今日も私は季松くんを見つめる
私には今、好きな人がいる。
その人の名前は季松正人くん、同じ2年2組のクラスメイトで席は窓際の後ろから二列目、筆舌に尽くし難いとても素敵な人。
でも私は窓際から三列目の一番前の席だから彼とは離れてしまっている。席が近ければもっとお話が出来るきっかけが作れるかもしれないのに……。
隣の男の子は……名前は忘れたけれど取り敢えず私と代わって欲しい。
「ねえ、せおりん、顔滅茶苦茶怖いよ」
一体どうしてこんなことになってしまったの……こんな筈じゃなかったのに、予定では今頃季松くんと幸せな時間を過ごしているつもりだったのに。
というのも、私と彼は幼馴染で――と言っても公園で一人ぼっちで遊んでいた所を季松くんが声を掛けてくれただけなのだけれど――
小学生の頃、私はとても引っ込み思案で、口数も少なくて、友達も全然いないような子だったから、彼が笑顔で声を掛けてくれたお陰で私は毎日とても楽しい時間を過ごすことが出来た。
公園に行けば彼に会える――その気持ちがいつしか淡い恋心に変わっていくのにそう時間は掛からなかった。でもそんな日々は親の都合で呆気なく崩れ、結局、季松くんには別れの挨拶すら出来ずに離れ離れに。
「せおりん、お弁当全然減ってないよ、あと顔が怖い」
互いに名前すら知らずに唐突に終わってしまったあの日からもう五年の歳月、私はいつか彼と再会する日を祈って己を研磨し続けた。
彼に相応しい女の子になろうと、異国の地で毎日会話の練習をした。容姿も一から見直して、勉強も一生懸命したし、苦手なスポーツも得意になるぐらい全力で取り組んだ。
それも全ては彼の為に――そう思うとどんな苦難も辛くはなかった。
そんな努力が実ったのか、今年に入って父の海外赴任が終わり、私は日本に戻ることに。
そして、この学校に編入した結果、神はいたのだと、そう言わざるを得ない奇跡の巡り合わせで彼と、季松くんと再会したのでした。
その日、私ははしゃぎすぎて箪笥の角に小指を打ち付けたのを覚えている。
「せおりん、綺麗な顔なのにそんな顔するもんじゃないよ、お願いだから」
でも、なのに私は! 重大なことを二つも忘れてしまっていた!
一つは前述の通りお互い名前を知らないまま成長してしまったこと、私は彼の顔を見間違わない自信があったから問題はなかったのだけれど――
私は彼に相応しい女の子になろうと思うあまりっ! あの時とは容姿が大きく変わってしまっていたのです!
思い返せば小学生の頃の私は人に顔を見せたくない一心で目元まで髪を伸ばしてしまっていた……季松くんが顔を覚えていなくても当然というもの。
「タイムリープが出来たら昔の私をぶん殴っている所よ……」
「せおりん急にどうしたの」
とはいえ、今の私なら季松くんに声を掛けるぐらい造作も無い話だと思うでしょう? ええ、当然そうだと思ったわ。
そう思った……筈なのに、いざ彼を目の前にすると急に昔の私が帰ってくるような錯覚に陥ってしまったの。
胸がドキドキして、息も詰まって声も出なくなる……恋とは誠に恐ろしいもの、情けないことに私は横目で彼を見つめることしか出来ずにいる……。
それに――偶に目が合う時もあるのだけれど、何だか季松くんは私を避けているみたいで……目を逸らされてしまうこともしばしば……。
「あぁ……どうして私はあの消しゴムを拾ってあげられなかったの――」
「せおりんってば、おーい、せおりーん、せおせおせおりんりんりん」
「人の名前で遊ぶのは止めてくれるかしら」
「あ、やっと反応した。もーだってさっきからずっと呼んでるのに上の空なんだもん」
「え? あ、ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて」
彼女は夏目由香さん、私がこの学校に編入したその日に声を掛けてくれて、率先して学校のことを教えてくれたとても優しい子。
話をしている内に意外と趣味も合ったりしたものだから自然と仲良くなって、今は一緒にお弁当を食べることも増えたのだけれど――
最近、彼女の私を見る目が常に心配そうなのは、気のせいかしら。
「あのさ、せおりんってよく考え事をしているみたいだけど、声が聞こえなくなるぐらい夢中になるって一体何を考えてるの?」
「そうね……世界情勢とか」
「博識」
「円周率の小数点以下を数えるのも、割と楽しいわよ」
「それは今する必要なくない?」
勿論そんな筈もなく、私が考えているのは季松くんのことばかり……でもそれは口が裂け人としての体裁を保てなくなったとしても絶対に言えない。
何故なら夏目さんは無自覚の魔性の女だから。その無邪気さでいつも男の子から言い寄られているらしいのだけれど、『嬉しいんだけど困ってて』とか平然に言ってのける化物。
こんな子が何かの手違いで季松くんに優しさを振りまこうものならきっと彼は確実に堕ちてしまう、それだけは絶対に防がないといけない。
「夏目さん」
「へ? どうしたのせおりん」
「私達……友達よね?」
「ひ――あ、当たり前じゃん! 何で今更そんなこと訊くの?」
決して彼女に悪意がないのは分かっている。でも無意識下で発生するいともたやすく行われるえげつない行為ほど恐ろしいものはない。
だから私はこうして定期的に布石を打つ――彼女には申し訳ないけれど季松くんは誰にも渡すつもりはないから――
「いえ、その、ごめんなさい、私昔から少し心配症な所があって」
「あー……まあ、せおりんぐらい美人だと良からぬことを考えて近寄ってくる人もいそうだもんねー、気持ちは分かるよ」
でも結局の所、私が季松くんに想いを伝えられないでいるのが一番の問題……それなのに夏目さんを牽制しようなんて情けない……。
「いつもありがとう、夏目さん」
「全然気にしなくていいよ! あと私のことはあだ名でいいって」
「そ、そうだったわね、ありがとうゆかっち」
「あ、そうだ。飲み物を買おうと思ってたんだけど、せおりんは何か飲みたいものある?」
「え? そんな悪いわよ、私も一緒に行くわ」
「いいっていいって、もうすぐ授業も始まるし、せおりんはゆっくりしてて」
「そう……? 分かったわ、じゃあミルクティーをお願いしてもいいかしら」
「オッケー! じゃ、行ってくるね」
きっと気を使ってくれたのだろう、何か悩みがあれば相手が相談して来ない限り何も言わずに気遣いに徹する、それが彼女の良さだから。
……なら、折角彼女がくれた時間を無駄にする訳いかないわ。きっと繋がれているに違いない季松くんとの赤い糸を早く見える化しないと。
「…………」
でも、どうしたら季松くんとお近づきになれるのかしら……少なくとも話が出来るような些細なきっかけを、それが作れればぐっと距離は縮まる筈だけど……。
毎日登校時間にパンを咥えて走っていたらいつか季松くんとぶつかったり出来るのかしら……そしたらそこから会話が生まれて自然と――
「いえ、あまりにも非現実的過ぎるわ。もっと自然に、嘘臭さが微塵もない完璧なハプニングじゃないと……それがあればきっと――」
「きゃっ!」
「おっと!」
そんな風にして必死で考えていると、廊下の近くで男女の驚いた声が耳に入ってくる。
「? 今の――」
即座に嫌な予感が頭を過る。まさかと思い顔を上げると季松くんの姿も無い……まさか、そんな筈……ないわよね……?
早る鼓動を抑えながら椅子から立ち上がると、私はゆっくりとその歩みを廊下へと向けた。
そして、やっとの思いでそっと入り口から顔を覗かせると――
「っ…………! し、しまった……!」
そこには、そんなことがあってたまるかと言わんばかりのシュチュエーションをいとも容易く成し遂げた夏目さんが、季松くんと談笑を……!
私が数ヶ月スパンで考えていた計画を彼女はたった数秒で……!
これが努力だけでは成し遂げられない、圧倒的な才能の差だとでも言うの……ず、狡い……!
思わず鳴ってしまう歯ぎしりを懸命に堪えながら、その様子を凝視していると、先に私に気づいた夏目さんが少し困惑しながら慌てて戻ってくる。
「あ、え、えーと、その……待たせちゃったかな……? な、なんて」
「大丈夫よ、今来た所だから」
「さ、さいですか……」
夏目さんが何か言ったような気がしたけれど、私にはバツの悪そうな表情を浮かべる季松くんの姿しか見えていなかった。
その時私は、そんな彼の表情を見て心に強く誓ったのであった。
どんな障害があろうとも、それを薙ぎ払ってでも、彼に想いを伝えようと。
けれどこれが、中々どうして険しい道程になることを、この時の私はまだ知る由もない。