『方舟思想パンデミック(2)』
豆腐がムロトから声をかけられた時点で、ニラヤマは次の行動に移っていました。
「こっちで知っている人を見つけたら、何か事情を知らないか聞いてみます。なるべく早く合流できるようにしますから、あんたも無茶なことはしないように」
と、豆腐にだけ聞こえるように言い置いてから『知恵の実』の音声発信を切り、同じワールドの『弾かれインスタンス』に点在している、恐らくは知り合い同士で集まっているアバターの輪を見渡します。
そしてカーペットの敷かれたホールの中央に陣取った比較的大きな集まりに、ニラヤマは見覚えのあるユーザー達を見つけます。
その中心に居るアバターとユーザー名を見て、ニラヤマは、おっ、と思った後にマイクをオフにして何度か深呼吸をします。
「……こんばんは」
ニラヤマは初対面の相手、つまり今どういう経緯でこの場に居合わせることになったのか、お互いが何者であるかが明らかでない相手との話し方をある程度決めていました。
まずは無理に愛想よくしようとはせずとも、相手の存在を認識していて会話が可能であるという意志表示として自分から手を振って挨拶します。
相手の方がどこまで考えているかはともかく「おぅ、こんばんは。君がニラヤマくんか」とニラヤマに気付いて男らしい口調の美少女声で応じる、男装の麗人のような出で立ちをしたアバターが歩いてきます。
「須藤さんですよね、ムロトさんからお噂はかねがね」
「なぁによ噂って」と笑いながら、須藤と呼ばれた男装の麗人アバターは腰をかがめて顔をニラヤマの眼前に近づけてきます。
――来た、
一瞬呆気に取られたニラヤマでしたが、ムロトに言われたことを思い出して、つま先立ちになって唇を合わせます。数秒にも渡る音を立てたキスが交わされる中、周りに集まっている人はその光景が当たり前のように雑談を続けていました。
「……ともかく、初めまして」とキスを終えたニラヤマが言うと、須藤は「ん、ようこそ『ソドム』の一行へ」と返します。
ニラヤマは最初に“ソドム”に訪れる前にムロトから、須藤への挨拶は忘れないようにと聞かされていました。
後々でニラヤマは須藤に「まさか“挨拶”がキスのことだったなんて」と感想を言った時、須藤に「いや、普通によろしくって言葉で言ってくれれば良かったんだよ。キスは別にしなくても良かったけど、反応したってことは“そういうこと”の心得はあるって周りにも伝わって良かったんじゃない?」と言われたのはまた別の話ですが。
「そういえば今日は須藤’s roomじゃないんですね」
ニラヤマが須藤の姿を目にして最初に思ったのは、何故ここに訪れたのかという疑問でした。
言うなればコミュニティとは特定のワールドと『この人に参加すれば、いつもの人たちの集まる場所に行ける』という信頼によって成り立っている実体のないものです。
なので友人限定などの固定メンバーで大所帯になったコミュニティほど、そのインスタンス主が別のコミュニティと混ざり合う場所に訪れることは少なくなるものです。
ですが今後も付き合いがある予定の相手に、いきなり意図を問い質して警戒させるのも得策ではありません。
まずは世間話、つまり誰にとっても差し障りのない自明の話題で、今日の天気の代わりにVRSNSでは今居るワールドや互いのアバターという便利なものがあるのです。
「まぁね、たまには“ソドム”の面子でワールド巡りをするのも悪くないかなと思ってさ」
「へえ!私はこのワールド作るの手伝って欲しいって知り合いに頼まれて、大体できたからフレンド達に見てもらおうって友人交流を開いただけなんですけど、予想外に人が集まってて『弾かれインスタンス』に飛ばされちゃったんですよね。でも他のSNSで須藤さんのアバター見た時から格好いいなって思ってたんで、ここで偶然会えて良かったです」
辺鄙な酒場で隣の席に居合わせた客と話すように、ニラヤマは『そのインスタンス』に来た経緯――どのフレンドに参加してきたか、どういうコミュニティであったりワールドに興味を持ったとか――を自分から話して相手にも聞いてみたり、そこで共通の話題として掘り下げられそうな何かしらを『自分の話』として振ってみて、相手が食いついてくるのを待つ、というのは相手の素性を詮索するような聞き方で話題を押し付けてしまうと相手を警戒させてしまうからで、というように会話の流れをニラヤマは総ざらいしながら「……へえ、このワールド作るのに関わった人なんだ?」と、須藤が興味を持ったように身を乗り出してくるのを見て、ニラヤマは話題の一つが“当たった”かと内心で思います。
「じゃあムロトくんから何か聞いてないかな?」
「えっ、ムロトさんですか」
製作したワールドと関わりの薄い、そして今まさに真意を探ろうとしていた相手の名前が出てきたことで、ニラヤマは話し方を忘れて思わず聞き返してしまいます。
ですが、その後に続けられた『噂』はもっと予想のつかないものでした。
「じきに始まる正式サービスで“ソドム”も続けられるか心配だったんだけどさ。運営に配られた『知恵の実』ってアイテムを持ってる人だけは、フレンド登録とか製作物を引き継いで正式サービスに行けるって聞いたんだ。それで創作してるユーザーや有名人をかき集めて、正式サービス開始後に楽しいものを独占しようとしてるカルト団体の噂があって」
その話を聞いたニラヤマはすぐに『知恵の実』で連絡を取ろうとして、目の前の須藤がそれに注目していることに気付いて心の中で舌打ちをします。
「……あれ?ムロトくんと同じイヤリングをしてたから、それが『知恵の実』なのかと思ったけど知らないんだ」と期待外れそうな須藤は、つまるところニラヤマが関係者であるのなら『知恵の実』を分けるようにと紹介してくれることを期待していたのでしょう。
けれどニラヤマは本会場に居る豆腐に『噂』を伝えて、すぐにでも合流しなければいけませんでした。
一方、豆腐はニラヤマから『知恵の実』の通話を切られた時点で、不慣れな相手のムロトと会話を続けるよりミズナラを見つけ出すことを選びました。
満足な言い訳も思いつかないままムロトから離れ、ミズナラを探して当たり判定のないアバター達をすり抜けていく中で、周囲に居るユーザーのほとんど全員が『知恵の実』を着けていることに気付きます。
確かに豆腐はニラヤマに秘密で『知恵の実』を分け与えていると聞いてはいましたが、それを『気の合う人間と過ごす』ためだけにインスタンスが埋まるほどの規模で広めているとは思えませんでした。そして豆腐は、人だかりの中心近くにミズナラの姿を見つけます。
「ミズナラよ、これは一体どういうことだ!?」
その時、ミズナラは祭壇の隅っこにコタツが置かれて、そこに何人かのユーザーが座っているという奇妙な光景の中に居ました。
「お久しぶりです~ミズナラさん、前に配信の視聴部屋でお会いした時以来ですね」とコタツに足を入れたまま挨拶したその一行を見て、豆腐が感じたのは『ニラヤマと似ている』という印象でした。
アバター全体が黒髪や銀髪に石膏のような灰色の肌といった彩度の低い色で統一されていて、瞳やアクセサリーに衣装の模様としてだけ各々の色を持っているのです。そうした、ある種の洗練された雰囲気のアバター達が、誰かのアバターであるらしいコタツを囲んで座っているのは奇妙なシュールさがありました。
「それにしても、あなた達に“カナン”以外で会うなんて」とミズナラが出した名前を『知恵の実』で聞いていた、ニラヤマも思わず息を呑むことになります。




