『二人の原罪』
「その人が女だから、好きになったんですか?」
「え?」
と思わず返したのは、それが『元カノと別れたという話』に対する第一声で、おおよそ考えられる限りの脈絡のないものだったからです。
「えっと、あーつまり、」と、意図が思うように伝わっていないのをミズナラの沈黙から察したらしく、言葉を探すような仕草を数秒してから「その人がプロの漫画家になって、休職中の自分では会いづらいって感じたんですよね。だけど卒業する前から趣味が同じでも相手は不登校で、わざわざ会いに行かないといけないのは同じだったんじゃないですか。だから『プロの漫画家』になったら会えないっていうのなら、その人を好きになった時は『誰』だと思っていたのかなって」と、これまた伝わっているか自信なさげな声で言ったのは、初めて出会った時のニラヤマでした。
その頃ミズナラはまだムロトと同じ“ソドム”近隣のコミュニティに居て、退廃の限りを尽くしていました。
たまに日本人の多い全体公開ワールド、主に初心者が集まるチュートリアル用ワールド等を渡り歩いてはEDENに来たばかりの初心者を『非日常的なVR体験へと誘ってくれるお姉さん』として案内し、それ以外の選択肢を知られる前に所属しているコミュニティの構成員や自身のパートナーにしていたのです。
パートナーといっても『多夫多妻制』或いは『掛け持ちOK』がコミュニティ内の常識で、寝るの意味はどちらでもありました。情事を行った相手とそのまま朝まで添い寝することもあれば、無職の相手と朝まで飲み明かして昼まで寝落ちして、起きたら再び乾杯をするような自堕落な生活もしていました。
――それは豆腐の知る、学友向けの裏アカウントにも書かれていない秘密でした。
それまでの学校生活でミズナラは、場に合わせることなく素のままで誰かに好かれるように振る舞えたので、職場とプライベートの顔といったものを使い分ける考えも、その必要も感じていませんでした。
だから仕事の同僚に対して必要以上に自分のことを話したり、不平不満を口にしたせいで距離を取られて初めて、給料のために働いているような場では個人の事情なんて求められていないと知ったのです。
そして職場に出かけることに苦痛しか感じない自分の現状を、クラスの人気者として交友関係に悩むことのなかったミズナラしか知らない、かつての学友たちに相談することもできずSNSで連絡を取り合う頻度すら徐々に減っていった中で、人恋しさを解消できるEDENという場を知ったのでした。
ニラヤマは勿論EDENに来たばかりの新規ユーザーとして知り合って、けれど決して理想的な『お姉さん』の振る舞いができた相手ではありませんでした。それはミズナラがEDENに傾倒していった結果、現実で遠距離恋愛中だった彼女と別れた日の夜だったからです。
ミズナラが元カノと別れた直接の切っ掛けはVR-EDENをやってることが、どこかから当時の彼女にバレたことでした。それを知った当初、彼女はEDENについて否定するより興味を示し、自分もそこに行くから案内をして欲しいと求めたのです。
それを断ったことで言い合いになり、関係に不可逆な亀裂を生んでしまったのだと――やけ酒でべろべろになったミズナラは、不可解な質問をしてきた当時のニラヤマに答えました。
「――その人だから好きだったんです、好きだったんですよ」
かつて現実のミズナラが不登校気味だった元カノの家にプリントを届けにくる仲になったのは、部活所属が強制だった学校で単純に漫画好きだったミズナラと、幽霊部員でもとやかく言われない場所として豆腐が同じ漫画研究部を選んだことが切っ掛けでした。
クラスの人気者であったミズナラも、沢山の人が集まらない場所で好きな漫画の話などをして過ごす時間を求めていたのです。そうしていくうちに部活として漫画を自分で描いてみる話に行き当たり、狭い漫研部室のある学校に行かせる口実のつもりで始めた中で、彼女は創作者としての才能を開花させていったのです。
そしてミズナラが創作の道を諦めることを『大人になった』と正当化するには、プロの漫画家となった彼女の存在は近過ぎたのでした。
ニラヤマは彼女――元カノがEDENを知ろうとしたことについて、彼女なりに歩み寄ろうとしたのではないかと質問しました。
それは確かにEDENという場所に来てから日が浅いニラヤマ、そしてEDENに来なかった彼女にとっても妥当な理屈で、だからミズナラは改めて説明します。
「例えば僕のコミュニティは、肉体的な性別が女のユーザーを入れないんです。まあ向こうも参加したいと思わないでしょうけどね。それは……なんだろう。美少女のアバターをVR性行為に使ってるのを怒られたくないとかじゃなくて。単純に、ここには『一種類の人間』しか居ないんです。男子校って通ったことありますか?」
ニラヤマは少し迷ってから「まあ、一種類の人間しか居ないところに通ってはいますね」と答えます。
「本当に女の人が一人も居ないと、皆が『一種類の人間』なんですよ。性別なんて、そもそも認識することがない。全員男なら、男らしくなくて良い。そうでない者が訪れたら宇宙人みたいに警戒して、決して輪の中に入れることはないでしょうね。女子校に男子も入れないわけだし――って高専に通ってた須藤さんからの受け売りで、僕は共学出身なんですけど」
高専ってなんだ、とニラヤマは一瞬思いました。
ニラヤマは中高一貫校から大学受験する人間しか見たことが無かったし、クリエイターなんて職業はVRに訪れるまで一度も見たことがなかったからです。
でも、そういう立場だからこそ、須藤というユーザーが言ったらしい理屈をよく理解することができました。
「差異がなければ何者か『らしさ』を求められることもない、って話?女性の居ない場所で女役は代用品ではない、有名な歌劇団だって男を排した劇の中に男役を求めますし」
「多分そう、それで合ってる」この時、ミズナラは妙に物分かりの良いニラヤマが、少し悲しそうに黙ったことに気付きませんでした。
ミズナラは、彼女の漫画家としてのSNSアカウントでVR-EDENへの参入を仄めかす呟きがあった時、そのことを責めて言い合いとなり――そこで決定的に関係が断ち切られるような言葉を、互いにぶつけ合ったのだと話します。
そこまで聞けばEDENに来たばかりな当時のニラヤマも、彼女が何を間違えたか理解できました。それは彼らと異なる『何者か』であるまま、ここに来ようとしたこと――そこから築かれる関係はどうあっても対等なものにならない。その素性や価値観を肯定して崇めるものと、そこに価値を見い出せず繋がることのできないものに、一つであった人間たちを分けてしまうのだと。
「だけど仕方ないじゃないですか。それに、あの人だってプロの漫画家って肩書きがついてから同じ創作をしている人同士ばかりでSNSでも繋がるようになって、不登校だった頃のあの人しか知らない僕なんかと話してるよりも楽しいに決まってますよ」
「そう……なんですかね?ごめんなさい、誰かを好きになるって分からなくて」
ミズナラも、不思議と怒りは湧きませんでした。
どこかのワールドを案内し終えた二人きりで、そして相手が了解していないといけない情報なんてものはなく、だから分からなければ問いて答えることが許されました。少なくとも、なるべく心を踏み荒らさずに相手のことを理解しようという、曲がりなりにも敬意のようなものが互いにあったのです。
ミズナラがそのことを口にすると、ニラヤマはまた少し考えてから話します。
例えば人が二人居るだけなら互いに違う部分があるだけで、それぞれの性質にマジョリティもマイノリティもない。そして『その性質を持つ人間』として接するのではなく、それまでの会話や振る舞いを通して積み上げられてきた人物像に『その性質である』ことを含んでいるだけではないのかと。
ニラヤマは昔、雑居ビルの中に幾軒も詰め込まれた小汚い飲み屋を渡り歩いていたのだと語ります。
一人きりで知らない人たちと話し、相応に親しくなった店の主から別の店について紹介してもらえば、ボッタクリや危ない店に迷い込むこともない。そんなことを繰り返すうちに、今日はこの店に行こうという選択肢が増えて、たまに会員制のアングラなイベントに紹介されたりもする。
やっていることが友人交流に顔を出し、フレンドを増やしていくEDENでの生活と全く同じだとミズナラは笑い、そういうものなのかと意外そうなニラヤマが今度はEDENのコミュニティ事情を聞きます。もう選択肢を与えないまま自分だけのパートナー、自分だけと同じ所属に相手を縛ることなど考えていませんでした。
「――だから私は知らない人と会って、世間話をするのが好きなんでしょうね。お互いに判断材料はその人の容姿や振る舞いと、会話した内容しか無い中でどこまで素性を訊いて良いのか探っていく。もしかしたら親しくするなんて考えられないような素性や立場の人とも、そうと知らずに話してみれば意外と親しくなれるかもしれないじゃないですか」
もし元カノさんが『何者』でもなくEDENに来ていたら仲直りできたのかもしれないですね、とニラヤマが言ったことを冗談と受け取ってミズナラは笑います。けれど、それが当時のニラヤマにとっても、今まさに実現しつつある事だとミズナラはまだ知りませんでした。




