『もう一つの決戦(2)』
最初に語ったのは『優等生』というニュアンスだけ伝わる言葉で、けれど具体的に『医学科生』という立場をニラヤマが明かしたのは、ミズナラに対してではありませんでした。
医師の前には、様々な素性や職業の人間が訪れる。
けれど、それは自らの病が治療されることを求めて、その病について自らより深い知識を持つ医師に会いに来るのであって、決して『対等に会う』ことはできないのだと。
ましてミズナラは『適応障害』という病名で休職して病院に通っていましたが、その病を扱う精神科という学問では患者に共感したり寄り添わないことを――精神的な病において特定個人への依存は決して良い効果を生まないが故に、両者のために義務付けられているのだと、ニラヤマが語った相手はムロトだけでした。
救いを求める民に医学という学問を信じろ、病院という場に訪れろと告げる。
特に精神科という領域においては週に一度、或いは月に一度ここに『逃げてこれば』いい、ここは普段あなたが見せることのできない『病』という側面を受け容れて、専門的な立場から最適な対処できる避難所であると。
人はその心の中に様々な側面を持っていて、一つの場所や一人の相手に全てを曝け出すことはできない、そして『病』もまた人間の一つの側面であると言ってから、ニラヤマは「その言葉は、ずっとその場所を維持していく私たちを救うことはない」と話しました。
ある時そこに訪れたいと思った誰かのために、特定の側面を共有できる相手と会える場所を維持するために、自分だけは同じ側面だけを見せていなければならない、
――それが現代の十字を背負う『聖職者』たるということでしょう?と。
「そう、そうですね。教えるのが得意で助かりますよ、ムロト先生」
「ははっ、先生はやめてくれないかなぁ。そっちは守秘義務あるんでしょ、ニラヤマ先生?」
互いの秘密を知るとは、円滑なコミュニケーションの対価として、お互いに銃口を突き付け合うに等しい契約です。
そして、いざとなれば互いへの情や倫理など置き去りにして、躊躇なく引き金を引くだろうという信頼が『悪友』たるニラヤマとムロトにはありました。
「でも、嫌いな何かが壊れていく様を観たくてEDENに来たわけじゃないはずです」
「それ豆腐くんの受け売り?嫌いな何かが消えてからの生活が今より良くなるなら、見たいかは別として積極的に壊していくべきじゃないかな」
「――そうやって行動を制限する者すべてを消し去った無人の宇宙で、翼を生やして何処までも飛んでいけるとしても、それは自由とは言えない」
「人倫や自由についての定義を説いてるの、この俺に?」
「いいえ、自身の利益のための話だ!私は……最初、もちろん豆腐が邪魔だった。私にとって唯一つの絶対に守るべき信仰は、私はどこにでも行くことができると、私自身に対して証明し続けることだ。その信仰を揺るがす“カナン”という場所には、なんとしても破壊されてもらう必要があった」
VRSNSがSNSである限り、言葉を上手に使える者というのは、上手く創作を行うことができる者と同等以上に、その場の状況に対して働きかける力を持ちます。
言葉を介して相手の思考や行動を変容させる『説得』とは洗脳に等しく、また自らの望みや在り様の醜さを言葉によって自覚し開き直ることで他者の指摘に予防線を張り巡らし、否定の言葉を吐くとしても敵を増やさないように何が嫌で何が憎いのかを自己分析して、逆手に取られないよう攻撃対象を絞り込む。
掲示板や外部SNSという開けた場で共有される文章投稿を言葉の『砲火』と呼ぶなら、インスタンスという閉じた場で交わされるのは言葉の『刃』であり、そこにあるのは異なる目的を持った者同士による言葉の白兵戦となり得るのです。
「じゃあ、どうして“カナン”の破壊を譲歩するようなことを言ったんだい?まして豆腐くんと二人で行くことができたらなんて条件付けて、二人して“カナン”の価値観に染まるようなことをさ。自分が“カナン”に行く段取り付けたら、閉じた輪の外側なんてどうでも良くなった?そもそもさ、どうしてニラヤマ君は『自由である』ことに執着してるわけ?」
ニラヤマの方が無言になる番だった。
いいや違う、喋り過ぎそうになる自分を抑えて、まだ喋りたいことがありそうなムロトに手番を回したのだ。誰かに何かを問いかける、それは自分が『あくまで返答』として、その何かについて語りたい時の定石であるから。
「……俺はさ、現実の世界で諦めたものが沢山ある」
「性行為させてくれる、美少女のオタク友達のことですか?」
「それだけじゃない、当たり前に人生の中で手に入るらしかった沢山のことさ。君、医者の二代目だろ?じゃあお金の苦労なんて一度もしなかったはずだ。何回か留年したって聞いてるけどバイトに追われてる気配もないし、一万円はするアセットをワールド作る度に買ってるよね。食費も毎日二千円くらい当たり前でしょ?最初から持っている人には絶対に分からないことだ。何かを持ってないことで何を諦めることになるか、何に縛り付けられることになるかってのはさ」
あの時、そして今、お金を持っていれば――そんな後悔を、負い目を一生付きまとわせることになる。
お金によって全てが満たされるわけではないとお題目があれど、お金によって何が満たされて何が満たされないのか知ることができるという、その知識という一番大きな要素がお金を持たなければ得ることができぬ、そして持たざる者を一番その欠落に縛り付けるものだとムロトは、それを持つ立場であるニラヤマに語ります。
お互いがお互いに伏せていた敵意、見せることが得策ではない側面。それが開陳されるのは男女仲においてもそうであるのと同じように、お互いの今後の関係を気にすることがない最後の舌戦――つまるところブチ切れた別れ話の時だけであり、ニラヤマにとっても今がその時でした。
「何度でも言ってやる。人倫なんてクソ喰らえだ。私は幼年期、父母から言うことを聞かなければ自殺すると脅されて、良い子であることを強制され続けた。だけど今こうして医学科生をやっているのは父母から『言うことを聞かされた』からじゃない。私が善人であること――善い子なら父母を死に追いやるような我が儘をしてはいけない、善い医学科生ならば良き医師となるべく本分たる学問にのみ励み、善い人間なら自らの犠牲を我慢して社会を利するべきという、全ての倫理を放棄した『悪人』になって周りを利用し尽くしたからだ。友達の居ない学生生活でも偏差値72の国立医大に行けば、青春を満喫した末路がショボい大学ショボい職で敗戦処理の人生だと嘲笑うことができた。それが自由だと思っていた」
今度はムロトが、手段としてではなく言葉を失って押し黙る。
同情も批難もできない。
捻じれに捩じ暮れた人生とそれに由来する価値観と感情を、余すことなく自覚して言語化できること自体が、言葉を武器として扱う者にとって必須の通過儀礼であると互いに知ってはいる。
それ以上に、勝ち誇るような言葉を並べるニラヤマの声が、どうしようもなく苦しそうで――返り血に塗れたような修飾の言葉に、当人の心から漏れ出す深く膿んだ傷痕の血を見て取ってしまったからだ。
それはつまり、親の愛や同級生との友愛、全ての傍に立つ者と引き換えにしなければ、自由を手に入れられない環境で育ったということで、そんな子供を問題児として何度か受け持ったことがあった。
勝利宣言は、嘲笑は、むしろ手に入れた僅かなものに縋るしかないからだ。そして、ニラヤマの予測された感情の爆発は訪れた。
「心が寂しいんだ!!!あんただって、そうなんだろ!?一人でワールド巡りしてれば良い?それならなんで他のSNSで批評や感想を発信しようとする!セックスできる美少女のオタク友達が欲しいだけ?なら、どうして私と“ソドム”や“カナン”にミズナラの居たコミュニティの愚痴や悪口を言い合った!?
悪人として倫理の壁に守ってもらえない覚悟さえすれば、ありとあらゆる狡い手を堂々と取ることができる。だけど誰かと共有できる価値観がどこにもないのは……寂しいんですよ、一人だけ物理法則の違う別の宇宙で生きてるみたいに。同じ法則で、同じ価値観で生きている、仲間が居ないと苦しかったんです」
『――ずっと』。
そう言葉に出さず、嗚咽も漏らさず、その二十数年の孤独を、締め括る最後の修飾がムロトには聞こえた気がした。
違う諦めを持ち、得られなかったものへの幻想に縛られ、自由を求めて足掻き続けるという一点で共通する、鏡映しで見ればこそ滑稽で哀れな道化の悪役の姿を見た。
もう敵として互いに立つことはできなくなっていたし、恐らくニラヤマは最初からそれを望んで訪れたのではないと、ムロトも分かり始めていました。
「会いたい人なんて誰一人として居ない場所で、けれど独りでは生きていけない自分を誰しもが抱えている。利用されないために倫理を捨てて、複数の価値観を掛け持つことで洗脳されないようにして、この船が沈んでも別の舟に泳いで行くことができるって安心を確保しても、寂しさだけはどうしても治らなかった。最初は『欲しいもの全部を満たしてくれる世界』があって、自分が不当にそこを出入りできないようにされているからだと思っていた」
けれど有りもしない理想郷に行こうと足掻いて、色んな場所を巡って色んな人に出会っていく中で、いつの間にか欲しいもの一つ一つが満たされていて、不自由を感じることが少なくなっていったのだと、ニラヤマは言いました。
「違った、違ったんですよ。私の知っている価値観、私の見ている法則の外で、一見分かり合えない人たちと共通点を見つけられた。混沌の坩堝たるEDENの世界、そこでミズナラや豆腐やムロトさんと会えたことで、寂しくなくなった。
旅路の果てに虹色の羊毛なんて無かったけれど、赤と青と黄と緑、紫とオレンジと水色の羊毛はいつの間にか手に入っていたんです。ソドムも、ミズナラのフレンド達も、今の私の『自由』を構成している欠片なんです。私はもう満たされている、だから“カナン”を壊す必要がなくなっただけなんですよ」
それを聞いたムロトが何かを言おうとした時に、異変が起こりました。
ニラヤマの『毛刈り棒』が、持ち主の言葉に応えるように振動していました。
「協力してもらえませんか、ムロトさん」
「アカウントは創り直すよ、何度でもね」
条件の交渉はむしろ、ニラヤマとムロトのような人間にとっては、お互いの妥協点に向けて話が収束し始めている証でした。
「交換条件は……そうだな、君が行くことのできる手広いコミュニティに、一介の新規ユーザーとして紹介してくれたら良いけど。まぁ、約束を守ってくれない可能性も織り込み済みさ。その時はもう一回アカウント創り直して、君とは金輪際近付かないようにするよ」
とムロトが言うと「紹介は無理です、私もこれから信用をそこそこ失うので。でも友人交流でジョインしたら程々に仲良くしてあげますよ」とニラヤマが返します。
「……ねえ、一体何をするつもりだい?」
ムロトが振動する『毛刈り棒』にようやく気付きます。
「……インスタンスの壁って、なんだと思います?これはイメージというか、象徴の話なんですけど」
アバターの表情は変わりません。ですがムロトは、その悪友としての付き合いの中でニラヤマが『嗤った』ことを直感しました。
「私はこの空。裏地に空の画像を張り付けた、無限遠にある正六面体のスカイボックスだと思うんですよ。皆が同じ空の下で生きている現実世界との大きな違い、空さえ繋がっていれば歩いて会いに行けるのに、って」
ニラヤマが言ったことの、とてつもなさに流石のムロトも「空を砕くのか……」と言葉を失います。そして続く言葉の「あと、ちょっと噛ませ役を演じて欲しいんですけど」というスケール感の差に苦笑したのでした。




