なんであいつが落ちていく
その翌週からも恵人は様々な衣装を身につけてそらもりさんに挑んだ。
涼しげなワンピースや女子生徒用の体操服、きっちりとした印象のパンツルックの時もあれば落ち着きを持ったロングスカートの時もあり、ゴシック系やフリル系全快で攻めることもあれば、さらにはメイド服やナース服、おまけに婦警やバニーガールの衣装を容姿した時まであった。
「よくこれだけの服を調達できたね」
「いまは便利な世の中だからね。うちには姉もいるし」
そうやって様々なジャンルを試してみた恵人だが、結果の方は振るわなかった。唸り声はするし飛沫も多めにかかるけども、それ以上の進展はまったくと言っていいほど望めなかったのだ。そうこうしている内に五月も過ぎ、六月が訪れていた。
このままでは埒が明かない。そろそろ勝負を仕掛ける時なのかもしれない。恵人はそう考えていた。正攻法で挑んでみたものの目を見張るような成果はない。ならば、取るべき手段は搦め手である。恵人の頭の中にはすでにそのための策があった。
屋上に着くや否やバケツに水を汲んできて、すぐさま着替えも済ませる。本日の衣装は巫女服。紅白の和装はそれだけでは女性を感じさせないデザインのはずだが、それでも恵人は一見すれば女性としか思えない姿になっていた。
「じゃじゃーん」
いつも通りに衣装とそれに身を包んだ自分の可愛らしさを三谷にじっくり見せつけたうえで、
「じゃじゃーん」
二度目となるその言葉とともに、カバンの中から小さな瓶を取りだした。中には透明な液体が入っている。
「秘密兵器~!」
目の前には眉根を寄せた表情の男子生徒ひとりしかいないというのに、普段以上にニコニコと愛想を振りまきながら恵人は言った。
「それって…………」
三谷は眉間の皺を深くしながら恵人の手にある瓶を注視する。その目は、一瞬で大きく見開かれた。
「きみ、それ――」
「お酒~」
恵人がカバンから取り出したのはワンカップの日本酒だった。未開封のそれは降り注ぐ日光を反射してキラキラと光っている。
「なんでそんなもの――」
「これまで一か月以上頑張ってきたわけだけど、目ぼしい成果はなかったわけじゃない? だからここらでひとつ戦法を変えてみようと思ったの! 要は酒の力を借りようって話だよ。素面ならいまいちの相手でも酔ってたら全然大丈夫とかいうじゃん。酔った勢いでなし崩し的にとか酒の場の勢いでとか、そういう方向のアクシデント的なものを期待して持ってきちゃった」
終始笑顔で説明した恵人。それを三谷は黙って聞き、そして、一言も発することのないまま
うな垂れた。
「理解はできた…………けど、納得はしたくない」
「いいよいいよ。三谷君は傍観者なわけだから、賛同してくれなくてもいいんだよ」
「よくそんなに自信が持てるね」
三谷は顔を上げる。彼の視界に入るのは変わらず笑みを浮かべる恵人の顔だ。
「自信なんか大してないよ。いままでも失敗ばっかりしてるわけだし。ただ、やる時には絶対に成功させてみせるって思ってやるだけ。自信があろうがなかろうが上手くいくときは上手くいくし、駄目なときは駄目だしね」
「それはまた随分男前な考え方で」
「えッ、そう? あんまり美少女っぽくなかった? 根拠のない自信を持ちながらも奥の手を隠し持ってるような腑に気を醸し出した方が美少女っぽかった?」
「……きみの美少女感は大分偏ってると思う」
「いまさら修正は効かないかなあ」
恵人は平気な顔をしてけらけらと笑った。
「神様と言えばお神酒だし巫女服も伝統的な衣装だしさ、ウン千年と生きてるらしいそらもりさんにはどストライクのチョイスじゃない? 大して自信はないって言ったけど、我ながらこれはイケると思ってるんだよね」
「そのメンタルは本当に凄いと思うよ……」
三谷はそう言って、ひとつため息を吐いた。恵人には、それはいつもの呆れからくるものとは違って、素直な感嘆の意味を持つものに感じられた。
「そこだけは少し羨ましいな」
三谷は口の端を上げ、自嘲するような笑みをみせた。
「なら、女装しとく?」
「なら、じゃないよ。僕にはそんなメンタルはないし、そもそも女装とメンタルの強さは関係ない」
「そりゃそーだねー」
あっはっは、と恵人は快活な笑い声をあげた。それを見て、
「本当に強いよ」
三谷は二度目のため息を漏らした。
「ほらほら、そんな下ばっかり見てちゃ駄目だよ。そらもりさんが下りてこないか、しっかり空を見てないとね」
そういう自分の言葉とは裏腹に、恵人はバケツの傍にしゃがみ込み瓶の蓋を慣れない手つきで取って中身をそこに注ぎ始めた。
「うわ、消毒液の臭いだ!」
むせて咳き込みながらも酒を注ぎきり、渋い顔で揺れる水面を眺める。
「全部入れて良かったの? 失敗したら二度目がないでしょ」
「まだあと二本あるから大丈夫」
恵人は立ち上がって自分のカバンを指差し、
「これで駄目なら、バケツの水に混ぜるんじゃなくて自分の体にかけるプランもあるからね」
腰に手をあて、胸を張ってそう言った。
「よくやるよ、ホント」
「さあ、これで準備万端。いつでも来るのだ、獣よ~」
両手を頭の上で合わせ、小刻みに震えさせる。
「来たまえ~、来たまえ~、酒につられたまえ~。そして酒に溺れて美少女の虜になってしまいたまえ~」
言葉を連ねて体を左右に揺らし、祈祷まがいの所作を繰り返す。
恵人のインチキ祈祷の効能かはたまた巫女服のおかげか、そらもりさんはすぐに降下の態勢を見せた。バケツを持って屋上に立つ二人に向かって一直線に下りてくる。それを待ち構えながら、恵人はそらもりさんには嗅覚があるのだろうか、などというどうでもいいことを考えていた。
「うわぷッ」
そらもりさんが屋上に達し、辺りが白い靄で包まれる。
そこからの展開はいつも通りだった。特別な変化はなにもなく、しばしの間その状況に耐えたのちに、屋上からは白い靄が一瞬にして消えてしまう。
「あらら……」
漏れた呟きには、明らかな落胆の響きがあった。この策には、自分で口にしていた以上に恵人の中で自信があったのだ。失敗するにしても何かしら発展があればよかったのに、と思いながら、空へ昇っていく獣の後ろ姿を眺める。
それは何の気なしの行動でしかなかったのだが、しかし恵人はそのそらもりさんの動きに変化を見止めた。そらもりさんがなぜか蛇行していたのだ。
「あれ?」
そらもりさんは下りてこようとする際、その意思を屋上にいる係の生徒に示すために空の上で蛇行する動きを見せることが多い。この動きは降下時に見られるもので、昇る際には一直線に進むのが常なのだ。
恵人の手からバケツが落ちた。何かが起きている。恵人は思った。確実に、そらもりさんの中で何らかの変化があったのだ。にわかに恵人の顔に明るさが戻った。
しかしそれは一瞬のこと。恵人の顔はすぐに曇ってしまった。そらもりさんの動きが蛇行と呼べる範疇を超え、空へと昇る進路を外れてふらふらと飛びまわり始めたのである。
「えーっと……」
そらもりさんは時によろよろと時にのびのびと普段よりも大分低い高度で悠々と飛んでいる。その様を見て、恵人は目の前で起こっているものがなんであるのかをほぼ正確に把握していた。
「酔っぱらってる」
したたかに酔っぱらっている。そうとしか思えなかった。あのそらもりさんの動きは足取りのおぼつかない酔っぱらいのそれである。酔うのを期待しからこそ酒を持ってきたのだが、まさかこれほどまでに激しく酔っぱらうとは思っていなかった。それに、酔うのはいいがそのまま空に変えられたのでは酒を用意した意味がない。
「こっちに戻ってきてぇーッ!」
恵人は声を張り上げた。酔いさえしたのならばこちらのもの。あとはその勢いで惚れさせてしまうだけだ。せっかく巡って来たチャンスを逃すわけにはいかないと、恵人は必死にそらもりさんを呼んだ。
その思いが届いたのか、そらもりさんは動きを緩め、頭を屋上の方へと向けた。そしてそのまま降下の態勢に入る。
「そう! こっち! こっち!」
「呼ぶのはいいけど、僕は関係ないから校舎の中に入っておくからね」
少し慌てた口調で三谷が言った。
「それでオッケー! ここで待ち構えて虜にしてみせるから、期待して待ってて!」
「何もないことを祈るよ」
三谷はそれだけ言って、バケツを持ったまま踵を返した。足早に扉へと向かう。
恵人はその後ろ姿を見送ってから、再び空を見上げた。そらもりさんはすでに恵人の方へ向かってきている。距離はすぐに縮まり、そして、全身を衝撃が襲った。風圧だ。冷静に判断すればなんのことはない。毎回食らっている風圧が少し強めに――呼吸がしづらいぐらいの勢いでもって――かかったというだけだ。恵人は必死に目を開け、表情を崩さぬように耐える。風が強い分、そらもりさんに包まれている時間はいつもより短い。あっという間に、恵人の視界からは白い靄がなくなり、一瞬にして風圧も消えた。
「ぷは」
反射的に息を吸い込み、呼吸を整える。しかしそれも束の間、
「んぶッ」
右から、再び風が来た。
恵人の頭に疑問符が浮かぶ。連続。しかも横から。そらもりさんは真正面から来るもので、一度屋上の上を通って水を飲んでしまえば一旦空に上がるのがルール。別に誰かが決めた規則があるわけではないだろうが、それが当たり前だ。
やばいかな。
直感だった。酔っぱらいの奇行。接触するには危険な状況。同じ人間相手でも厄介なのに、それが空を飛ぶ神様的存在のそらもりさんとなれば危険度はうなぎのぼりである。
そらもりさんはまた一度消え去って、屋上には一瞬の静寂が訪れる。恵人はすぐに呼吸を繰り返した。そうこうしている内に次が来る。
ほんの数瞬の間をおいて、恵人は繰り返し獣に包まれた。外から見れば、そらもりさんが屋上の上を何度も行き来しているのがわかるだろう。まるでモノにじゃれつく犬や猫みたいだ。恵人はぼんやりと考えた。この状況下でなにをすれば自分の目的に沿う結果が得られるのか、それが何も思い浮かばない。いまはそらもりさんの勢いに耐えるので精一杯だった。
おまけに、こんな状況になってそらもりさんはいままでと違う挙動を見せていた。恵人は自分の体に何かが触れるのを感じていたのだ。何かといっても、その正体はわかっている。風だ。勢いよく吹きすさぶ本流とは別に、恵人の体を撫でるように吹く小さな風の流れがあった。頬を、首元を、胸を、足首を。そして終いには襟元から腹に、裾から太腿まで風は侵入してきた。
相手は風。恵人にはさほどの不快感はなかった。この現象は、酔ったそらもりさんがより直接的な行動に出ているということだ。いまは、それに対する期待感の方がよほど大きかった。
いける、かもしれない。そんな思いを抱きながら、恵人は必死に耐えた。耐えた先に、自分の望むものがあることを信じて、ただ耐えた。
時間にしてどれぐらいだったのだろうか。恵人には予想もできなかったが、彼が気付いた時、それはいつのまにか終わりを迎えていた。
靄が消え、静寂が訪れる。一瞬で終わるはずのそれが、いつまでたっても新たな靄と強風に上書きされない。
「……終わった?」
屋上は、しばらくぶりに静寂を取り戻した。恵人の体が揺れ、なんの抵抗もなくその場に横倒しになった。視界に見慣れた空が映る。
「あ……」
その中を、そらもりさんが飛んでいた。空へと昇るいつも通りの、ただ少しばかり勢いがなく感じられる後ろ姿だった。
「帰った」
口をついて出たのは、率直な言葉。
「……やっと終わったか」
背後から、扉が開く音と三谷の声がした。恵人は振り返ることもせず、そのままの体勢で意識だけをそちらに向けた。
「なにか得られた? ――って、うわッ!」
「んー?」
「きみ、まさか襲われたの?」
「へ?」
恵人は改めて自分の姿を見た。着物ははだけ、所々紐もほどけかかっていて、普通なら巫女装束に隠れているはずの部分が露わになってしまっている。確かにこれなら襲われたと思うのが普通だ。
「なんでそこまで…………いや、そこまでしないと無理なのか」
乱れた恵人の姿を見て、三谷は小さな声で何事かを呟いている。そして不意に、手に提げていたバケツを下ろし、何故か恵人のバッグの方に歩いていく。そのままバッグの傍にしゃがみ込み、その中を無遠慮に漁り始めた。
突然の三谷の行動に、恵人は何も言えずそれを眺めるだけだ。恵人が見ている中、三谷がバッグから取り出したのはワンカップの酒だった。
「ん? …………なにしてるの?」
獣に手荒い扱いを受けた後に、三谷の意味不明な行動。恵人の頭は混乱する。
三谷は感情のない顔で、手にしたワンカップを見る。そして、おもむろに蓋を開けた。
「んっ」
瓶から立ち昇る臭気に一瞬顔をしかめ、次いで、そっと口をつけた。
「ちょ、ちょっと!」
恵人の慌てた制止の声。それに被さるように、三谷が激しく咳き込む声。
「……まっず」
渋い顔をしてそんなことを言いながらも、三谷は尚も酒に口をつけた。また小さく咳き込み、苦しげに呟きを漏らす。
「な、なにやってるの?」
恵人は狼狽えていた。係として屋上に来て以来、三谷を相手にこんな感情を持ったのは初めてだ。なにせいつもは恵人の方がそう思わせていた。
「僕さあ……」
「えッ?」
「僕さあ、彼女がいたんだ」
唐突な告白に、恵人は声も出せなかった。
「同じ中学のかわいい子だったんだけどさ、三年の夏ごろから付き合ってたんだ。元々クラスメイトでよく話もしてて、僕は小説が好きで彼女は漫画やアニメが好き。微妙に趣味は違ってたんだけど、その似てるけど似てない具合が丁度良かったのか、気が合ってさ。仲の良い友達になって、そこから自然とそういう関係になったって感じだった」
「へぇ……。すごいじゃん」
口をついて出たのは素直な感想だった。恵人はこれまでに恋人がいたことはない。同級生の男子に彼女がいたという事実があるのなら、恵人にとってそれは称賛に値する。
「一緒に帰ったり、休みの日に遊びに行ったり、お互いの部屋に行ったこともあった。楽しく笑い合えてたんだよ」
三谷は俯き、足元に視線を落としている。
「そんな感じで冬になって、受験が来て、彼女とはいく高校が別になっちゃったんだけど、それでも僕たちは付き合ってた。高校に入学してからも毎日連絡を取り合ってたし、デートだってしてた」
そこで一拍置いて、三谷はまた酒を口にした。
「そんな生活が一年続いたある日、突然彼女は別れたいって言ったんだ。向こうの高校で好きな男ができたんだって。明るくて、面白くて、やさしくて、そこそこ頭もよくて運動もできて、結構かっこいいんだってさ」
三谷は、深いため息を吐いた。
「どう思う?」
「どうって……」
「そりゃ勝てないよね。僕はそれに対抗できるような取り得はないもん。きみが自分のことを言ったように、これといった秀でた何かを持っているわけじゃない。凡人だよ凡人。まさに脇役」
言って、三谷は顔を上げた。
「僕は勘違いをしてたんだ。彼女ができて、自分は幸せを手に入れたんだ思ってた。彼女が僕の持つ特別だと思って、これから幸せになれると勘違いしてたんだ。本当は違う。僕はなにも持っていなかったから、幸せにはなれなかったんだ。きみが言う通り、なにも持たないものは、何も為せずに脇役らしいつまらない人生を過ごすんだ」
そこまで言い終え、酒を一口すする。まずっ、と苦々しげな声を出しながらも、三谷は手にしたそれを手放そうとはしなかった。
「なんで急にそんなことを?」
「フラれちゃって、本当にショックだったよ。死のうと思うぐらいにショックだった」
恵人の言葉には答えず、三谷は物騒なことを言った。
「そしてそんなにつらいのに、彼女のことを綺麗さっぱり忘れるなんてことはできなくて、それどころか楽しかった思い出が何度も何度も頭に蘇るんだ。辛いったらなかったよ。そして――」
言葉を区切り、三谷は恵人の顔をじっと見た。
「きみのせいで、僕は彼女の記憶に苦しめられたんだ」
「な、なんだよそれ?」
「きみの女装姿、びっくりするぐらい似合ってるよ。まるで本物の女子だ。喋らなければ間近で見ても男だとは気付かないぐらいに似合ってる。それはすごいことだけど、そのせいで僕は思い出すんだ。僕の傍にいた彼女の姿を思い出すんだ」
三谷は深く息を吐き、再び顔を俯かせる。
「別に見た目が似てるってことはない。けど、さっき言った通り彼女は漫画やアニメが好きで、時々ふざけてそれっぽい言い回しをしたりしてたんだよ。妙に芝居がかった口調とか、文章でしか見ないような単語や慣用句とか。そこらへんが、きみの喋りの雰囲気と重なるところがあるんだ、多分」
「そんな変な喋りをしてるつもりはないんだけど」
「きみの美少女感は偏ってるって言ったろ? それだけのことだよ」
そうか? と恵人は首をひねる。そう特殊な経験をしているわけでもないので、感性は極々一般的だと自負しているのだが。恵人は容姿以外は良くも悪くも並みだと自認して生きている。
「コスプレみたいなことにも興味があったみたいで、妙な服もよく着てみてたよ。まさかこんなところでそれをまた見ることになるとは思ってなかったけど」
そう言って、何度目となるかわからない深いため息。手に持っている瓶の中身は、ほんの少しずつだが確実に減っていっている。
何故突然酒を飲み始めたのか。何故突然フラれた彼女の話を始めたのか。わからない。恵人には何ひとつわからなかった。目の前にいる地味で一般的な男子高校生でしかなかったはずの三谷が、いまはとてつもなく不気味な存在に思えてきていた。
同じ曜日の係として出会ってから早二か月。より具体的には九日程度、いや九時間程度の付き合いでしかない間柄だ。好きなものや嫌いなものも知らないし、趣味や特技も訊いたことはない。昼休みの間同じ時間を過ごしているというだけの碌に知らない人間なのだ。
「僕がなんでこの係に志願したかわかる?」
唐突に、三谷は言った。脈絡もなく、言いたいことを言いたいように口から出しているように思える。
「こんな退屈なだけで何の意味もない、押し付け合いをされるような係に立候補した理由」
「そんなのわからないよ。オレみたいに何か目的があったってのか?」
「僕は、彼女にフラれて死にたいと思ったんだ」
三谷がゆっくりと腰を上げた。体が前後左右にふらつき、手にしていた瓶が床に転がる。半分ほど残っていた酒がぶちまけられ、恵人の鼻にもほのかなアルコールの匂いが漂ってきた。
恵人の視線は、転がった瓶に向かった。しかし頭の中では、いま三谷が発した言葉が何度も繰り返されていた。死にたい、それが三谷の思いであり、係になった理由。そうなのだとしたら、次に何が起きるのかは予測がついた。
「僕には何もない。きみと同じく、特別な何かを持っていない人間だ。いや、同じじゃないか。きみは恵まれた容姿があるし、それを使って一か八かの大勝負に出る気概もある」
三谷は歩き出した。体は前に傾き、おぼつかない足取りで進む。
「僕にはそれはできない。そんな状態になってまで、一発逆転に挑戦する気はない。いま、改めてそれがわかったんだ。きみぐらいの精神力がなければ、僕の人生はこの先好転することはない」
服が乱れ肌が露わになっている恵人を一瞥する。そうしながらも歩みは止めず、たたらを踏みながらも恵人のすぐそばまで来た。
そして、そのまま恵人の横を通り過ぎる。その先にはなにもない。三谷の目には屋上に張り巡らされたフェンスとそれを超えた先の空しか見えていないはずだ。
三谷は死ぬ気だ。洒落や冗談ではなく確実にやる気だ。それを確信し、恵人は両手をついて体を起こした。そらもりさんに弄ばれた疲労は僅かにあるが、立ち上がれないほどではない。
「待てよ!」
恵人は立ち上がり、振り向きもせず前だけを見ている三谷の背中に腕を伸ばした。その瞬間、背中が恵人の腕から遠ざかった。三谷が一歩を大きく踏み込み、走り出したのだ。
「ちょっと、待てって!」
一拍遅れて、恵人もそれを追った。酒を飲んで酔っているにもかかわらず、三谷は転ぶこともなくフェンスにどんどん近づいていく。
フェンスまでの距離は十メートルもない。あれこれ考える間もなく、三谷は屋上の端まで辿りつき、フェンスに飛びついた。ギシギシと音をさせながら、普段の姿からは想像もできない俊敏さで上っていく。
そして、
「さよーなら」
たったそれだけ呟いて、三谷は跳んだ。紛うことなき投身自殺。恵人はフェンス越しに、落ちていく三谷の背中を見た。
「うっそ……」
血の気が引いた恵人の顔を、
「――ッ!」
一陣の風が襲った。
反射的に目を閉じ、手で顔を覆う。風はその強さに反比例するように一瞬で治まり、恵人はすぐに目を開けた。
すると、その目に三谷の姿が映った。フェンスの向こうの空中。しかしフェンスよりも高い位置に彼はいた。放り投げられた人形のように弛緩した体を投げ出した姿勢で、空を舞っていた。
三谷は緩やかな放物線を描き、フェンスを悠々と越えて屋上に落ちてきた。床に接する瞬間、風がふわりと巻き起こって体がわずかに浮き上がり、着地の衝撃が緩和される。
「なにこれ…………」
一連の出来事を目にして、口をついて出た言葉。それに答えるかのように、フェンスの向こうで風の音が鳴った。見れば、そこにあったのは空へと昇る白い壁だった。
「まさか、そらもりさん?」
白い靄はあっという間に目の前から消え去り、それを追って視線を上げれば、、空へと昇るそらもりさんの後ろ姿が見えた。
「助けてくれたのか、そらもりさんが」
振り返り、そこに倒れている三谷を見る。
屋上から飛び降りた三谷を超強力な風で掬い上げ、そのまま屋上へと戻した。恵人が目にした出来事はそういうことだ。いくらそらもりさんとはいえ、空の彼方からこの屋上まで飛んでくるのにあの一瞬の時間では無理だろうから、その前から高度を下げて飛んでいたと思われる。どうしてそんなことをしたのか、というか、そもそも自殺しようとした人間をそらもりさんが救うなんてことがあり得ることなのか、恵人にはまずそこが疑問だった。
そらもりさんが人間の行為に介入したという事実。自分の目的のために獣について調べていた恵人には、それがとてつもなく稀なもので異常といっても過言ではないということがわかっていた。
恵人は空を振り仰いだ。
「酔っぱらいの気まぐれ?」
少しばかりふらついているように見えるそらもりさんの後ろ姿を眺めながら、恵人はそう呟いた。