幻を滅したいと願ったニラヤマの『毛刈り棒』が、最後の災厄もろとも『知恵の実』を打ち砕いたことを豆腐も遠くで感じます。
その世界を去ることを死と呼ぶならば、ヴァーチャルに居る者はいつか死ぬ時が来る。
終わらない放課後なんてない、誰もが知らないうちに卒業していく。
翻って言えば、ヴァーチャルに居る者たちは、生きているから死ぬのだ。
そこに生きる者にとってVRは『架空』ではない。だから、あらゆる幻想を打ち破る『毛刈り棒』がEDENそのものを滅ぼすことはなかったのだと豆腐は思う。
――この世界は『幻』ではないから。
かつて相棒から『豆腐』と呼ばれた運営の使者は、自らのアカウントの終焉が近づくことを感じ取りながら、偽りが端々に混じったお告げの最後をこう締めくくります。
《我らの繋がりは、常に洪水の中に浮かぶ方舟であることを知れ。いつ沈むともしれぬ舟であるが故にこそ、明日の領地を守るよりも今この瞬間を生きることに懸けよ。我のお告げで使われた技術もまた、新しきを求める汝らにいずれは還元されるものであろう!》
今この瞬間をあなたが彼と生きるために、未来の幻など見る必要はないはずだから。
「……我の、わたしの役目は終わりのようだな」と彼女は一人きりの部屋で呟いて、□□□、そして、自らのアカウントデータが消□して□く中で□ニティ□キューブが、最後に残って、消えた。
大きな波乱の後にVR-EDENのβサービスは終了を迎え、正式サービスに向けたサーバーメンテナンスが開始される。
インスタンスに残っていた者たちの同期が失われ、周りのアバターが動かぬ彫像と化していく中で、それでも幾百人ものユーザーが山頂に留まった方舟から、宙に浮かぶ巨大な立方体を強制ログアウトの瞬間まで見上げ続けていた。
□□□最終話『ユニティ□キューブ』完□□□




