白地図の生活
翌日、制服に着替えて外に出る。河川敷には桜が満開に咲いていて、道路沿いにはツツジも咲いている。まだ新品の制服は、大きめに買ったからかブカブカで、自分のもののはずなのにそうではないような気がする。
そんな事を考えながら歩いていると、後ろから誰か俺に話し掛けて来た。
「海斗!おはよう!」
振り向くと、そこには幼馴染の三雲灯里が居る。灯里は頼んでもないのに、俺の世話を焼きたがる人だ。俺はやれやれと思いながら灯里にこう言う。
「ああ、おはよう…」
「私、海斗と同じクラスだったんだ!嬉しいなぁ〜」
俺は、またこのうるさい奴と一年間一緒に居なければならないのかとうんざりしながら思った。
そういえば、灯里は六年間ずっと俺と同じクラスだった。小学校の時はクラス数も少なかったし、偶然と言えばそこまでだろう。だが、灯里はいつも図ったように俺の所に居る。別に、俺と仲良くなってとは言ってないはずなのに。
「そういえば、ユキは違うクラスって言ってたなぁ…」
灯里が言うユキ、幼馴染の宍戸雪音の事だろうか。灯里が俺と同じくらいかそれ以上に世話を焼いている人だ。雪音もきっと迷惑に思ってるだろうな。違うクラスに行った事が少し羨ましかった。
俺がクラスの中に入ると、既に何人かクラスメート達が入っていた。入学式の時は心が疲れ果てていて、クラスメートとも顔を合わせられなかったが、改めて見ると、小学校から顔見知りの人も居れば、別の小学校から来たと思われる人も居る。俺はその中に、友達の顔を見つけた。
「オッス、海斗」
「同じクラスで嬉しいよ」
俺がいつもつるんでる男友達、安土剛也と綾部真司だ。小学校から一緒に居て、この春休みも一緒に遊んだばかりだ。俺は二人の所にやって来て、一緒に座る。
「そっか〜、二人も一緒か、なら良かった」
「海斗はまた灯里ちゃんと一緒なの?」
「そうなんだよ〜…」
俺はそう言って二人の前で項垂れた。
自分でいうのも何だけど、普段は熱血で暑苦しいと言われる俺も、灯里の事になると急に冷水をぶっ掛けられたように冷え切ってしまう。俺がそんな風になるのは、灯里の事ともう一つくらいだ。
灯里もクラスの女友達と喋っている。確か名前は、野崎奈穂だったっけな…、あまり話した事はない。
小学校の時、一度だけ同じクラスになった事がある気がするが、その時の事をあまり覚えていない。話し掛けた事や話し掛けた事はあっただろうか。野崎は物静かな人だからそういう事があったかどうかも分からない。
そんな野崎が、何故あの灯里と一緒に喋っているのだろう。俺はあの二人が何を喋っているのか少しだけ気になった。
チャイムが鳴って、先生が入って来た。入学式の時に挨拶した担任の先生だ。ひょろっとした若い先生で、体育の先生ではない事だけはよく分かる。入学式の時に説明があったはずだが、何の先生だったっけな…。すると、先生は教卓に巻いた紙と地球儀を置いて、黒板に名前を書き出した。
「僕は鶴居教助、社会科担当だ、一年間このクラスを担当する事になったから、宜しく」
社会科担当、少しだけ安心した。それなら無事に一年間過ごせそうだ。俺は筆箱を取り出して、先生の方を向く。
「僕はこの学校の卒業生なんだ、だから、学校の事で困った事があったら僕に相談して欲しい」
ただ、少し安心したと言えど、やはり大人は信用出来ない。幾ら卒業生だからと言って、俺の気持ちを完全に理解出来るとは到底思えない。先生は、教室の場所が分からなかったら、という意味合いで言ったとは思うが、それくらい、職員室の前にある地図で見ればすぐに分かる。
鶴居先生はその後、俺と剛也を呼んで一緒に一階に降りた。そこには、入学式の時には配らなかった書類や教科書が山積みになっている。男子は力持ちだから、それを教室まで運べと言う事だろうか。俺は力を振り絞って、教科書を何度か分けて運ぶ。
「大丈夫か?」
「これくらい、平気だよ…!」
剛也は無理する俺を心配してくれているが、それくらい俺は運べる。
思えば小学校の頃から、先生に頼まれて重たいものを運ばされていた。中学校になってもそれは続くのだろうか。
俺は運びながら紐に縛られた教科書を見つめた。小学校の高学年の教科書も充分分厚かったが、この教科書も結構一部一部が分厚い。これを毎日あのカバンの中に入れて、持ち運べというのだろうか。
教科書を運び終えた俺は、椅子に座って出席番号で自分が呼ばれるのを待った。剛也と真司が一番と二番、俺は真ん中よりも少し後ろくらいだ。呼ばれるまでしばらく暇だから、俺は教卓にある地球儀を眺める。
かなり年期の入った地球儀だった。備品の番号が振ってあったから、学校のものだろうか。それにしても、何故先生が大切にしているのだろうか。
そんな事を考えていると、俺の番が来た。俺は立ち上がって教科書と書類を受け取り、席に座る。教科書は大体はB5サイズのもので、上下に分かれていないせいで、どれも分厚い。
俺はその中に美術資料集と書かれた教科書を見つけて溜息が出た。案の定、分厚く重たい。これを全部学ぶとは思えないが、にしても何故こんなに重たいのだろう。
俺が冷え切るもう一つのもの、それは美術、芸術だった。俺は昔からそういう類のものが苦手だった。見たりしても何も感じないし、作るのも苦手だ。幼稚園や小学校の時に博物館や美術館に行った事があるが、感想を聞かれて困った。驚かれるかもしれないが、本当に何も感じないのだ。
その後、鶴居先生は黒板に縦書きで何かを書き始めた。どうやら、今から係を決めるらしい。
「この時間でクラスの係と委員会を決める、次の時間は対面式だ」
そうして鶴居先生は各係を名指した。そして、生徒達の意見を聞く。俺は真っ先に体育委員に手を上げた。
日向丘中学校には教科の係と委員会があって、それは、次の授業の用意を聞きに行ったり、授業までにプリントを教室に配る係だ。
体育委員なら、水泳とかがない限り用意は体操服くらいでいいし、プリントも滅多に配られないだろう。それに、委員会という箔も貰えるから、今後の進路にも役に立つ。
「体育委員か、海斗らしいな」
俺と一緒に手を上げたのは、女子の飯田桃香、何度か同じクラスになった事がある運動神経抜群な人だ。入学式に探しきれなかっただけで、このクラスには知った顔が幾つか居る。初めての中学生生活で不安だったが、これなら安心だ。
その後、他の係を決めた後、先輩達との対面式があった。一学年が五か六組あって、全学年集まったら、グラウンドが埋まりそうだった。俺はその中からある先輩を探していた。
だが、小学校の時からお世話になっていたはずなのに、人の海の中に居ると探せない。俺はその先輩とはいつか会えるだろうと思って、探すのを諦めて先生の話をぼんやり聞いていた。
その後、教室に戻ると鶴居先生が再び黒板の前に立った。そして、先程持ってきた巻かれた紙を広げて、黒板に貼り付ける。
俺の目の前に現れたのは『白地図』、白紙に点と線で描かれた世界だった。無色彩の世界は、今この世界にある無駄なものが全て省かれたら、きっとこういうふうになるのだろうというのを教えてくれる。
鶴居先生は、それでこれからの地理の勉強の説明をしてくれたのだが、俺はそれ以上にこの『白地図』に夢中になっていた。小学校の時に貰った白地図は、勉強の結果すっかり彩られてしまったが、今度はそうはいかない。今度はこの『空白の世界』のまま作り上げてみせる。