怪我の功名?
『うん、そこまで深く切れてないから、授業に戻っても大丈夫よ』
季松くんが私のせいで怪我をしてしまった。
そう思った瞬間、頭の中で警笛を鳴らしながら堂々巡りしていた思考がピタリと止み、気づいたら私は季松くんと保健室いた。
『それじゃあ先生は少し職員室に行ってくるから、貴方達のタイミングで戻っていいわよ――ま、ごゆっくりー』
「は、はい……ありがとうございます……」
年はまだ二十代だった気がするけれど、美人で大人びていて、男子からの評判の高い女性の保健の先生は笑顔で手を振って保健室を後にする。
「…………」
「…………」
私と季松くん以外誰もいなくなった保健室に流れる沈黙、その静けさがふと私の止まっていた記憶を掘り返し始める。
あれ……そういえば彼が指を切った時、私何かしたような……。
考えれば考える程自分のした失態に気づき始め身体がぐんぐんと熱を帯び始める、顔が赤くなってしまっていると思った私は堪らず両手で顔を押さえて誤魔化す。
「あっ……そっ、そのっ……」
何かを言おうとするとまたいつもみたいに喉が締め付けられ上手く声が出てこない、わ、私……そんなつもりじゃ……。
でも、あんなことをやってしまえばどう考えてもに軽蔑されるに決まってる、けれどやってしまった以上言い訳のしようもない。
やだ……恥ずかしくて死にそう……季松くんに何か言われてしまう前に早く消えないとと、扉に向かって足を踏み出そうとした時だった。
「石榮さん」
季松くんが私の名前を呼んだ。
季松くんが……私を呼び止めてくれた。
そんな些細なことが、また逃げ出そうとした私を、その言葉が繋ぎ留めた。
「季松くん……?」
今にも消えて無くなりそうな声で、それでも精一杯絞り出すと、彼は困ったような、それでも照れながらの笑顔を私に見せてくれる。
そんな顔を私に……それが不覚にも私の瞳がじんわりと暖かくさせる。
泣いてはいけない、泣いたらまた困らせてしまうと、必死になって我慢しようとしたのに――彼の口から優しく渡された言葉は、涙腺を容易に崩壊させてしまった。
「ありがとう、手当てしてくれて」
とてもありふれた、別に他の誰かにそれを言われても嬉しいくらいの気持ちしか沸かない言葉が、それは私の心に深く突き刺さる。
「ふ、ふぐぅ……」
「い――! ちょ、い、石榮さん!? え、ええと、そ、そのごめん……」
「ち、違う……の、そ、そうじゃないの……」
嗚咽を抑えながら私はそれを必死に否定する。ああもうどうしよう……うまく言葉が出てこないわ、季松くんに変な子だと思われちゃう……。
最早立っているのも限界で、その場でへたりと座り込んでしまう。
でも、そんな私を見ていた季松くんは、ふっと落ち着いた表情を見せると、私の側に近づいて来てくれて、その場でしゃがんで、目線を合わせてくれた。
「あ、あの……」
「いやー……女の子を2回も泣かせたら、どう考えても俺が悪いな」
「そ、そんなこと」
違うの、季松くんは何も悪くない。そう言おうとした所で、彼はまた困ったように笑うと今度はこう言うのだった。
「でも、それでも手当してくれるなんて、石榮さんはとても優しい人なんだなって、ほんと気が利かない奴で申し訳ない、でも、嬉しいよ」
「にゃっ――!」
「ニャ?」
そ、そんな言葉、め、滅相もない……これはもう、死んでしまいます。季松くん好きです愛しています結婚して下さい、好き好き大好き大大大好き。
こんな、混乱させるようなことしかしていない私なのに、彼はそんなことよりも自分に対してしてくれたことだけを見てくれている……。
外見とかそういうのではない――内面の、良い所だけを見て接してくれるのが彼のとても素敵な所、だから私は季松くんを好きになった。
あの時もそう――今みたいに砂場でしゃがんで話をしていた時も、根暗で無口な私を否定しないし、それどころか些細な行動、言動を見て『君のいい所』と言ってくれた。
だから今の私がある、季松くんのお陰で、今の私があるんだよ。
「まあ……傷口を舐められたのは、ビックリしたけど……」
「あ、あのあのあの……! そ、それは何と言えばいいか……お、親が、母親が怪我をしたらそうしてくれたから……つ、つい……」
「それは俺もあるけど、普通小学校までだよね」
「う……そ、そうよね……」
そんな私の反応を見て季松くんはクスりと笑う。
は、恥ずかしい……。もう……本当に何であんなことやってしまったのかしら……。
「でも、正直ちょっと、ホッとしたかなって」
「……? どういうこと……?」
「いやー……俺って石榮さんに嫌われてると思ってたから――」
「へ……? な、何でそういうことになるの!?」
予想だにしていなかった言葉に私は驚きを隠せない。私が季松くんが嫌いなんて何回生まれ変わってもあり得ない話なのに!
「え、でも――」
「そ、そんなことはない……よ、だ、だって私は――」
千載一遇のチャンスだったにも関わらず、そこでまたしても私の声帯は殻に閉じこもったかのように狭まり声がでなくなる。
せ、せめて……好きとは言えなくても私はあの公園にいた女の子ですとだけでも……お、お願い……もう少しだけ私……頑張って!
しかし、この一歩を踏み出すのが本当に大きな勇気がいる。何なら言葉遣いすらあの頃に戻っている私は、自分で自分が嫌になるくらい退化してしまっている自覚があった。
「…………」
「…………」
……折角、季松くんとお話が出来ているのに、『今日はこれでいいじゃないか』と囁くもう一人の自分が出てくる。そのせいでまた沈黙が生まれてしまった。
「……と、取り敢えずそろそろ授業に戻ろうか、あんまり皆を待たせても悪いし、調理実習が終わってしまったら迷惑をかけるし」
「あ――」
そんな沈黙を断ち切ってしまおうと、彼はそう口にするとゆっくり立ち上がる。
ああ……このままじゃまた何時も通りに戻ってしまうわ……まだ何も前進していないのに、もう二度とないチャンスかもしれないのに――
そ……それだけは、絶対に駄目!
「す、季松くん!」
「は、はい!」
背を向けた彼に無意識の内に名前を叫ぶ、季松くんは驚いて振り向いてくれたけれど、そこから先は何も考えていなかった。
愛を伝えたり、昔の話をしたら声が出なくなる。でも何か言わなきゃ始まらない、ならせめて、それに近づくだけの言葉を口にしないと――
今にして思えば、シンプルに『友達になって下さい』で良かったのに、相当焦っていてた私は、とんでもない言葉を口にしてしまうのであった。
「あ、あの! 良かったら私と1日の報告会をしませんか?」
「……………………はい?」




