第二十三話 正体不明の大恩人
男と悠斗が同時に振り返る。
二人とも、声に聞き覚えがありすぎた。
悠斗はその声の元を理解し、男は理解せず耳だけで突き止めるとその方向へバッと視線を向ける。
その視線の先、あり得ないほど巨大なクモがエリカの体をイトで縛り付けて加えていた。
「ミスティア様!」
「エリカっ!」
二人が同時に叫ぶ。
エリカが涙を流し足掻くが、全身に粘性の強いイトを巻きつけられ全く身動きが取れていない。
大声で叫んでいたが、その口元もやがてイトによって閉ざされてしまう。
咄嗟に体が動いたのは、悠斗。
能力を行使し、超速でクモへと突っ走る。
目にも留まらぬその速さで、エリカを奪還しようと――
「ごぶォッ……」
悠斗の動きが、急に停止した。
自分への衝撃を理解した時、悠斗はすでに膝を折って地に臥していた。
2度ほど悠斗を襲った衝撃の正体。
1度目の衝撃は悠斗の腹に突き刺された巨大な針。
2度目の衝撃はその針を抜いた時の出血。
この2度だけで普通の人間の意識は遠のくが、悠斗はこれだけではやられない。
これだけだったのなら。
「き、君っ……くっ、すまない。ミスティア様を放ってはおけない」
悠斗の腹から紫色の湯気のようなものが立ち上がるのを前にしても、男はエリカの奪還を優先した。
残酷だが、使用人として当然の行動だ。
悠斗は、その声に朦朧とする意識の中頭を動かした。
腹は力を込め、魔法で回復を試みるが、中々修正が追いつかない。
そして視界の中、一つの何かが男目掛けて飛んでいくのを薄く確認した。
「なっ!」
次の瞬間、悠斗は肉体を強化し、腹に空いた傷さえも無視して男へ飛びついた。
男と悠斗が先の場を数センチずれたその刹那、二人を強風が襲った。
男は戦闘経験や武術の心得があるのか、見事に体を捻り着地するが。悠斗は全身を鈍い音を立てて地面に衝突させた。
男は振り返り、悠斗の死体のような無惨な姿を見てたじろぐ。
だが、心を奮い立たせて正面を向くと。
そこには、男の数倍の大きさがあるクモ、に加えて、それとほぼ同じサイズのハチが強い風と気味の悪い羽音を立てながら飛んでいた。
「ぐっ、ミスティア様!」
男はそれでも、主人の命令に従いエリカ奪還を試みる。
「なっ!」
そんな時、なんとハチがクモからエリカを受け取るのだ。
クモとハチに共生関係など聞いたこともない。
いや、そもそも質量からして異質。常識に囚われていては足を掬われる。
それだけを肝に銘じ、飛びかかろうとした瞬間――
「は?」
男は目の前の光景を受け入れられず、間抜けすぎる声を漏らした。
それもそのはず。
先までいたハチが、瞬く間もなく姿を消したのだから。
そして、更に次の瞬間、クモまでも……消えてしまった。
男は呆然と立ち尽くし、やがてガクッと膝をついた。
叫ぶことも許されないほど、自分に打ちのめされている。
悠斗は既に意識をなくし、死んでいる、と男は勘違いをしていたため、悠斗に中々近寄らない。
悠斗は、巨大バチによって刺された腹から致死量を遥かに超えた毒をもらいながらも回復を続けたが、やがて意識は男の思い込み通り消え去った。
*****
意識が宙に浮いている。
心と体が離れて、自分の体を見下ろしているようだ。
だから気付く。
これは夢だ。
これは非現実だ。
どうしたんだっけ?
そうだ、ハチに刺されて、大量に血が出て、毒まで回って、意識がなくなって……死んだ?
なら、ここは地獄か?
だって、悠斗に天国へ行ける資格はないはずだ。
「――――」
――――?
誰だ?
地獄から審判を下しにヴァラグがやって来たのか?
「――――」
違うな、あいつはそんな律儀じゃない。
かと言って、福田でもあるまい。
「――ちゃん」
誰って?
「――お兄ちゃん」
お兄ちゃん?
俺がお兄ちゃんと呼ばれるってことは……。
「――――ぁ」
あ、今のは自分の声だ。
死んでいないのか。
よかった。
「――お兄ちゃん?」
「――――のあ?」
声も意識も次第に鮮明になり、悠斗はゆるゆると薄く目を開く。
青い空に雲が少しかかっている。
綺麗な空だ。
だが、少し暗い。
太陽との間に、光を遮る何かがある。
「ぅ――っつー」
完全に開眼していない状態で、悠斗は上半身を起こしたが、予想以上に腹からの衝撃が重かった。
額に乗っていた小さなタオルがぽてっと地に落ちるが、それよりも悠斗は一瞬激痛を呼んだ腹に手を当てた。
何もなっていない。
なら何故、腹に痛みが――
「お兄ちゃん起きた!」
横から、可愛らしい声がした。
幼い声。
無邪気な声。
聞き覚えのない声。
「あ?」
片手で体を支え、片手で腹を摩る。
そして視線を声のした方へ少しずつずらす。
そこには、見覚えのない、小学1、2年生ほどのクリーム色の髪を伸ばした少女が膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
その少女が、透き通るほぼ無色透明な瞳でずっと悠斗の目を見つめる。
「えっと……誰?」
思わず口をついて出た言葉、そんなもの。
少女は答えず、2人は更に見つめ合う。
…………………………。
「んっ! しまった、エリカ!」
少女と見つめ合ううちに脳内が整理され、悠斗は自分の身に起きていたことを漸く思い出す。
大きな声で叫ぶと、ザッと立ち上がる。
辺りを見回すが、エリカの姿も、男の姿も、そしてクモやハチの姿も、どこにもなかった。
そして、何故か代わりにいるのは目の前の少女。
悠斗の直立に合わせて少女も立った。
その際、少女は悠斗の額に乗せていた水色の小さなタオルを地面から拾い上げた。
「くっそ! どうすれば!」
やりようの無い怒りと後悔、そして自責の念に握り拳を震わせる。
「お兄ちゃん起きたよ?」
悠斗が地団駄を踏みかけると、突然少女が再び声を発した。
発したのだが……
「は?」
「お兄ちゃん?」
「……あの」
少女は、悠斗以外の誰かに向かい「お兄ちゃん」とそう呼びかけている。
どこを指定するでもなく、周囲を見回している。
まるで、少女自身、相手がどこにいるのか分かっていないかのように。
悠斗は、幽霊でも見ているのかと戦慄し、今度は別の意味で震えながら少女に問いかけた。
「――? よく分からないけどね、お兄ちゃんがこの匂いを辿れって言ってたよ」
そう言って、少女は懐から小さな黄色い花の入った袋を取り出し悠斗に突き出す。
「お兄ちゃん?」
悠斗は袋を受け取りながら、恐る恐る「その人」に触れてみた。
「うん、さっきまでいたんだけど、お兄ちゃんが起きた瞬間にいなくなっちゃった」
えへへ、と笑いながらクリーム色の髪を揺らす。
風になって、心地いい香りが悠斗の鼻腔を擽った。
こんな幼い少女でも、やはり女性特有の香りを持っているのだと知る。
いや、しかし、エリカからはあまり匂いを感じなかった。
それは何故だろうか?
「こう言っちゃキモいが……慣れたってか」
自嘲的に苦笑しながら頭の後ろに片手を回す。
そして、悠斗は少女に貰った花を袋から取り出してみた。
独特な匂いがあるわけでもなく、ただ普通の花の香りがする。
たが、この花、
「この辺の花じゃないな」
悠斗の呟きに少女が長い髪を跳ねさせて数度頷く。
そして、この周辺に咲かないこの花の匂いが、側にある国の壁を超えて外側から匂うのがわかる。
つまりこの花の匂いを追えば――
「あのでっかいハチ」
へと繋がる。
「その人」は一体どこでこれを見つけたのか。
ある種の恐怖にまた苦笑する。
周囲の気配を探っても、人の気配は少女1人のもののみ。
しかし、腹の傷が癒えていることも考慮すれば、やはり少女以外の誰かが悠斗の治療にあたったことになる。
目の前の少女が、見た目的な年齢偽造をしていない限り。
なにより、腹の中から直接伝染していった毒を完全に消し去っている時点で、悠斗を遥かに超える治癒能力が必要だ。
「……」
「お兄ちゃん、行くの?」
「え? ああ、これ、ありがとな。君のお兄さんにも言っておいてくれ」
少女が、透き通る瞳を悠斗に向け、少しだけ興味ありげに首を傾けた。
そこに弱い風が、この荒廃した土地の空気を乗せて吹き付けてくる。
その清潔ではない風が、少女の髪を靡かせる。
「うん。でも、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃないよ」
「――? そうか、でも、ありがとな」
少女の承諾の後に続いた言葉に頭を一瞬悩ませた。
その後は、例としてノアを浮かべすぐに自己完結する。
少女に片手を上げ礼を言った後、超速で走り出し、国の高すぎる壁を駆け上がる。
やがて、壁を上り切ると、外側へと飛び降りていった。
少女が、その背を、見えないながらも見送った直後――
「行ったか」
一人の、帽子を深く被った男、厳密に言うなら、恐らく青年だが、とにかくそいつが壁のてっぺんを見上げて言った。
そのまだ大人になり切れていない声に少女は勢いよく振り返る。
「あ、お兄ちゃん、どこ行ってたの?」
どうやらこの青年が、「お兄ちゃん」だそうだ。
少女の言葉通り、風格から血縁関係は無さそうだ。
「あいつと今顔を合わせるわけにはいかないんだよ」
顎の角度を下げ、帽子を深く被る。
「ふーん、知ってる人なんだ」
青年の言葉に、悠斗との会話よりは興味を持って話を続ける少女。
少し強い風が、青年の帽子と、少女の髪を攫いかけた。
だが、二人ともそれぞれを片手で押さえてそれを防いだ。
「知らないはずがないだろ」
「友達とか?」
少女の問いに、青年が左右に首を振った。
「じゃあ親戚?」
やはり首を振る。勿論、横に。
「えー、じゃあただの知り合いとか?」
それでも、頷かない。
「俺とあいつは、もっとあり得ないような関係だ」
青年が、少しばかり核心へと近づけるが、それだけ。
少女も、青年の気を察したのか、ふーん、とだけ言うと空を見上げた。
「それより、エミリーを探すんだろ?」
と、青年。
「あ、うん、どこに行ったんだろうね?」
と、少女。
二人は距離を近づけて歩き出す。
そんな謎の二人の正体が分かるのは、もっともっと、ずっとずっと、先のお話。
もっともっと、ずっとずっと、未来のお話。
なのである。




