ヒロインと付き合いたい
終わり方は想像にお任せします。
「ヒロインと付き合いたい」
デートの帰り道、左手に巻いたいささか重量感のある時計に目をやると、二つの針が十二と九の位置をそれぞれ指し示していた。今日はキスを二回したな、と脈絡もなく思った。路傍に転がっている石を思い切り蹴る。つま先が石に当たる前に地面を擦った。足の勢いがなくなり、石は目の前にある排水溝の中へと吸い込まれていった。
ああ、落ちた。彼女の柔らかい唇の感触も一緒になって落ちていく。そんなもの、とうに消えているというのに。なんとなくそう言っていたかった。
彼女はヒロインではない。こんなこと友人に言うとおそらく笑われる。ヒロインと付き合いたい、というぼくの願望は上辺だけをなぞられて、「何それ、下ネタ」と心のこもらない冗談でないことにされる。
そして条件反射のようにぼくはその言葉に笑い、知らぬ間にすり減ってしまう。とても大切にしていた何か。それが怖い。
こうやってちょっと飛躍した未来をシミュレートすると、魔法のようなあの言葉をぼくが大切にしているのがよく分かる。小学校のときに初めてプラモデルで作ったザクよりも大切だ。もちろん、ザクはヒロインではない。
「○○○助けてください」
彼女は最初ぼくにこう言った。それが初めて会話したときなのか、交際が始まるときだったのか、今となっては最初の所在ははっきりとしない。けれどぼくはその言葉に打ち震えたのだ。そのことははっきりとしている。丸腰でぼくにすがる彼女がとても愛おしく思えた。世界で彼女を幸せにできるのはぼく一人だけだと身の程知らずが最高潮に走っていた。
けれど今、彼女はヒロインではない。なんだろう、はっきりとしていない。山の頂上ではなく、八合目あたりに安定感のないまま、ポーズを取っているよう。
それにぼくは虫唾が走っている。頂上と……合目には明確な違いが表れているから。そこまでヒロインにこだわっている理由はなんなのだろう。ぼくはずっとタッチの浅倉南やH2の古賀春華が好きだ。しかし、彼女たちはヒロインではあるけれども、ぼくは彼女たちを求めている訳では無い。陳腐な言葉で表してしまうと「彼女たちっぽいなにか」を熱望しているのである。
雲を掴むような願い。結局、君は望んでいるふりをしてるだけだろう。ぼくの言葉を聞いたその手の専門家はそう言う。もし言われたらこう言い返す。
「君はどうして他人の理解者を平気に騙れるのだい 」
ぼくの心の中に確かに望むべきヒロインはいる。ほら、例えばヒロインは笑顔が全ての表情の中で一番に似合う。流行りのアンニュイの表情などは弁当の端にいるしば漬けくらいのちっぽけさだ。それにヒロインはあざといぐらいに自分の魅力を知らない。もしかしたら知らないふりなだけかもしれないが、少なくともぼくにそれがバレることは無い。
もう一つ、ヒロインは描けない。絵に描こうとしてもどんな画家だってできない。断言しよう。それなのにぼくは偶像でなく、実体に焦がれている感触がある。最も身近なパラドックスと言えよう。もっともこれがパラドックスになりうるのはぼくという人間だけなのだが。
鼻に香ばしい匂いが流れ込んでくる。ああ、もう家が近い。遠くに視線をやると、頼りない商店街の明かりと夜の闇が入り混じっているところ。屋台の焼き鳥屋が赤提灯を揺らしている。ゆらりゆらり、のんびりとしたその揺れはぼくの胃袋に誘惑を試す。
男っていうのは揺れるものに弱いのよ。ふと頭に浮かぶ。ヒロインの口調で再現した、いわゆる女の子の台詞はすぐに違和感とともに崩れていった。
ヒロインはこんなこと言わない。どちらかといったらヒロインの仲の良い友人が言いそうだ。
ぼくの彼女の声に台詞を当てはめると、なんだかすっと収まった。
「ヒロインと付き合いたい? 」
耳を疑った。けれど私は紛れもなくその一言でフラれた。彼の目は恐ろしいほどまっすぐだった。意思の堅さが表れた怖い目で私を見つめている。私を助けようとするときの目に似てるはずなのに、見ている場所が違う。これは鋭くて私を傷つける目だ。
目の前には依然と彼が座っている。時計の針は進むし、ウエイトレスは忙しなく注文を取っているけれど、コーヒーをすすることで考える時間を設けた。
まずは彼に今までそういう節があったか。考えようとすると熱の気泡が頭に溜まっていく。ぶくぶく、ぶくぶくと。正常な判断はとてもままならない。やみくもにコーヒーの香りと苦みを味わおうとする。舌に絡まっていく苦味が私の身体がそれ以上膨張していかないようにしてくれるように思えた。
もし私が風船だったらの話だ。彼の言葉に瞬間的に反応していたら、空気がこれ以上入らないのに思い切り息を吹き込まれたみたいになっていただろう。破裂する。風船は破れたら風船ではなくなる。ただのゴムの断片だ。
では私は。私は破裂したら何になる。
口に含ませていた微量のコーヒーはいつの間にか喉の奥に流れていった。彼が漫画を読んでいる姿が浮かぶ。あの中にいるのがヒロインなの。それとも一緒に観た映画にいたの。彼は望んでいる。私の知らない世界に希望を抱いて、私という存在から離れようとしている。口調が時々荒い、素っ気ない態度のときが多い、目が一重。おそらくヒロインじゃない私の要素。受け入れてくれると思っていた。いや、そんな風に考えたことすらなかった。ただ委ねていた。
あれ、目の前に彼がいない。私は歩いていた。頭はどこにも命令を出していないはずなのに、足だけが勝手に家に向かっている。信号が赤になれば、不思議と足を止めた。私は馬鹿になりきれない。最後の最後で交通ルールを守るようなつまらない女だ。全てを投げ打って、何かをするなんて想像すら及ばない。人生で一番絶望的な日に私は信号の色を守るし、ティッシュ配りのお姉さんを無視出来ない。彼はそんな私も嫌だったと思ったら身体の中から溢れてくるものがあった。
だって今まで私を受け入れてくれていた彼がたまらなく好きだった。
ごめんなさい。頬が濡れていく。ごめんなさい。曲線を描いて伝っていく。ごめんなさい。私の身体から離れて地球に解けていく。
家に入って、すぐさまベッドに流れ込む。開いたままのカーテンから流れ込む日差しを避けるようにうつ伏せになった。人差し指に綿の感触。のっそりと頭を上げる。枕の横にランドセルくらいの大きさのクマのぬいぐるみがあった。彼からのプレゼント。付き合ったばかりの頃、記念日でもなんでもないのにくれたのだ。ちょっと恥ずかしそうに脇目を見ながら渡してくれた。それ以来、枕元にはいつも君がいた。思えば彼の半身だったのかもしれない。心のどこかで満たされなかったり、不安を覚える私は君をすがった。頼りない肩を掴むと、生地はぐにゃりと沈んでいく。そうやって私の中の黒い感情を全て吸収してくれた。
不安定で彼のことしか知らない私。彼のことすらも知らなかった私。きっと今日みたいな日は予感していた。
もう君は必要ない。すがる根源にいた彼の存在がもういなくなってしまったから。これ以上君を家に置いとくと、私はおかしくなってしまうように思えた。
だから、さようなら。左手を無造作に持つ。ぷらぷらと私の横で君が不安定に揺れる。捨てはしない。近くにおもちゃ屋があるからそこに売りに行こう。
きっぱり捨てられない。これもヒロインじゃない。ドアをゆっくりと開く。近くを通る電車の音が虚しい町の光景を私の心に繋げる。
ヒロイン、ヒロイン、ヒロイン。頭の中で復唱する。口というものが備わってないので声に出すことができないのが残念だ。吾輩はとあるクマである。夏目漱石の小説はまだ読んだことがない。厳密に言うと夏目漱石の小説は表紙と背表紙しか見たことがない。なんだか地味で味気ない見た目だったと記憶している。きっと彼女みたいな一部の熱烈的なファンにしか愛されていない悲惨な作家なのだろう。もしかしたら作家というのはほとんどがそのような悲惨な人たちで埋められている職業なのかもしれない。
こうやって物事を傍若無人に判断するのが好きだ。なぜクマのぬいぐるみごときがそんな風に言えるかというと吾輩は何も知らない無関係者だからだ。世の中のほとんどのことに関わることがない。ただ部屋の片隅に置かれて、明るくなったり暗くなったりを繰り返す八畳一間を過ごす。だから小説、政治、グルメなど。吾輩は遠慮などせずに物申す。彼女とおもちゃ、その二つを除いて。
そんな彼女に捨てられた。吾輩のお尻は冷たいステンレス製の棚に触れている。態勢は彼女の家にいたときと変わらない。両手はだらしなく伸ばして足はストレッチのときみたいに八の字で座っている。
目の前には古ぼけたガラス張りの横滑りのドアがあった。お陰で外がよく見えると思いきや、手入れの行き届いてないせいで白い汚れが外の風景を気持ちよく見させてくれなかった。その汚れは吾輩がいることを強いられたこの環境の悲惨さを無残に見せつける。たまに人が出入りするときに外が露わになるが、普段薄暗い自然の明るさと光力の弱い蛍光灯の下にいるせいで外の眩しさが痛いだけだった。もちろん吾輩には瞼がないので、暴力的な強さの光を遮る術を知らなかった。
日光にまで物申そうとしたある日、「君は幸運なんだよ 」と急に話しかけられた。声の主は隣のリスだった。隣のリスには羨ましいことに口があったので手に取った客が背中のスイッチを押したときだけ、声を出せた。人間には可愛く鳴いているようにしか聞こえない声だ。リスは三日に一度くらい人間を利用して吾輩に話しかけた。次に話したのは幸運の意味についてだった。
「この店に入って一番最初に目に映るのが私と君だ。だからドアが開くごとに私たちには買ってもらえるチャンスがある 」
吾輩には幸運と定義されたその空間は不幸の場所に過ぎなかった。だって吾輩は捨てられている身だ。吾輩が一切影響することのできない事情とエゴによって。きっとどぶの中で果物を拾った状況をリスは幸福と呼んで吾輩は不幸と呼んでいる。
リスはその後も吾輩に話しかけ続けた。人間が背中に手を伸ばしたとき限定で。吾輩は何も言ったことがないのにリスは事情を十分に理解していた。
「私には実は呼ばれていた名前があるんだ。チャーリーだ。君は何某とも呼ばれていなかったらしいね。けれど私には君の名前が分かる。君の名前は○○○だね 」
リスは二回背中を押された。
ときどき吾輩の知らない言葉の意味を教えてくれた。そのとき奇遇にも吾輩の運命を決めたヒロインについてよく考えていた。
「ヒロインとは小説・物語・戯曲などの女主人公のことだ。物足りないという顔をしているようだけど、意味はそれだけなんだ 」
リスは二回背中を押された。
それじゃ女である限りみんなヒロインじゃないか。吾輩はこれほど声に出したいと思ったことはなかった。けれど吾輩は何も言えないし、リスはそれ以上何も言わなかった。人間が吾輩に口を付けなかったから。人間がリスの背中を押さなかったから。
リスはそれから吾輩に話しかけなくなった。背中のボタンは相変わらず押されるのに、声を発さなかった。そして買われていくこともなかった。リスはボタンを押されるだけの存在なんだ、と吾輩は思った。一番みんなの手が伸びているのは確かにリスなのに身体はずっと持ち上がらない。ボタンを押して声が出るとそれだけでいいやという気持ちになる。なんて悲しい存在なのかと思った。声が出せないから憐みの言葉をかけなくて済んでよかった。
リスもきっとそのことを察した。それから吾輩は一人でヒロインのことについて考える毎日を繰り返した。
ある日、ドアが開いたときに入ってきた人間に見覚えがあった。誰かは思い出せないけど、なんだか懐かしい気分だった。唐突に身体が宙に浮いた。その人はリスのスイッチを押さなかったから、余りの突然さに握られた左手がもげるのではないか、と思った。
眩しかった。しかしすぐに慣れてしまった。中にいるときは考えられないくらいの明るさだと思っていたのに、しばらくその人の腕に抱えられていると日光は気持ち良いものになっていた。
ヒロインと付き合いたい。リスが教えてくれた原語の意味を思い出す。そうか、ヒロインなんてのはいないんだ。少なくとも吾輩を必要としたり、すぐに要らなくなる世界にそんなものはいない。部屋に置いてあるクマのぬいぐるみの存在は不変ではないのだから。だからこそ、人間は誰かの一面にヒロインを見出す。そして男はその一面を全体だと思うか、ヒロインではない暗の部分を受け止めるかの二択を迫られる。女はそれを思わせるか、受け止めさせるかでヒロインは彼らの中で生きる。
無論、色恋沙汰になど縁のない吾輩の好き勝手な意見である。
「ヒロインと付き合った 」
デートに行く途中、立ち寄った店で君を見つけた。ぼくは昔からの友人に会ったような気分だった。手に取って一度、身体全体をよく観察する。買うことは決めていたけどよく見ておきたかった。蛍光灯の下にかざす。左手の付け根を引っ張ったときに布地の脆さを感じた。見た目にはまるで分からなかった。
彼女、喜ぶかな。その瞬間、既視感が襲う。前もクマのぬいぐるみをプレゼントしたんだな、と自分の単純さに少し呆れた。しかしぼくはぬいぐるみをあげたという事実を覚えていただけで、そのクマがヒロインではなかった彼女にあげたものだとは知らなかった。
時計をちらと見やる。どうやらぼくは随分とこのクマと睨めっこしていたらしい。すぐにお会計を済ませて、彼女との待ち合わせの場所へと走った。ヒロインだったら待ち合わせに遅れたぼくをどんな顔でお迎えしてくれるだろう。もうすぐその答えが分かる。
だってぼくはヒロインと付き合ったのだから。
読んでいただきありがとうございます。