ツキは空から落ちてくる
「いやー、先週は大変だったね」
「それは嫌味かな?」
いつも通りの朗らかな笑みとともに出た恵人の言葉に、三谷はこれまたいつも通りと言ってもいい眉根を寄せた表情で返事をした。
三谷の酔っぱらい飛び降り事件から一週間が過ぎた水曜日。二人はいつも通りに屋上へやってきていた。一週間前のあの日、気絶していた三谷は数分後に目覚め、恵人は彼が飛び降りてから何が起こったのかを説明した。三谷は当然驚いた。驚き、そのままぼうっとしていた。自殺を邪魔されたことへの怒りや悲しみがあるでもなく、生きていてよかったと安心する様子もなかった。酔いのせいもあってか、ぼんやりとしたまま昼休みの時間いっぱいを過ごした。
そんな状態で別れたため心配の念もあった恵人は、一週間後にこうして元気な三谷の姿を見られて内心ホッとしているのだった。
本日の恵人の衣装は丈の短い浴衣。暑さも厳しくなってきたこの時期にうってつけの大分涼しげな衣装である。恵人は衣装同様に涼しげかつ爽やかな笑みとともに言葉を続ける。
「あれからまた自殺チャレンジしたの?」
「してないよ。ほいほい死のうとできるほどの勇気も持ってないからね」
三谷はいつも持っていた文庫本を持たず、両手を床につけて空を見上げている。
「でもなんで死のうなんて思うの? あの時話してたことが理由? あれで全部?」
「ずけずけと訊いてくるね」
「目の前で自殺未遂までされたんだから、いまさらって感じでしょ」
恵人は平気な顔で言う。あの時は突然のことで面食らってしまったが、死のうとする瞬間まで見せられたら感覚もマヒしてしまうというもの。
「理由はあれがすべてだよ。元から死ぬつもりだったし、いろいろ思い出したりきみを見てたりして、いまここでそうしてしまおうって気分になった。いまはなんかそんな感じでもなくなったけど」
「気分がノらないって?」
「生きててもしょうがないって部分は変わらないし、死なないって決めたわけでもないけどね」
そう言って三谷はため息を吐く。それは、一週間前何度もしていた体中に溜めこまれた鬱憤を吐き出しているような重いものではなかった。
正直に心情を吐露してくれた三谷に対し、
「なるほどなるほど。死ぬ意志はまだあるのね」
恵人は軽い調子でそう言った。
「なに? 説得でもするつもり?」
「いや、ちょっと話は替わるんだけど、三谷君に一つ提案があるんだよね」
「急になに?」
当然のことながら三谷は戸惑いの声を上げたが、恵人はそれに構わず、傍に置いていたバッグに手を突っ込んだ。そして取りだしたのは、
「じゃじゃーん」
一着の浴衣だった。恵人がいま見につけているのと同様の、柄は同じだが色の違うミニスカ浴衣。
「三谷君、これを着ようか」
「何を言ってるのかな」
恵人はさらにバッグから何かを取りだした。それは、さらさらと風に靡いていた。
「このウィッグも被るんだ」
「待て待て」
「きみも女装をしよう! そうしよう!」
「……何その提案は」
三谷は呆れと怒りと混乱の入り混じった顔をしていた。決してプラスな感情ではないが、先週の何を言い出すかわからない状態に比べればいつも通り感に溢れた顔なので恵人としては内心ホッとする。
「計画を成功させるために必要なんだよ。前回の失敗を踏まえて、今回は数の暴力に頼ってみようと思ったんだ。ひとりでだめでも二人ならイケる」
「唐突過ぎるでしょ。っていうか、こういうのは量より質じゃないの? そもそも女装した男を増やしても量が増したとさえ言えないし。そらもりさんだってさすがに怒るんじゃない?」
「その点は大丈夫だよ。三谷君ってよく見ると目鼻立ちがはっきりしてる幼い顔で、髪形や服を変えれば可愛い女の子に見えるから」
「いままでそんなこと言われたことないけど」
「そう? でも全身タイツ理論から考えてもそうなんだよなあ」
「何なのその理論は?」
「全身タイツを着た時、人は髪形でも服装でも誤魔化せない本当の容姿を見られることになるっていう独自理論。坊主頭の状態で顔が良いと判断できるってことは、相当作りがいいってことだよ」
ぺらぺらと自分の考えを並べ立てる恵人に対し、三谷は怒りこそ消えたようなもののいまだ訝しんでいる。
「残念ながら美少女にはあと一歩足りないかもしれないけどまあいいかな、と思ったんだッ」
「それならやっぱり質に問題があるじゃん」
「それならそれで引き立て役になってもらえばいいし~。美少女単体で見るより傍に凡人がいる方がより美少女らしさが際立つよね。もしかしたらいままで失敗してたのはこれもあったのかも。そらもりさんにとって比較対象がいないから、目の前にいるのがどれだけの美少女なのかわからなかったのかもしれない」
「失礼なことを何のてらいもなくすらすら言うね」
「で、どうする? やってくれるよね?」
恵人はにっこりと笑った。承諾されて当たり前。誰が見てもそうとわかる顔だった。
「なんでそんなに自信満々なのさ。普通に考えたら拒否されるでしょ」
「えぇ~、なんで? どうせ死ぬつもりなんだしそれくらいいいじゃん」
「言ってること目茶苦茶だな、きみは」
「一回だけいいでしょ? これで駄目ならもう頼まないから! 女装姿を撮ったりしないし、誰かに言ったりもしない! 女装してくれれば学校で飲酒した件も誰にも言わない!」
「最後は脅迫が混じってない?」
「ええい、飲酒で停学になりたいのかなりたくないのか早く答えろ」
「あからさますぎるでしょ」
熱量を増す恵人とは正反対に、三谷は先週衝動的に自殺未遂をした人間とは思えないほどに落ち着いていた。いろいろな意味で諦めの境地に至っているのだろうか。
「……とにかく、それ一回やったらいいの? 僕は女らしい演技とかしないけど、ただ立ってるだけでいいんだよね?」
「そこは別にいいよ。なんなら姿勢も悪くして引き立て役を全力で演じてくれてもいいし」
「しないよ」
三谷は吐き捨てるように言い、ふと空を見上げた。遥か上空を飛ぶそらもりさんの姿を目で追う。
「一回だけならいい。浴衣なんて男でも女でも大して変わらないしね」
「本当に⁉」
やったー、と恵人は両手を上げて飛び跳ねる。
「そういうのはいいから、さっさとそれを渡してよ」
「うん! いまパンツも出すから!」
「いや……。ちょっと待って」
「ほーら、浴衣と一緒でこっちもお揃いだよ~!」
「穿かないわ!」
恵人が両手で広げて見せた可愛らしい布きれは、三谷の手刀であえなく叩き落とされてしまった。
泣く泣くパンツをバッグに戻しながらも、無事三谷が浴衣を着てくれる運びになって恵人は安堵した。三谷は浴衣を受け取ると特に恥ずかしがる素振りも見せず、手早く制服を脱いで着替えた。そして黒髪セミロングのウィッグを被り眼鏡を取れば、ミニ浴衣姿の少女の完成だ。
三谷の女装姿を見て、ほう、と恵人は呟き、しみじみと言う。
「なかなか可愛いねえ。二人並んだら見劣りするけど」
「お世辞?」
「そんなことないよ。引き立て役として丁度いいレベルかも」
「全然喜べないけど……」
テンションは一向に上がる様子のない三谷であったが、ともあれ着替えは済ませたので二人は給水の準備をしてそらもりさんが来るのを待った。そして決戦の時はすぐに来る。
「今日はちょっと遅かったね」
バケツを持ち上げ、恵人が言う。三谷も同じようにバケツに手を伸ばし、ちらりと恵人に視線を送った。
「うわ、なんでガン飛ばしてんの?」
「眼鏡がなくて見えないだけだ。それより、さっき言った通り僕は特別何もしないからね。いつも通りに立っておくだけで、何か協力する気はないから」
険しい目つきのまま、念を押すように言う。恵人は笑いながら頷きを返した。
「それでいいよ。いつもよりちょっと濡れるかもしれないけど、それ以外はいつも通り。それでオッケー」
女装姿で並んで立ち、恵人と三谷は迫りくるそらもりさんを待ち構える。数秒と経たぬうちにそらもりさんの姿は大きくなり、そして、屋上は白い靄に包まれた。
「ぷわッ」
「くうッ……」
これまでよりも風圧が強い。二人はともにそう感じた。三谷の女装の効果が表れたのかもしれない。恵人は内心ほくそ笑んだ。何よりも変化があることが嬉しい。良い兆候かどうかはわからないが、それでも何もないよりマシだ。
そして更なる変化があった。飛沫がかかり、音が聞こえる。それは同じ。しかし、音が少しばかり違っていた。
「ん?」
低い。重い。それは同じだが、唸るようなものではなかった。それはまるで合戦の時に吹き鳴らすほら貝のような、広く響く音だった。
恵人がそれに気づいた時、さらに風が強くなった。
「これは…………!」
表情を維持することもできず、隣に立つ三谷の方を目を細め顔を歪ませながら見る。ウィッグを風に靡かせながら耐える三谷。脚を踏ん張るその姿は女らしさなど皆無だが、それでも一応は少女に見えなくもない。
これは負けていられないと恵人が表情を引き締め前を向いたその矢先、不意に靄が濃度を増した。辺りが白く染まり始める。
思わず三谷の方に視線を戻す。
「なんだ――」
これ、と続く疑問の言葉は出なかった。恵人は言葉を失った。
視線の先、風に耐えていた三谷の体がふわりと浮いたのだ。
まるで一週間前のあの時のように、三谷の体は柔らかに浮かび上がっていた。あの時と違うのは、三谷に意識があり目を見開いて手足を慌ただしく動かしているという点だった。三谷の手がいくら宙を掻いても浮いた体を制御することなどできなかった。
そして次の瞬間、一際大きな風が吹いた。
「うぐぅぅッ」
恵人は反射的に目を閉じ、体を縮こまらせる。油断すれば吹き飛ばされてしまいそうな突風。しかし、生まれてこの方経験したこともないそんな強風が恵人を襲ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。
一転、辺りには静寂が訪れ、穏やかな風が流れた。
「あれ……?」
恵人が目を開ければ、あれだけ屋上を覆っていた白い靄も完全に消え去り、ついいましがたの光景が嘘のような静けさになっていた。
「なんなの、これ」
口をついて出た言葉に答える声はなかった。それもそのはず、風が止みそらもりさんが立ち去った屋上には、恵人一人の姿しかなかったのだ。
「えーっと…………」
恵人の手からバケツが落ちた。困惑を通り越し、恵人は呆然とするしかなかった。三百六十度どこを見回しても三谷の姿がない。
「まさか……」
頭の中ではすでに予想がついていた。いまここで何が起こったのか。そしてそれがなぜ起こったのか。
三谷はそらもりさんに連れ去られた。そうとしか考えられなかった。
昼休みが終わる直前になっても、三谷は帰ってこなかった。そしてそらもりさんが水を飲みに下りてくることもなかった。それどころか、空のどこを見てもそらもりさんの姿が見えない。雲の向こうにでも姿を消してしまったとしか思えない状況だった。
さすがにこれはまずいと思い、恵人は校内へ戻る。向かう先は係を担当する教師の下だ。とにかくまずは報告をしないといけない。
しかし、自分はどうとなる覚悟もできていたが、まさか三谷がそらもりさんに連れられて行くなんてことはあり得ないと思っていた。これは明らかなミスだった。そらもりさんにとっては恵人よりも三谷の方が好みだという可能性を考慮していれば、彼に女装させるという選択肢を選ぶことは無かったはずだ。
「くそ!」
迂闊な真似をするべきではなかった。慎重を期した行動をとるべきだった。後悔は生まれるが、いまさらどうしようもない。
しかし、恵人はふと思った。
三谷は死ぬ気だったし、仮にこれでどんな目にあってもさして問題なくはないか、と。
ほのかに顔に明るさの戻る恵人だが、とはいえ、世の中には死んだ方がマシなんて言葉もあるのだから、三谷がなにをされても平気だと楽観視することはできない。
逸る気持ちを抑えながら階段を一段飛ばしで下りていると、突然どこからか悲鳴が聞こえてきた。
驚き、思わず足が止まる。
「なんだなんだ?」
男女の叫び声が入り混じり、ばたばたと人が慌ただしく動く音がした。恵人は方向転換し、声の聞こえてきた方向へ走った。
叫び声の発生源はとある教室前の廊下だった。廊下には生徒の人垣ができており、その向こうに人影が見えた。
そこにあったのは、直立の姿勢で空中に浮かぶ三谷の姿だった。そらもりさんに連れ去られた時のままのウィッグと浴衣を身につけた状態だ。ただ一つの相違点は、三谷の周囲に何故か風が巻き起こっている点。周囲の生徒たちはそれを避けるようにして距離を取り、遠巻きに三谷を囲んでいる。
「あれってまさか……そらもりさんの力?」
三谷の周囲の風から連想されるのは獣の起こす風である。そらもりさんに連れ去られた三谷が戻ってきて、獣と同じように風を起こしている。ということは、あれこそがそらもりさんから与えられた力。恵人が求めていたものの答えなのだろうか。
恵人がその姿に目を奪われていると、
「そらもりさんの」
三谷が口を開いた。
「意思を伝える」
三谷の顔には表情がなかった。声にも抑揚がなく、淡々と定型文でも口にするように話し始めた。
「そらもりさんは美しい少女を欲している。久しく間近で見ることもなかった人間の少女を、自分の手元に置いておきたいと考えている。そこでわたしは命を受けた。いまからこの学校にて、わたしは美しい少女を選びだし、空の上へ運ぶ。わたしは少女を連れて行く使者だ」
「はあ?」
恵人は口をぽかんと開けた。生徒たちからも驚きの声や文句を言う声、説明されたところでいまだ正体不明の人物に対してひそひそと何事かを囁き合う声等々、困惑した反応が返っている。
「それでは始めよう。ちなみにきみたちに拒否権はない」
周囲の反応など気にすることなく、三谷は両手を左右に広げた。同時に、風が辺りに吹き荒れた。一斉に叫び声が上がり、現場は騒然となる。
「品定めをしないとな」
風がうねり、三谷の周囲にいる男子生徒たちをなぎ倒す。そして、近くにいた女子生徒たちは立ったままの姿勢でぴたりと動きが止まった。一瞬何が起きたかわからなかったが、恵人はすぐにそれに気づいた。風が女子生徒たちの体の周りを駆け巡り、身動きできないように圧迫しているのだ。
そうやって動きを止められ苦しげな声を出す生徒たちに三谷は近づき、しげしげと顔や体を眺める。うーん、と小さく唸りつつ半数以上の生徒の拘束は解き、残る生徒はそのまま風で捕え続ける。
その光景は他の生徒たちに身の危険を理解させるに十分だった。生徒たちは声を上げながら、一斉に三谷のそばから逃げ出す。
しかし、
「女は待て」
女子生徒の周囲に、竜巻状の風が吹き上げ進路を塞ぐ。方々から悲鳴が上がり、ついでに風で捲れ上がったスカートに男子生徒たちが狂喜の叫び声を上げた。恐怖と羞恥の悲鳴、加えて野太い歓声が上がる中、三谷は黙々と検分を行っていく。
恵人は風邪を自在に操る三谷の姿を食い入るように見ていた。これは一目瞭然、まさしく人知を超えた力だ。こんな力を持っている者など、この地球上に三谷ぐらいしかいないのではないかというぐらいに特別な力である。まさに文句なしと言える。
ただ、恵人の眼差しには憧憬の思いはなかった。むしろ落胆していると言ってもよかった。
「いくらすごくても、パンチラさせる能力ってのはなあ……」
恵人はため息を吐いた。別にそのための能力でないことはわかっているが、だったらそれ以外にこの力をどう使うのかという問題がある。風が起こせたところで実生活で役に立つことは別になさそうだし、異性にモテるようにもならなければ金を稼げるものでもない。称賛を浴びることもなく、面白がられるのが関の山ではないだろうか。
「こんな力ならいらないな」
それが恵人の率直な感想だった。
「せめて瞬間移動とか、予知とか心を読むとかそういう便利かつ有名なものだったらなあ」
そんな願望を垂れ流しながらも、恵人はこれからどうするかを考えていた。三谷は悠々と美少女集めをしているが、こんな暴挙を許していいわけがない。こうしている間にも騒ぎを聞いて他の生徒や教師たちもどんどん集まってきている。このままでは大した時間もかからずに三谷は目的を果たしてしまう。
そらもりさんと三谷の間の詳しいやり取りはわからないが、三谷がこんなわけのわからないことをする羽目になっているのは確実に恵人のせいである。であれば、彼を止める責任は恵人にある。
恵人は意を決し、前へと進み出た。その瞬間、三谷の顔が素早く恵人の方へ向いた。そして動きを止める。
三谷は黙ったまま恵人の顔をまっすぐに見て、何かを迷うような目をしている。恵人の方も虚を突かれ、言うべき言葉が見つからずに口を開けない。
これではいけない。そう思って恵人がさらに一歩を踏み出そうとしたその時、
「――――ッ!」
三谷が窓から外へと飛び出した。軌跡は上へと弧を描き、そのまま恵人たちの視界から消えてしまう。
「なッ⁉」
驚いたのも一瞬、恵人はすぐさま駆けだした。判断はすぐだった。上に上がったのならば行き先として考えられるのは屋上。仮に間違っていたとしても屋上からならどこに移動したのかすぐにわかる。
「とにかく説明だ、三谷!」
いまばかりは美少女らしさもかなぐり捨て、恵人は全力で走った。
「たったこれだけでも息が上がるって、ちょっと情けなくない?」
恵人は屋上の扉に寄りかかり、肩を上下させながら自嘲気味にそう言った。案の定、三谷は屋上にいた。二、三メートル前方かつ一メートルほど上空。三谷はそこに立ち姿で浮かんでいた。
「三谷はもう自分の脚で走る必要もなさそうでいいなあ」
「羨ましい?」
「あんまり」
恵人は正直に答えた。
冗談を言っていても仕方がないし、また逃げ出されても癪である。恵人は本題を切り出した。
「どうしてそうなっちゃったわけ?」
「元を辿ればきみに女装させられたからなんだけど」
「いや、そこはわかってる。ごめん。本当に申し訳ない」
恵人は勢いよく両手を合わせて深々と頭を下げた。
「別に謝らなくてもいいよ。僕がそらもりさんに連れ去られるって可能性はゼロじゃなかったし、そんなことは僕にもわかってた」
「覚悟してたのか?」
恵人は顔を上げ、訊ねた。
「言ったでしょ? 少し自暴自棄にはなってたんだ。最悪死んでもいいかってぐらいのことは思ってた。そうでもなきゃ女装すらしてないさ」
「そんなにハードル高いかな?」
「きみみたいなナルシストを除けばそうじゃない?」
恵人は難しい顔をして、顎に手をあて唸った。恵人にナルシストという自覚はない。
「そういえば、きみに残念なお知らせがあるよ。これは僕がこんな力を与えられた理由にも関係する話だけど」
三谷が話題を本筋に戻す。
「僕の女装は早々にそらもりさんにばれた。あっという間に男だって見破られてしまったよ」
「マジで?」
「恐らくきみが首尾よくそらもりさんから及第点を貰って空の上へ連れ去られたとしても、僕と同じようにすぐに正体がばれただろうね」
それはつまり、恵人の計画は初めから成功させることが不可能だったことを示している。
「空の上で体中をまさぐられたから、性転換でもしない限りは騙すことは無理だ」
恵人にとってはなかなか衝撃の事実なのだが、三谷はこれまで同様に淡々とそれを告げる。
「マジかぁ……」
恵人はうな垂れた。せっかくの一発逆転の妙案が何の意味もなかったとは。ここ二か月の努力もすべて無駄である。
「ショックを受けているところ悪いけど話を続けると、男だとばれてしまった僕は美少女を連れてこいとそらもりさんから命令された。そしてそのために風を操る不思議な力を与えられた。以上。これが僕に起こった出来事だ」
込み入った話でもなく、あっさりと説明は終わった。要は女を騙ってやってきたやつに、代わりに本物の女を連れて来いって恫喝したってだけの話だ。ご丁寧に便利な力まであげてやって。
単純明快な話だが、しかし恵人にはひとつ疑問がある。
「なんで三谷はそれに従ってんの?」
獣をよっぽど恐れているのか、それとも命令を破ることのできない仕掛けでもしてあるのか。可能性はなんとでも考えられるが、不思議であることに変わりはない。
「それはさっきも言った通りだよ。僕は自暴自棄になってるんだ。妙な力も使えることだし、獣に言われるがままに馬鹿なことをしてみるのもいいかなって思ったんだよ」
「…………それだけでか?」
「それだけでだよ」
「えぇー…………」
「あっ、あと命の恩人だからかな。自殺しようとした時にそらもりさんに助けてもらったから」
「でもいまでも死のうって思いはあるんだろ?」
「当然」
「えぇー…………。矛盾してるじゃん」
「こんなものなんとなくな気分だよ、気分。別に止めたいなら止めればいいさ。僕は取りあえず全力で抗ってみるけど」
その言葉を証明するように、三谷の周囲に風が巻き起こる。
「止められる?」
「そりゃあ、オレには責任があるからな。それに、女を攫って親玉に献上するなんて敵役兼脇役の所業だろ。オレはそんなの御免だね」
「きみじゃなくて僕がやるんだけど」
「その原因がオレにあるのが嫌ってこと。オレは主人公的一生を過ごしたいんだから、そんな汚点はいらない」
そう言って、恵人は扉から背中を離した。息はすっかり整っている。
「その願望だって、もう潰えちゃったでしょ?」
「別の方法を考えるだけだ。この恵まれた容姿を活かした何かをな」
恵人は不敵な笑みを作り、身構えた。荒事には慣れていないし特別な技術もないが、とりあえず相手の腹に飛び込んでいく。そのための体勢だ。
「その挑戦も失敗に終わりそうだね」
「いいや、絶対成功させる!」
恵人は床を蹴った。一気に距離を詰める。
「無理だって」
三谷が僅かに手を動かした。恵人の足元から風がせり上がってきた。
「ほら」
三谷の顔に余裕の笑みが浮かんだ。
が、恵人は、
「くっそぉ!」
風を踏み越えようと右足を踏み出す。そしてその瞬間、浴衣の裾が盛大に裏返り、
「なッ…………!」
恵人の浴衣の中身が露わになった。
「――――――――ッ!」
直後、恵人を襲った風が消えた。次いで、三谷が突然落下した。棒立ちのまま落下して受け身も取らず、屋上の上に転がった。
「チャンス!」
恵人の勢いは死んでいない。転がる三谷に向かって覆い被さるように飛び込んで、握った拳を顔面目掛けて全力で叩きこんだ。
三谷の口から、声にならない声が漏れ出た。
「どうだこらぁ!」
一瞬にしてガラの悪くなった恵人は三谷の体の上に馬乗りになり、その襟首を掴んでがくがくと揺さぶる。
「オレの勝ちだろこれ⁉ なあ! おい⁉」
「な、なんで…………?」
三谷が弱弱しい声を振り絞る。
「なんでって、どう見ても勝ちだろ」
「そうじゃなくて、なんできみは下着を穿いてないんだよ!」
一転、三谷は出会ってから一番というぐらいに大きな声で吠えた。
「そりゃ当たり前だろ。和服の場合はノーパンだよ。マナーだろ?」
「ないよ! それは現代では間違ったマナーだ! 絶対そうだ! っていうかきみは昼休みが始まってからずっとノーパンだったのか⁉ ノーパンで僕と普通に会話してたのか⁉」
「そりゃするよ。ノーパンだって雑談ぐらい普通にするよ」
「し…………信じられない」
心の底から放たれたその言葉を最後に、三谷はそのまま気絶した。
そして、騒ぎは瞬く間に収束へと向かった。
「もうすぐ夏休みだねえ」
「そうだね」
じりじりと照りつける太陽から逃れ、学校の備品であるビーチパラソルの下に座り込む二人の男子生徒。ただし、その片方はセーラー服を着ていた。
「今度は何しようかなあ」
セーラー服の裾をパタパタと扇ぎながら、恵人はなんとはなしに呟いた。
三谷がそらもりさんの使者となって美少女を攫おうとした騒ぎから一か月が過ぎ、世間は夏真っ盛りの七月になっていた。
件の騒ぎは屋上で三谷が気絶したことであっという間に収まった。女子生徒たちを捕えていた風は一瞬にして消えてしまい、謎の使者もどこかへ行ったきり姿を現すことはなく、生徒たちは束の間の怪奇現象かもしくはリアルな白昼夢にでも襲われたような状態だった。生徒たちの間には当然混乱が広がったが、日が経つにつれ、謎の使者の存在は謎のイカれた超能力人間として認識され、騒ぎ自体にも念動力を持つ頭のおかしい不審者が学校に侵入して派手に暴れたという説明が生まれたことで、少しずつではあるが落ち着きを取り戻していった。幸い、三谷は眼鏡を外しており女装姿だったため生徒たちに正体はばれておらず、騒ぎとの関連性を誰かから追及されることはなかった。
二人は何事もなく学校生活を送り、給水係をまっとうしていた。
「きみはいいかげん女装止めたら?」
「なんかクセになったっからなあ……。別によくない? 可愛いでしょ?」
三谷は恵人の言葉を否定することなく、ただ押し黙った。
「これを何かにいかせないかなあ……。薔薇色の人生に繋がるなにかに」
「そんなものがあったらいいけどね」
三谷はつれない言葉を返す。
「やっぱりそらもりさんかな。それしかねえかな」
「それは無理でしょ。僕の二の舞になるだけだよ」
「でも、三谷は攫われたときにそらもりさんと意思の疎通ができてたんだよな? そうじゃなきゃ使者として言葉を代弁なんてできないし。それができるなら、そらもりさんと手を組んで超常的な力を手に入れることも…………!」
「危なすぎるでしょ。それに、僕はあの時のことはあんまり覚えてないから、ちゃんと意思の疎通ができるかは断言できないよ。一方的に伝えたいことを頭の中に叩き込まれるだけかもしれないし」
「そこだよな~。なんで忘れるかな~」
「悪いけど気絶する直前のことしか覚えてないから」
「あぁ、自分の股間の力が恨めしい。まさかすべてを上書きするなんて」
「あんまり思い出させないでほしいかな」
三谷は渋い顔をして恵人を見る。
恵人はスカートの裾をひらひらと動かしながら、口元に笑みを浮かべる。
「もう一回見たらショックで記憶が蘇ったりする?」
「しない!」
断固拒否する三谷を見て、恵人はけらけらと笑った。
思い返せば、あの時三谷が自滅してくれたのは完全に運だった。風でたまたま恵人の浴衣が捲れていなかったら、三谷は恵人を無力化してのうのうと美少女達を獣の下へ運んだだろう。恵人は自分の悪運の強さを少し誇らしくも思ったものだ。
と、そこでふと思う。
「運…………か。それもあるな」
「運?」
オウム返しで三谷が呟く。
「運だよ。運のよさっていうのはこれまで考えてなかったから、それを軸に薔薇色人生プランを組むっていうのもありだよな」
「それって破滅と隣り合わせの生き方にならない?」
三谷は不安げな表情でそう忠告するが、恵人はまったく聞く耳を持たない。目を輝かせながら、自分の思いつきに胸を弾ませている。
「運というパラメータを加味することで、あらゆる局面において望む結果を得られる確率が上がる。これならオレみたいな凡人でも薔薇色人生を歩めるようになるはず」
「……理想論はそうだけどさ」
「となると、まずやるべきは運を上げること。何らかの方法でオレ自身の持つ運を底上げしなければ……。でもどうやって」
「それができたら苦労はないよ」
恵人は額に手をあて、思案顔でしばし黙った。場に沈黙が流れる。
そして不意に、
「そうか! 人知を超えた不思議な力で強運を引き寄せればいいんだ!」
拳を固く握り、熱を持った言葉を吐いた。
「それならずばり、そらもりさんに取り入って超常的な力を貰えば――」
「堂々巡りじゃないか!」
炎天下の屋上に、三谷の声が響き渡る。
実のあるようで実のない会話を続けるそんな二人の様子を、当のそらもりさんは遥か上空から悠然と見下ろしていた。