『幾百もの筐舟に乗って』
そして“カナン”の主と“ソドム”の有名人が同じインスタンスで問題解決に向けて、言葉を交わすのを見ながら「まさに呉越同舟といった感じだな」と豆腐は呟きます。
「どれだけスタンスが違っても、大きなコミュニティの主ならEDENの存続を願っていることに変わりはないでしょう」というニラヤマの返答に、妙な含みを感じ取った豆腐が「ならば、貴様は……」と言いかけた時、ニラヤマが『毛刈り棒』を豆腐に押し当てました。
それが再び植え直されるまで、豆腐はアバターを変身させる機能を失ったままになるのです。
「貴様……何か、考えがあるのか?」
ここに来て裏切るのか、と豆腐が問うことはありませんでした。
「お告げはここで成し遂げて、あんたはミズナラに会いに行く」
ニラヤマは頷きます。
「アバターもワールドも同じゲーム制作ソフトの産物、ならば豆腐に与えられた『変身』もこの場所に植え直せるはずです」
そう言うと、ニラヤマは『毛刈り棒』を大聖堂のワールド自体に押し当てます。
ニラヤマが直方体の組み合わせでワールドを創ったのは、豆腐への当てつけとモチーフとして取り入れてくれたのが半々といったところで、けれど刈った箱型のマテリアルが植え直しの対象になる『毛刈り棒』にも思わぬ可能性を与えていたのです。
「ぐ……」と思わず豆腐は呻き、ざわりと直方体で構成されたワールドの壁が波打ちました。
今までは『豆腐のアバター』という一つの箱の大きさと色、それを中心とした箱型パーティクルの軌道を考えていれば良かった中に、大聖堂の建材である大量の直方体が飛び込んできます。豆腐は各々の建材が膨らみ、縮小し、縦に延び、際限なく拡張していくイメージに手綱を付けようとしました。
大聖堂が天窓を閉ざして、唯一の光源であった月明かりが消えます。
そして暗闇だけがある中、淡い虹色に光る立方体が宙に出現します。今度は、さっきと違って最初から豆腐が主役で、その箱に注目させることに全霊を注げば良い。
暗闇の中で唯一の光源に注目させる方法は、奇しくも神が最初に光あれと言った天地創造の一日目と同じでした。
「それで、どうやってミズナラに会いに行く」と、ワールドを『変身』させながら豆腐はニラヤマに話しかけます。
そして『知恵の実』の刈り取りと植え直し、そしてスカイボックスの破壊によってインスタンスを移動する実験を、既にムロトで済ませていたと聞かされたのでした。
流石の豆腐も「貴様、とんでもないことをするな……」としか言うことができませんでした。
「けれど、既に行ったことのあるインスタンスじゃなくて、どこに居るか分からない相手を『壁』を越えて探し出すのは難しいと思う。あんたの『変身』機能は無くなっても、運営の使者である律法体の権能は残ってるはずですから、それを貸して欲しいんです」
「しかし、我は“お告げ”のライブも並行して行っているのだぞ!?正直イメージなど先程で使い果たして、天地創造といっても何をすれば……」
とまで言い掛けた時、豆腐の脳内で閃くものがありました。
「……イメージの、問題か」
ムロトと話したという『スカイボックス』をインスタンスの壁に見立てる話を思い返して、豆腐は呟きます。
「分かった、やろう。その後のことは我に考えがある」と豆腐はニラヤマに言いました。
そしてニラヤマの『毛刈り棒』は先端に律法体である豆腐を乗せてハンマーに姿を変えます。スカイボックスを破壊して、インスタンスの中から外の世界へと飛び出すために。
「しかしニラヤマよ、随分と現実らしくない巨大なハンマーだが構わんのか?」
と豆腐が茶々を入れた通り、毛刈り棒はその機能の強化を表すように背丈の数倍ある巨大な槌へと変化していました。ニラヤマはふふっと笑って、豆腐に言い返します。
「たまにはご愛嬌ですよ、デカい鈍器はロマンでしょう!?それに、現実らしい景色に一つだけ有り得ないものが混じってるから、異物感が際立つみたいな組み合わせは大好きです」
ニラヤマの声に応えるようにハンマーは一人でに傾き、そしてぐんぐんと長さを伸ばしていくと無限遠にあるはずのスカイボックスに叩き付けられ、大聖堂のワールドで夜空が砕け散ります。
夜空の破片が降り注ぐ光景に驚嘆の叫びが上がる中、豆腐は呟きました。
「二日目に神は天を創ったが、我らは天を壊した。そして神は三日目に大地を作り、海が生まれ、植物を生えさせられた。地とは存在の座す場所――インスタンスだ。それなら海とは?」
最初から、それは『壁』などではなかったのかもしれない、と豆腐は独り呟きます。
それまで豆腐はニラヤマとワールド製作していた時の、ゲーム制作ソフトを思い浮かべて『変身』のイメージの手綱を握っていました。その手綱がほどけて消える様を、豆腐は幻視しました。
――『契約の箱』が願いを具現化する装置であるなら、豆腐の『変身』の本質はゲーム制作ソフトに準拠した操作などではなく、視聴覚を介して世界観そのものを共有することだ。
豆腐は大聖堂を作っていた建材を方舟へと作り替え、そして砕けた空の代わりに一面の海を出現させます。そして全ての大聖堂ワールドで同じことが起こった結果、それぞれの方舟の存在が海を隔てた先に認められるようになりました。
誰かがインスタンスを開くたびに現れ、最後の一人が去る度に消える場所。それは陸のように確固たる存在ではなく、それを隔てるものも『壁』ではない。
インスタンスという舟同士は海に隔てられていて、けれど個々人は現れては消えるインスタンスを飛び石のように渡って行けば、いつの間にか遠くにあった舟にだって辿り着ける。
そして一つの場所に留まっているつもりの者も訪れては去り、集まり増えては分裂する人の波の中で気付かぬうちに、違う場所へと流されている。
――それは流動的に作られる出会いの場。どんなに孤独を自認する者だって、数少ないフレンドが会いに来た時、そこは二人のユーザーが乗り合わせる場所になっているのだ。
まさに洪水だ。
確固たる陸地など何処にもなく、人によって担保された繋がりのみが場所として存在する。他者という水滴によって創られた大海原の中に、ぽつんと『繋がり』という舟が点在している。
まるで人を水滴として集まった巨大な舟の中に、一人きりで漕ぎ出していくような世界の広さ。そして、そう、やはり、他者の存在こそが可能性を感じさせる自由として、そこに与えられているのだと。
そして咄嗟に『方舟』をイメージしようとして、代わりに似た大きさの手頃な箱型のものに変形していました。それは、アパートの一室でした。
「あの、これ私のワールドじゃないですか?」
とニラヤマが言って、ようやく気付いた豆腐は「む……?ああすまん、他の景色を作るのに手一杯で気付かなかった」と返します。
けれど、豆腐はこの光景こそが正解であるという気がしました。
コンピューターの箱をネットワークで繋げて、四角い部屋の中に居る孤独な人間に、同じところに居ない人間たちの幻を見せる。決して同じものを見ているわけではなく、それでも確かに彼らは繋がっているのだと。
違うインスタンスに居るフレンド同士を通して、遠く離れた星々を結び付けて夜空に描かれる星座のように、或いは糸を縒り合わせて綴られていく大きな海図のように、無数の線が引かれていくのです。
それぞれの繋がりがインスタンスの海によって隔てられていながら、それらを結び付けて行き来する方法もまた人の繋がりでした。
ニラヤマも眼下に広がる星座のような輝きに息を呑み、その星々のうち一つに向けて漕ぎ出していきます。
――赤く輝く糸によって繋がれた星座の中心、弱く輝く一人きりの招待限定に向けて。
ニラヤマは近付いていく赤い輝きを見つめながら、かつて豆腐にVR機器とはEDENに連れて行ってくれる交通機関のようなもの、と言ったことを思い出します。
視聴覚的な体験を通して、自分が好きだと思ったものを同じように好きな人たち、或いは一緒に居たいと望む人たち同士で集まることができる。金銭的にも物理的にも法律的にもそれ以外の理由で集まる必要がないからこそ、同じ願いを持った人たちでだけ過ごすことができる。
「皮肉なものですね。行くことが難しくて、外から見たら行くことに大した価値もないような場所だからこそ、本当にそこに来たい理由がある人だけが訪れるなんて」
わざわざ仕事にも生活にも関係のない『場所』には、好きじゃなければ来ないのだとニラヤマは呟きます。それは、もしかしたらVRというものが一般的になり過ぎていない、今だけしか成立することのない蜃気楼のような価値観なのかもしれないと。
お金儲けだとか有名になりたいとか性欲だとかの下心があって来たとしても、アバターだとかワールドだとか声と音楽だとかの生々しい体験の中で、それらを忘れて『楽しんで』いる自分にふと気付くことがある。今のニラヤマ自身のように。
それでもVRSNSの価値観だけでは息苦しいと思うなら、ヘッドセットを脱げばいい。そして現実での仕事や色々な遊びから家に帰ってきたらヘッドセットをまた被って、こちらの世界でしか得られない体験をしに行けばいいのだ。
海外旅行などと違って往復に時間も料金もかからない、一日の中でどちらにでも居ていいようにVR機器という『交通機関』で繋がっている。
そして『こちら』では『あちら』の価値観に従っている必要はないのだと。




