そらもりさんを落としてみせる
子供のころ、ふと空を見上げるといろいろな形をした雲が浮かんでいた。ハンバーグ、イルカ、ひよこ等々、雲はいろいろなものに見えた。そんな中で、ことさら不思議な形をした雲があった。形どころか、その雲は動きもおかしかった。なにせ他の雲と違って、一定の流れに沿って動くのではなく自由気儘縦横無尽に空を泳いでいたのだ。
雲はうねうねと、まるでその身を捩らせるようにして動いていた。何かを丸呑みした蛇のような歪な形をしていて、頭に当たる部分は鈍く尖っていて矢印状をしている。他の雲の流れに逆らい、時にその頭で他の雲を断ち割っていく。
そんな不思議な雲に目を奪われ空を見たままじっと固まっていると、不意に祖父の声がした。
「なんだ、そらもりさんをちゃんと見たのは初めてか」
「……そらもり?」
「あれは…………なんと言ったらいいかな。まあ、神様みたいなものだ。空を見ればいつでも飛んでいるのが見えるぞ」
「神様?」
「空を守ってくれる神様。天気の神様。本当にそうなんだかはまあよくわからないが、ともかくそんなものだ。守り神だと思っていればいいさ」
祖父の説明を聞いている間にも、視線は雲に釘付けになっていた。
「良くも悪くも人間になにかしてくれるものじゃないが、いつも空の上にいて見守ってくれている。多分な」
「そうなの?」
「そう……言われている。本当のところはわからないな。大昔は意志の疎通ができる人間もいたっていうが、今じゃあそんなことは無理だ。毒にも薬にもならないし、守り神だと思っているのが一番気が楽ってだけだな」
そう言って、祖父は小さく笑った。聞いたこともない言葉もあっていまひとつ意味がわからなかったが、それでもあの雲がなにかすごいものなのだということだけは幼心に理解できた。
「……ふーん」
その思いとともに、空を飛ぶ守り神の姿をその目にしっかりと焼きつけていた。
そんな幼少期の思い出を頭に浮かべながら、板橋恵人は空を眺めていた。
「屋上から見ると、なんだか空が近く感じるなあ」
なんて呟きを漏らしてみる。
しかしそれは嘘だ。本当はそんなことを思っていない。なにかそれらしい台詞を思いついたから言ってみただけだ。
恵人の適当な呟きは他の誰の耳にも届くことなく空気の中に溶けて消えた。
季節は春、四月。昼間ともなれば日光が心地良い暖かさを提供してくれる心地良いこの時節、恵人はもう一人の男子生徒とともに屋上にいた。校内に通じる扉の傍に、二人は数メートルほどの距離をあけて座っている。そしてその目の前には水で満たされたバケツが、それぞれ二つずつ置いてあった。
男子生徒は文庫本を読みふけっており、いましがたの恵人の呟きが聞こえている様子はないし、そうでなくとも雑談に花を咲かそうなんて気はなさそうな雰囲気である。恵人はじっと空を見上げる。そして、そこにいる矢印状の頭をした雲に視線を注いでいた。
「あっ」
不意に、雲に動きがあった。ぐねぐねと激しく蛇行し始め、そこに上下の運動も加わる。
視界の端で、男子生徒が顔を上げるのがわかった。
「来るぞ」
恵人は呟き、おもむろに腰を上げる。そして、眼前のバケツに手を伸ばした。男子生徒もそれに倣うように同じ動きを取る。
満水状態のバケツを両手にさげて、恵人たちは屋上の中央の辺りまで歩を進めた。すると、それに呼応するように雲が動きを変えた。頭が屋上の方へ向き、ゆらゆらと揺れるような動きを見せながら近づいてくる。その距離はぐんぐん縮まっていき、あっという間に屋上の目と鼻の先に白い靄が迫ってきた。
恵人たちの視界が、白一色に染まる。二人は雲に包まれた。
濃霧の中に身を投じたように周囲が白に包まれ、同時に強烈な風と飛沫が顔と体に襲い掛かる。ジェットコースターに乗りながら前方から巨大な霧吹きで水を吹きかけられているような感覚。二人は口を閉じて息を止め、開いていた目も開けていられなくなってしまう。
そんな状態で十数秒を耐えたのち、始まりと同様に一瞬にして風と水の感覚が消え失せた。
「――――っぷはッ」
二人はともに眉をしかめ、自分の体に視線を下ろした。いましがたの感覚だけなら全身ぐっしょり濡れていてもおかしくないのだが、実際には彼らの体はしっとりと湿り気を帯びているといった程度だった。
「これであと四回かあ」
「まとめて来てくれたらだいぶ楽だよね」
今度の呟きには、返事があった。男子生徒はバケツを下ろし、ズボンのポケットからハンカチを取りだしていた。屋上の床面に接したバケツは、乾いた音を立てた。その中身はいま、すっかり空になっている。
「満足そうに帰っていくなあ」
恵人は空になったバケツを手にしたまま空を見上げていた。いましがた彼らを包んだ雲が空へと昇っていっているのが見える。
恵人は密かに思う。
計画を実行に移す時がとうとうやって来たのだ、と。
「落としてみせるぞ、そらもりさん」
射抜くような鋭い目で、遠ざかっていく雲を見た。
空を自由気ままに飛んでいるとそらもりさんの存在は、日本に住んでいるものにとっては当たり前のものであった。皆、幼い頃に教えられて自然と受け入れるもの。各地方に存在しているそれらは共通してそらもりさんと呼ばれている。
そらもりさんは遥か昔から存在していた。大昔の文献にも記述があり、気象に関係する神の一種として崇められ、人間との間に定期的に供物を捧げられるような関係を築いていたらしい。しかしそれから近代に至るまでの間に科学とオカルトの両面から様々に探られたことで、これらのそらもりさんの正体は判然しないものの信仰心だけが薄れる結果となった。いまとなってはそらもりさんは害を為すでも益をもたらすでもなくただそこに存在しているだけのものだという認識が一般的となり、一応守り神という認識自体は健在なものの、それもほとんど形だけのものでしかなくなっていた。人々にとってそらもりさんはそんな曖昧で不確かな存在なのだ。
そんなそらもりさんと人間の関係は極めて希薄なものだが、一部の者だけは直接的な接触を行うことがある。それは、供物を捧げる者たちである。供物といっても、捧げるものはバケツに入れたただの水。湧水だとかではなく単なる水道水であり、この行為は一般的にも給水と呼ばれている。指定された学校の生徒が水の入ったバケツを持って屋上に立ち、それをそらもりさんが飲み干す。それが給水であり、人間がそらもりさんと直接触れ合う唯一の機会なのだ。この給水を担う人間はそらもりさん給水係として毎年生徒たちの中から数名が選ばれるのだが、この係はどこの地域でもその特殊性とは裏腹に生徒からの人気のない役目だった。
しかし、そんな給水係に自ら志願する者がいた。それは、板橋恵人だった。とある地域のとある学校に通う高校二年生である彼は、自分が係になる日を待ち望んでいたのである。ある目的の達成のため、係になる必要があったのだ。
恵人は恵まれた人という自身の名前に反し、頭脳も身体能力もさして秀でた所のない人間である。音楽や絵画といった芸術面のセンスがあるでもなく、文章や言語分野での才能も特に見られない。平均的な男子高校生の域を出ない人間である。だがしかし、そんな彼にもひとつだけ恵まれた点があった。それは天性のもので、努力だけではなかなか磨けないもの。
板橋恵人は、優れた容姿を持っていた。黙っていれば美少女と見紛うほどの端正な顔立ち。髪が長めなこともあり、服装次第では性別を間違われることもなくはない。そんな容姿が彼にもたらされた恵みだった。
そして彼は、その恵みを最大限活用しようと考えていた。
授業の終わりを告げるチャイムを聞きながら、恵人は机の上に広がる教科書やノートをいそいそとしまった。時刻は昼。多くの男子高校生にとってお楽しみの昼食の時間である。
「お前、今日は当番だっけ?」
前の席の友人が振り返ってそう訊いてきた。恵人は頷き、答える。
「毎週水曜だから、そうだよ」
「えぇ~。恵人の可愛い顔を見ながら飯を食うという俺の楽しみがなくなっちゃうじゃん」
「気持ち悪いこと言うな」
「いやいや、誤解するなよ。俺のこれは恋愛とか性欲とかじゃないからな。飯を食べる時には綺麗な花が一輪置いてあった方が場が華やかになるっていう、そういう話だから」
「……それならよし!」
大きく頷き、恵人は不敵な笑みとともに言葉を続ける。
「オレの顔がいいのは周知の事実だからな。お前からの好意は受け入れがたいが、その事実については否定する理由がない」
「おぉ…………相変わらずの自信」
「オレの取り柄はそれだけだからな。それなりの自負があるんだよ」
言いながら、恵人は席を立った。
「じゃあ、オレはもう行くからな」
言いたいことだけを言って早々に話を切り上げある。さっさと友人に背を向けて、教室後ろにある棚からバッグを取りだし、そのまま廊下へ向かう。
「あれ?」
それを見た友人から、疑問の声。
「バッグごと持っていくのか? いつもは弁当だけ出してバッグは置いていくのに」
「ちょっと、な」
不思議がる友人に適当な返事をして、恵人は教室を出た。目指す先は屋上だ。
教室から湧いて出た生徒たちの間を縫うようにしてすり抜け、階段を一段飛ばしで上っていけば、屋上に辿りつくのはすぐだった。扉は施錠されていないので誰でも自由に入ることができるが、昼休みだけは係の者以外立ち入り禁止になっている。
昼休みにこうしてここにくるのはこれで三度目。恵人は屋上へ続く扉のノブに手をかけ、小さく息を吐いた。それは、これからやろうとしていることに対する緊張を緩和させるため。
「やるぞ」
声にならないぐらいの掠れた声とともに、恵人は扉を開いた。少しひんやりとした風が体を正面から打ちつける。四月が半ばを過ぎても、日陰であれば少しばかり寒さを感じる気候である。恵人は風を浴びながら屋上へ踏み出す。
太陽は真上に昇っており、何も遮るもののない屋上は一面日の光に照らされている。冷たい風を浴びる中、日光の下に体を晒せば暖かさを感じられる。
ぽかぽかとした心地に自然と頬を緩ませていると、
「――やあ」
右手側から声をかけられた。見ればそこには、壁に背中を預けて座り込み、文庫本を読んでいる男子生徒の姿があった。坊主頭で眼鏡をかけた、恵人とは対照的な外見をしている彼は水曜日の給水係である三谷だ。
三谷の目の前にはすでに水の入ったバケツが二つ置いてあった。
「早いな。すぐに教室を出たつもりだったんだけど」
「早めに授業が終わったからね。ついさっき水を汲み終えたところだよ」
三谷は文庫本から顔を上げることはせずに答える。
恵人はそれ以上言葉を交わさず、三谷から少し離れた壁際にバッグを置いた。そして一旦屋上から校舎の中へと戻る。階段を降りてすぐ傍にあるトイレに入り、洗面台の下からバケツを取りだして水を入れる。満杯になったらそれを持ってまた屋上へと戻る。
恵人はバッグの傍にバケツを置き、立ったまま壁に背中をもたれかけさせ一息ついた。
給水係の仕事は、昼休みにバケツに入った水をそらもりさんに与えることである。二年生の各クラスから一人が係に選ばれ、二人ずつひとつの曜日を担当することになる。五組である恵人と六組である三谷は水曜日の担当だ。実際にやることは簡単で、そらもりさんが屋上に向かって下りてきた時に、水をいっぱいに入れたバケツを持って屋上のど真ん中に立っていればいい。そうすればそらもりさんが勝手にバケツの中の水を飲み干していくのだ。
ただし、そらもりさんが一日に飲む水の量はおよそバケツ二十杯分なのだが、それを連続で飲んでくれるというわけではない。その日その日で飲むペースにはばらつきがあり、一回目を飲んだ後で二十分ぐらいまったく下りてこないこともあれば、バケツに水を入れているのを空で待っていて、屋上に出てきたと見るやすぐさま下りてくる時だってある。だから係になった生徒は昼休みの間中屋上で水を用意して待機していなければならないのだ。
週に一度とはいえ昼休みを完全に拘束されてしまうような係が生徒たちに喜んで受け入れられるわけもなく、獣係は人気がなく押し付け合いになるのが定番だ。だから恵人のような自ら望んで係になる人間は極めて少数派の部類に入る。
給水係の相方となる三谷の方も、ことさら進んで係になったようには見えない。昼休みの間は黙々と文庫本を読んでいて、獣が下りてきたらこれまた黙々とバケツを持って立ち、終わったら水を入れに行く。すべてにおいて淡々とこなしているという印象だった。ただ、係に対しての不満や愚痴を言うこともなく、それほど係を嫌がっているようにも見えない。恵人と三谷は係になるまでに面識がなく、係になってからもそれほど会話をしていないので互いのことについてはあまり知らない間柄だ。先ほどのようにあいさつ程度は交わすものの、それ以後は会話を弾ませるなんてこともない。とはいえ、恵人にとっては計画の邪魔にさえならなければどんな態度や姿勢だろうが何の不都合もなかった。
そんなことを考えながら、恵人はおもむろに腰を下ろした。計画を実行に移す時が来た。今日はその記念すべき日になるのだ。
恵人は傍に置いていたバッグを開き、中を漁りだした。そして背中越しに三谷に一声かける。
「突然で意味わからないかもしれないけど、驚かせたらごめんな」
「へ?」
唐突過ぎる上に脈絡のない言葉に、当然疑問の声が返ってきたが、恵人はそれを気にせずバッグから目当てのものを手に掴んだ。勢いよくそれを取りだすと、ばさっ、と布が空気を打つ音がした。
恵人が取りだしたのは一着の服だった。
「なにそれ?」
続く三谷の問いかけに、恵人は無言でその服を見せることで答えとした。
「…………なにそれ」
一言一句同じだが、先ほどとは含んだ意味合いが異なる台詞。三谷の顔が訝しげなものになっている。
「見りゃわかるだろ。セーラー服だよ」
恵人はどこか自慢げに、笑みを浮かべてそう言った。その手にあるのは、言葉通りに夏用のセーラー服だった。
三谷は渋い顔をする。
「きみは窃盗の癖がある変態だったの?」
「違う。これは姉のものだし、性欲を満たすために持ち出したものじゃない」
「へー」
「おっ、信じてないな」
「いまのところ、危険な性癖を杜撰な言い訳で隠し通せると考えてる頭の弱い変態だという風に認識してるんだけど」
表情を変えずに三谷が言うと、
「同じ曜日の当番だし三谷にはどうせ言わないといけないから言うんだけどさ」
恵人の方も慌てたりへこんだりする様子もなく言葉を続ける。お互い一歩も譲歩する気配はない。
「なにを隠そうこれはオレが着るためのものなのだ。この美少女と見紛うほどに可愛い顔をしたオレが!」
恵人はセーラー服を自分の体に当て、高らかに言い放った。対する三谷は眉間に皺を刻んでそれを見る。
「変態の方向性が変わっただけじゃないか」
「まだ誤解があるな。オレがセーラー服を着るのには深い理由がある。決してただ女装がしたいってわけじゃないんだ」
「……ほう」
「オレは女装することで、そらもりさんを落として見せるんだ!」
「え?」
三谷が面食らった顔をした。
「落とすと言っても物理的にじゃないぞ。そらもりさんをオレにメロメロにさせて、玉の輿を狙う! それがオレの計画だ!」
「変態じゃなくて狂――」
「実を言うと、オレはこれといって才能のない人間なんだ」
恵人は勢いづき、三谷の言葉を遮り喋る。
「三谷はどうだ? これだけはそこらのやつに負けないっていうような才能だとか特技みたいなものがあるか?」
突然の問いかけに、三谷は首を横に振った。恵人はそれを確認してひとつ頷く。
「世の中そんなものだ。特別な何かを持っている人間なんてほとんどいない。少数派だ。オレもお前も多数派。嬉しくない多数派だ」
恵人は滔々と語り始めた。
「勉強ができるわけでもなく、知恵があって頭の回転が速いわけでもない。スポーツが上手いわけでもないし、格闘技ができるなんてこともない。絵は下手だし歌も人並み。それを自覚した時、オレは考えてしまったんだ。じゃあそんなオレの人生はどんなものになるんだろうか。このまま漫然と生きていたらきっとつまらないものになる。オレはきっと何も成すことなく平凡かそれ以下の人生を送ることになるんだ」
わかるか、と再度三谷に問いかける。そしてその返事を待たず、
「そんなものは嫌だ。願い下げだ。オレは何かを為したいし、面白おかしくいきたい。みみっちい人生は嫌なんだ。だから考えた。どうすれば望むような人生を送ることができるのか。去年一年間、いろいろなものに手を出し挑戦しながら考えに考え、そして一つの案を思いついた」
そこまで一息に言って、そこで一度言葉を止めた。一呼吸置き、真っ直ぐに三谷の目を見て、言う。
「そらもりさんを虜にして、その超自然的な力という後ろ盾を得てしまおう!」
「超自然的な力って、具体的にはなんなのさ」
「それはわからない!」
恵人は断言した。
「いわゆる神通力的なものかもしれないし、霊的なものかもしれないし、超能力的なものかもしれないし、単純に知能の底上げをしてくれるかもしれないし、不思議パワーで身体能力が人間離れするかもしれないし、もしかしたら読心術とか時間停止とか瞬間移動とかそういうものの可能性だってある」
「それって範囲が広くない?」
「とにかくそういう感じだったらなんでもいいから、それで問題なし。その力を使ってオレはこれからの人生を面白おかしく有意義に過ごすんだ」
「それ、希望的観測すぎるでしょ」
「その通りだ。だけどやってみる価値はある」
恵人はなおも断言する。三谷の常識的な疑問に怯む様子はない。当然だ。そんな疑問は自分自身の頭の中ですでに想定済み。わかったうえでやっているのだから、思い直すことなどない。
「だけど……女装して虜にするの?」
「その通り! 女装したオレの姿を見ればそらもりさんはあっという間に心を奪われるはず。そらもりさんに性別があるのかはわからないけど、昔の伝承とかに出てくる意思疎通の役目を持った巫女は全部女みたいだからきっと女好きだ」
「それは乱暴すぎる理屈でしょ。女好きだったらこの係だって女子がやるべきだし」
給水係は男子生徒に限られている。定説としては水の入ったバケツを運ぶ必要があるため力のある男子生徒がやるべきだということになっているが、
「それこそ女好きの証拠だ。下手にそらもりさんの前に女を出せば、それに見惚れてしまったそらもりさんがどんなことをしてしまうかわからない。オレみたいなことを考える女がいるかもしれないだろ。そんな危険を未然に防ぐために、いわば女人禁制みたいな状況になってるんだ」
「はあ……」
三谷は恵人の理屈に納得したのかしていないのか、とりあえず反論することはなかった。
「とにかく、そういうわけでオレはそらもりさんを落としてみせる。別に何か協力してもらおうとかそういうことはないけど一緒に係をやってる身だし、一応一言断っておこうと思ってな」
「……それは、やりたいんなら勝手にやってくれればいいよ。女装趣味の変態の妙なプレイに巻き込まれるんでもない限りは別に文句もないし。隣で変なことを始められたら嫌だけど」
「変なことなんてしないって。この格好でいつも通りに係の仕事をするだけだ」
「……それで虜にできるの?」
「できる。そらもりさんが水を飲むとき、オレたちは全身をそらもりさん包まれていて完全に無防備な状態だ。そんな状態の可憐な美少女を見つければ、虜になってしまうのは確実。きっとオレに愛の言葉の一つでも囁くことだろう」
「そうなるかな……」
「大昔は巫女的な人物がそらもりさんと意思の疎通ができていたわけだし、向こうからコンタクトを取ってくることは十分あり得る。というか、そうじゃないと困る。他に手段は考えてない」
「ええぇ……」
恵人の無謀な考えに、三谷は不満ありありの顔をする。
「だって仕方ないだろ。相手は空の上にいるわけのわからないもので、思考も習性も謎なんだから。これ以上有効な策はなし!」
「もうちょっと計画を練ろうよ」
「これ以上は無理だ。あとは実践あるのみ。やってみてから修正する方向で!」
「きみがそれでいいなら別に文句もないけどさ」
そう言いつつも三谷は呆れたような顔で恵人を見ていた。しかし恵人は折れない。自分の考えは間違ってはいないのだ。一歩先を行く者というのはなかなか周囲の人間からの理解を得られないものである。それにひたすら考えていたって良案が浮かぶとは限らない。物事はトライアンドエラーだ。実践を経ることで見えてくるものもある。
そうやって恵人が自分自身を納得させているうちに、三谷は再び文庫本の方に視線を戻していた。
これ以上の問答は不要だ。三谷から計画の実践の了解ももらったこととて、早速準備に取り掛かる必要がある。恵人はセーラー服をバッグの上に一旦置いて、いそいそと学ランのボタンを外し始めた。
ほぼ同時に、三谷がビクッと一瞬震えた。
「なに警戒してるんだよ。着替えるんだから当然いま着てるものは脱ぐだろ」
「いや、気にしないでほしい。もう驚かない。もう大丈夫」
早口でそう言って、三谷は恵人から目を逸らすようにして文庫本に視線を向けた。傍から見れば一心不乱に読みふけっているような態勢だが、恐らく意識の半分ぐらいは恵人の方へ向けられている。
恵人は学ランとその中に来ていたシャツを脱いだ。軽く畳んでバッグの中にしまい、セーラー服へと手を伸ばす。三谷の視線が強くなった気がするが、無視してセーラー服の袖に手を通す。さらにスカートを穿きズボンを脱げば、服装だけは女子生徒のものに早変わりだ。昨夜のうちに無駄毛の処理も完璧に済ませてある。
恵人は三谷の方に振り返り、
「どう? 可愛い?」
しなを作って問いかけた。
「まったく可愛くない」
そう断言し、三谷は文庫本に顔を戻した。
自分で訊ねておいてなんだが、恵人としてはそんな答えを貰うのは心外である。セーラー服姿の自分は可愛い。昨日鏡で見たから知っている。姉と母親からも太鼓判を貰った出来だ。まったく可愛くないなどという感想は世迷言といってもおかしくない。
しかしそこを気にしていても仕方がない。小事より大事。いまは集中するべきことがある。
恵人は空を見上げた。広がる青空に点々と浮かぶ白い雲。その中をゆらゆらと泳ぐそらもりさんの姿がある。こうやって見る限りは、少し変わった形をしていてなんだか素早く動いている気がするだけのただの雲だ。しかしそんな風に見せていながら、実は超自然的な力を持った偉大なる守り神。それがそらもりさん。
それはまるで物語の主人公のようだ。現代劇の主人公というのは一見そこらにいる一般人と変わらぬ風貌をしていながら、その実他社を圧倒できるだけの力を秘めているものである。それは恵人が自らもそうなりたいと望んでいる理想像でもある。誰にも負けない何か、自分の武器となる長所。それらの有無は、人の人生を大きく左右する。
恵人にはそれがわかっていた。そして、自分はそれを持たざるものだという自覚があった。だからやるしかないのだ。それを手に入れるため、恵人はそらもりさんを落とすしかない。
恵人はギュッと拳を握って空に突き出す。
「かかってこい!」
「……男らしすぎるでしょ」
「遠目だからセーフ!」
なんて事を言ったそばから、そらもりさんの挙動に変化が起きた。屋上の方に頭を向けながら、上下にうねる動作を始めたのだ。
「おおッ! 反応した!」
そらもりさんは大きくうねり、だんだん高度を下げてくる。恵人は素早くバケツに手を伸ばした。
「三谷、来るよ!」
「わかってるよ」
三谷も文庫本を置いて腰を上げ、バケツを持った。そして二人ともに屋上の中央まで足を進める。その動きを空の上から認識しているのか、そらもりさんは一気に速度を上げて降下してくる。
「ああ……」
自然と呟きが漏れた。
「とうとう……この時が来た。そう、来たんだ。この時が来た。オレの初めてが奪われる時。人を超越した神にこの身を蹂躙される時。引き換えに、オレは力を手に入れる。誰も手にしたことのない力。鎧袖一触。そこらの一般人なんて軽く蹴散らせるぐらいのとてつもない力を手に入れられるんだ」
「そのぶつぶつなにかを言うのは止めてほしいかな……!」
三谷は抗議の声を上げた。
「いやぁ、ごめんごめん。つい気持ちが昂っちゃってさ」
「その薄ら笑いも止めてくれると助かるかな」
「ホントごっめーん。てへっ」
「あぁ、それはそれでムカつくわ」
三谷の眉間に再び皺が寄ったところで、恵人はそらもりさんが屋上のすぐそばまで迫ってきているのを目の端で捉えた。すぐに視界はそらもりさんの姿でいっぱいになり、直後、周囲の景色がすべて白で塗り潰される。
「んッ……」
叩きつけるように体にぶつかる強い風。屋上への扉を開けた時のそれとは比べ物にならないその勢いに、自然と表情が歪む。
いけない。これでは駄目だ。
瞬時に思う。目を瞑った表情はこの場にふさわしくない。そんな顔では恵人の魅力が十分に伝わらなくなってしまう。目的のためにはこんな風圧に気圧されていてはいけないのだ。
恵人は目を見開く。力を入れてはならない。ぎょろりとした鋭い目つき、血走った目では意味がない。それは目以外も同じことだ。腕も足も、男らしく踏ん張ってはならない。この状況下でも女性として自然な立ち姿を維持する。吹き付ける風に健気に耐える儚げで頼りない少女を装うのだ。
どうにか開いたその両目には、しかし白い靄しか映らない。一メートル先はおろか眼前十センチ先だって見えやしない。そらもりさんが屋上を通過しているときは、風は強いわ視界は奪われるわで係の生徒の動きは完全に封じられていると言っても過言ではない。こんな状態になるからこそ、とにかく女装して向こうが惚れてくれるのを待つという受け身の態勢に出ざるを得ないのだ。
「……ッく」
そうやって必死に表情と体勢を維持し続ける中、恵人は妙な音に気づいた。それは低く重いモーターのような音。それほど大きなものではないが、耳の傍を吹き抜けていく風の音に混じって確かに聞こえてきた。いままで聞いたこともない音。それに気を取られている内、風は急速に勢いを弱め始めた。そらもりさんが屋上を通り終える。その事実に、改めて自分の立ち姿に意識を戻す恵人だったが、数秒と経たぬ間に風と白い靄は消え去った。
そして視界が開けたその時、再び抑揚のない低音が恵人の耳に届いてきた。
「いまのは……?」
呟きは自然と漏れた。給水係をする際に気を付けるべきこととかやっておいた方がいいことなど、実際に係についた生徒からのアドバイスというのは、生徒たちの間でも知識としてあらかた共有されている。計画を企てている恵人は当然そんな情報の類はしっかりと集めていたのだが、得たものの中に音に関する情報などなかった。
あれはなんだったのか。断定することは難しいが、恵人にはいまの音があるものに聞こえていた。
「なあ、音って聞こえた?」
そばに立つ三谷へ問う。
「え? 急になに?」
バケツを下ろし自分の首元を手で拭っていた三谷は、虚を突かれた様子で答える。
「音なんて聞こえなかったよ。風の音しかしないし、校舎の中の声だってほとんど聞こえないもん」
「わからなかったか……」
「それより、一回目は終わったけどどうだった? なにかいい結果は得られたの? 見た目はなにも変化ないみたいだけど」
恵人の頭のてっぺんからつま先までをくまなく見て、三谷はそう言った。恵人は持っていたバケツを下ろして改めて自分の体を見たが、そらもりさんが来る前と変わっているといえば少し湿っているというだけで、他に変わりはなかった。内面的にも、精神と肉体のどちらにも変化は感じられない。
「その様子だと失敗ってことだね。やっぱりその方法じゃ無理があったんじゃないの?」
「失敗だったってのは確かにそうけど、方法に無理があったっていうのは違うかな。いまのは少し手落ちがあっただけで、それを改善できれば計画は達成できる」
恵人は毅然とした態度でそう言った。
「無理がないって、根拠はあるの? ただの希望的観測じゃなくて?」
「お前は聞こえなかったって言ったけど、さっきオレはそらもりさんの中で低く重いなにかの音を聞いた。唸り声のような音をな」
「唸り声? それってまさか、そらもりさんの声ってこと?」
三谷は目を見開いた。現代に生きる人間でそらもりさんの声を聞いたことのある者など存在しない。それを三谷も知識として知っているのだ。
「断定はできないが、オレはそう判断した。あれはそらもりさんの声、しかも唸り声だった。ただし威嚇目的の攻撃的なものとかじゃなく、悩んでいる時に思わず出てしまった唸り」
「唸りねえ……」
「そらもりさんは今回に限って頭を悩ませていたんだ。それは何故かわかるか?」
答えを返す代わりに、三谷の顔には困惑の表情。
「なにに頭を悩ませていたかといえば、それは簡単なことだ。そらもりさんはいつもどおりに屋上に水を飲みにやってきたが、なんとそこには可憐な美少女が立っていた。そこでそらもりさんは美少女を見た。じっくり見た。水を飲むその時間で品定めをしたんだ」
「なんでそんなことを?」
「自分の好みに合うか確認したんだろ。なにせ神の一種なんて言われるような存在だ。女の好みだって五月蝿いだろうさ。だからしっかり見ていたんだ。唸るぐらいにしっかり、念入りに。そしてその結果、残念ながらオレの女装姿はそらもりさんから及第点を貰えなかった。ただし、去り際に一声唸っていったのを踏まえると、いい線いってたけど惜しくも残念、って感じだったというのが予想できる」
恵人の説明を聞いて、三谷の目に疑いの色がありありと浮かんだ。いま恵人がぺらぺらと喋ったことはすべてただの想像だ。音の正体もその理由も推測の域をまったく出ていないもので、信憑性は高くない。
しかし、恵人は自分の考えを信じていた。
「残念ながら証拠はないしオレの勝手な想像でしかないけど、ともかく、そういうわけで方法自体は失敗じゃないってこと。改善すれば万事よし」
そう言って、恵人は再び笑みを見せた。そこには一切の迷いや懸念はなく相変わらずの美少女然とした可愛らしさがあったものの、それを向けられた三谷の方は疑いの表情を見せ続けていた。