『灰白色の立方体』
「あっ、あのー初めまして……豆腐さんって人とフレンドなんですか?」
という声が背後から聞こえてきて、ニラヤマは回想を打ち切られます。それはムロトの挑発を受けて、豆腐に『知恵の実』の接続を切られた直後のことでした。
振り向いたニラヤマは、はい、いいえの答えを返す前に話しかけてきた相手の容姿をじっくりと眺めます。
ネームプレートは長期間EDENプレイして幾つかのコンテンツをアップロードした者であることを示す紫色で、石膏のような肌と彩度の低い衣服に改変された市販の美少女アバターに見覚えがあるような気がしつつ、ニラヤマは相手の素性を探る意図で
「こちらのインスタンスにはどういう経緯で来たんですか?」と言います。
「ああ、なんか色々と話題になっていたので、フレンドと一緒に見に行こうって話になったんです。もう一つ人の多いインスタンスをさっきまで見てきたんですけど、こっちに移動してワールドだけ見て回ってから帰ろうかなと。ほら、あそこに集まってる人たちです」
そう言って相手が指差した先には、一様に彩度の低い衣服や髪と肌の色で統一されたアバター達がなぜかコタツを囲んで集まっていました。
とはいえ『弾かれインスタンス』の中には刺青を入れた肌を惜しげもなく曝け出す“ソドム”の一行、ふさふさとした毛並みを持つ人狼や昆虫のような四本腕といった人外に近い形態のアバター達といった様々な集まりが点在していて、コタツに入っている彼らの一行だけが特別に異彩を放っているわけではありませんでした。
そしてニラヤマは一行の中にフレンドが数人居ることを確認すると、迷うことなく“カナン”の主であるユーザーの前に歩みを進めて、こう言いました。
「こんばんは、先週ぶりですね」
「ああ……どうもニラヤマさん」
まだ二人のネームプレートは、互いがフレンドであることを示す色に変化していません。カナンの主からは無論、ニラヤマもフレンド申請や、その許可を求めるような言葉はまだ一度も発していません。
フレンド申請を送る時というのは個人差があり、閉じたイベントである“カナン”の主催者、ましてフレンドになることが友人限定で開かれる会員制のクラブに参加できることと同義であるなら慎重になるのは当然ですし、ニラヤマの方も会話をして人となりが分かっている相手のフレンド申請しか受理することはありません。
一方、別にフレンドになるという儀式をした相手でなければ、言葉を交わしてはいけない理由もないのです。
ニラヤマが豆腐に、もし“カナン”に行くことができれば願いを取り下げても良い、と言ったのは、自分自身の力でそこに行く算段が付きつつあったからです。
誰かのフレンドのフレンドと、フレンドになった上でインスタンスに参加すれば別のコミュニティに行き当たる。そんなことを繰り返していたニラヤマは、既に“カナン”の一行が訪れる友人交流にまで行動範囲を広げていたのです。
そうして次は“カナン”の主や一行が訪れる友人限定でフレンドを増やし『当たり前に居る人』になることで、徐々に外堀から埋めていくつもりでした。その時はミズナラが『知恵の実』で繋がりを拡大していることなど、まだ知る由もなかったのです。
「そういえば、さっきの話なんですけど」
とニラヤマに声をかけてきたユーザーが言うより先に「あの豆腐っていうユーザーや、知恵の実ってアイテムの機能について、何かご存じなんですか?」とニラヤマは言います。
「ああ……いや」と少し間があってから周囲は沈黙します。
それで彼らの何人かが『律法体』や『契約の箱』について知っているようだとニラヤマは推測しますが、ミズナラの配信や豆腐との繋がりがこの集団との関係に、どのような影響を及ぼすか分かるまで自分の素性を明かすつもりはありませんでした。
そして壁のディティールを補完するために肖像画やチラシを張り付けることや、皆が知っている曲を賛美歌と呼ぶことなど大聖堂とクラブ文化の類似点を与太話として語り、自分を何者としても定義しないまま共に時間を過ごします。
そうして、その場のインスタンスで特別ガードが堅いユーザー以外の全員とフレンドになっていけば、そのユーザーも毎度フレンドでない人間と顔を合わし続けるよりも、フレンド申請を受けてしまった方に気が楽になるという、ある意味でムロト達がやっていた『駒取り』の鏡映しでした。
ただでさえ誰かのフレンド申請を無視或いは拒否することは、相応に精神力の要る行為です。
それがマナーを守らなかったり初対面で素性の知れない相手だという理屈のある時はともかく、周りの誰がインスタンス主の友人限定にも姿を現し続ける、他のユーザー全員とフレンドになっているユーザーともなれば、拒否した上で別のインスタンスで再び顔を合わせるよりは『試験』を介さずともフレンドになる方に天秤が傾くのです。
――さて、と今この状況でニラヤマは考えます。
眼前の“カナン”の主に何を話して自分をどういう人間だと思わせたら、フレンド申請を承認してくれるだろうか。
友人限定から出てこない“カナン”と『同じインスタンスで会う』という最大の関門を突破して、自分に関する厄介な情報――カナンの破滅を願っていたことも知られていないまま『雑談』を行えている千載一遇の好機です。
或いは一度で“カナン”の主まで行かずとも、取り巻きの誰かと意気投合してフレンドになれば再び会う機会も跳ね上がるでしょう。多少の時間がかかろうとニラヤマはそれを『やってのける』という自信がありました。
けれど、それは本会場のインスタンスで起こっている豆腐とムロトの争いが、自分が駆け付けても後戻りのできない状態になるよりも短い時間だろうか、と。
考え込むニラヤマをよそに「このインスタンス、賑やかになってきたなー」と明らかに自分の主張を滲ませた感想をコタツの一角に居たユーザーが口にして、数人がそれに同意するように頷くと「ここ全体公開の『弾かれインスタンス』みたいだし、そろそろ○○さんの友人限定にでも移動しますかね」と誰からともなく言い始めます。
それはニラヤマが既にフレンドになっているユーザーであり、“カナン”の主にフレンド申請を仕掛ける最大の好機でもありました。閉じた輪はその外に居る者を寄せ付けないと同時に、内に居る者同士の親密感を上げる効果も持ちます。よりプライベートな内容や踏み込んだ意見について口にされることが多く、そこで表立った衝突もなく会話できた相手は信頼されやすくなるのです。
「……いや、そういえば今日『知恵の実』を配布している人が、運営の使者からのお告げを配信するって噂を聞いたんですよ。ここの動画プレイヤーで、少しだけ見て行きませんか?」
とニラヤマは彼らを引き留めて、製作者として内密でワールド内に仕込んだ動画プレイヤーを起動させます。
ニラヤマは、豆腐と離れ離れになった時点でそれを静観する選択肢もありました。豆腐がムロト達に負けたとしても“カナン”の滅びという願いは達成されて、自分は『知恵の実』の所有者として繋がりを引き継ぐことができる。場合によっては千々になった“カナン”の中から既に面識を持った者を、自分の手元へと引き抜いてくることも可能かもしれない。
そこに豆腐というユーザーが居ることは有り得ない、というだけの話でした。
確かに豆腐とは様々な局面を共に乗り越えて、ワールド製作という楽しみを初めて共有した相手でもあるが、それは決して『替えが効かない』という程の要素ではありません。
ただ、ムロト達に追い込まれた豆腐が自棄になって、ニラヤマを巻き込むような自殺行為を取るかもしれないという懸念で、最低限の見捨てない態度は必要だと思っただけだと自分に言い訳をしながら。
少しの読み込み時間の後で垂れ幕をスクリーン代わりに表示されたのは、ニラヤマの予想もしないような光景でした。
ミズナラの配信画面の向こうから咆哮のように聞こえてきたのは、罵声だけでなく興奮と熱狂の声でした。
波のようにアバター達が上下に揺れる中心に、誰もが見慣れた立方体が回転していました。
全員ではないが、決して少なくない数のユーザー達が配信画面の向こうで手を伸ばす――その箱は『豆腐』と呼ばれる、製作ソフトを触る者なら誰でも目にする白灰色の立方体でした。




