たまの安息を
作戦会議を終え一旦家に帰ってくると、ケイトはソファに飛び乗り伸びる。そこへ、シンクがコップに水を入れ歩み寄ってきた。
ソファの肘掛けの部分に軽く腰を落とし、ケイトに水を渡す。
「…ん。」
言葉もなく渡されたコップを、こちらも言葉なく受け取ると半分ほどを一気に飲む。
そしてまだ水の残るコップをシンクに返し、その残りはシンクの口の中へ消えていった。
「上手くいくかな…?」
シンクは珍しくかなり弱気な相棒に少し驚き、それでも頭をポンポンとすると
「上手くいかせるさ。」
と笑ってみせた。
「そういえばね、この間、亜細亜座に行った時さ夜の部も行ったじゃん?」
「あぁ夕方に見たいものがあるからっつって夜遅くに帰ってきた時か。」
「そう。あの日ね、ジェスターを観に行ったんじゃないんだ。」
ケイトの唐突な話にもシンクは適度に相槌を打ち、仰向けで寝転がる頭からふわりと広がる綺麗な白髪に視線を沿わせる。
「本当はね、"能"っていうのを観に行ったの。」
「あぁ、能か。」
「知ってるの?」
「旧日本でやられていた伝統芸能だろ?内容は仏教布教を含むものが多いが、中には少しのアイロニーを交えたものもある。…だが、疲れてる時に見にいくのにはオススメしないな。」
「ははは…確かに‼︎あれは寝てしまっては勿体無いからね。」
ケイトはそこでソファの背もたれを器用に倒し、広めのベッドのようにする。そしてそのままよこに転がってうつ伏せから頬杖をつく。
シンクは肘掛けも倒すと、さっきまでケイトがいたところに腰掛け、仰向けになった。
こう見ると、2人はすごく対照的な雰囲気がある。
「能を見たって謡曲はなんだったんだ。」
「うーん?えっと…安達ヶ原?黒塚ってったっけな。」
「どっちとも言うな。安達ヶ原か、あれは嫌いじゃない。」
「え、見たことあるの?」
「見たことも読んだこともある。」
「あれさ、なんか釈然としないよね。」
「まぁな…でもその"なんか釈然としない"ことが重要なんじゃないか?」
「そういうもんかなぁ…」
2人で家にいると、大概いつもこんな感じでのんびりゆったりと時間が過ぎていく。
ある時は書物の話で、ある時は映画の話で、ある時は伝統の話で……どれも旧時代の失われたもの。
シンクが一旦立ち上がると窓を開ける。春の優しい風が部屋に入ってくる。
ここらへんは良い。もっと戦闘指定地区近くだと、風の香にすら鉄と血の匂いが混じる。あれはいただけない。
その香りから逃げて人は閉じこもり、結果鬱屈とした感情が募り、それが新たな戦争への動力となる。負のループ、でもそのループによってトラストルノの経済は回されている。
「なんか、SFものの話が聞きたいな。話してよ。」
「お前はいくつまで俺に読み聞かせさせるつもりだ。」
「いくつになっても、さ。」
シンクは本棚から一冊の本を取り、ソファに戻るとそれを朗々と読み始める。シンクの低くて落ち着いた声音で語られるそれは、ケイトの耳元をふわりと撫でる風と共に、ゆったり流れていった。
この辺りで1番大きな無法地帯であるウォールストリートは、どこにいってもその活気が失せることがない。強いていえば裏通り、だが裏通りに入ることなど大概の人間はしない。
言うまでもなく、犯罪の巣窟だからである。
「あれ、鈴ちゃんじゃねぇか‼︎これ持ってけ‼︎形崩れちまったんだよ‼︎」
独特な訛りのある日語で声を掛けられる。"肉サンド"という肉で様々な野菜を挟む、という名前も見た目も豪快な料理を提供する人気屋台"九重"の主人である。
「いいの?」
「おう、いいよ‼︎鶏肉のと豚のが崩れちまったのあってよぅ。あれ、今日は連れの…あの白いにいちゃんはいねぇのかぃ?」
「えぇ、今日は1人なの。」
そういうと、主人は少し残念そうにする。
ケイトは素からの褒め上手で、さらにその繊細な見た目も相まって老若男女問わず、このウォールストリートの人気者だった。
ジェスターも"亜細亜座の姫"とかなんとか言われて人気だが、ケイトの方がウケがいいようで。
「今度は連れてきますね。」
ジェスターが微笑みつつ言うと、主人はぱぁっと嬉しそうにしながら、ふた袋分の品物をジェスターの手に押し付ける。
「おう‼︎またサービスしてやっからって言っといてくれや‼︎これな、こっちが豚の照り焼きで夏野菜挟んだやつな‼︎んでこっちが鶏肉で水菜とか挟んでハーブとレモンで味付けしたやつ‼︎」
「これ、形崩れてない…」
「いや、内側がちと身崩れしてんのよ‼︎いいから食ってくれって‼︎な‼︎」
ここの屋台の人々は無愛想な人やぼったくろうとする輩もいるが、基本的には明るく優しい。
「ありがとう。」
お礼を言って、先に進んでいく。豚肉の方は照り焼きの甘みが強いので、子供達から人気があるのも頷ける。鶏肉の方はさっぱりしていて女性人気が高い。
意外にも大食いなジェスターはペロリと食べきってしまう。
「あれ?」
食べるとのどが渇いたので、贔屓のお茶屋で冷たい烏龍茶を買おうといつも店を出しているあたりまで来たが、見当たらない。横の中華まん屋とガラス細工屋はあるのに、間にあるのは初見の鞄屋…
「ねぇ、ねぇ楊さん‼︎ここにあったお茶屋さんは?」
ガラス細工屋の女主人に声をかけると、ジェスターの姿に気づいた彼女は嬉しそうに近づいてきた。しかしお茶屋のことを聞くと、悔しそうに俯いてしまう。
「何かあったの?」
「なにもなんも…1ヶ月くらい前かね、屋台の内外に置いてた茶瓶をさぁ…ほんの数分店離れてるうちに盗まれちまってねぇ…」
そこまで言うと女主人はきっと顔を上げ、捲したてるように話しだした。
「挙句に次の日には店燃やされちまったのさ‼︎‼︎たまたま虫の知らせっていうのかねぇ…茶屋のご主人がさぁ、その日はちと早めに開店準備しに来たんだよ、そいですぐに火ぃとめるようにしたからってね、他の店には火がこなかったわけよ‼︎」
「火って…」
「でもそんな問題じゃないだろ⁉︎なんだって火ぃなんてつける必要あったんだぃ⁉︎あれは事故だ、なんてここ通った"紅楼"の連中は言ってやがったけどさ、んな訳あるかい‼︎あいつらが火をつけたんだよ‼︎」
「なんでそう思うの?」
「あの主人のところに"紅楼"の連中から召集の紙が来てたんだとよ…あぁそうさクズ紙がだよ‼︎でもさ、あれは別に強制じゃねぇからってあの人は店頑張ってたのに…こうなっちまったらもう生計たてられねぇからって…」
「え、戦闘員として行ってしまったの?」
「そうよぉ…」
女主人はついに泣き出してしまった。
代理戦争組織の連中ならやりかねないとは思う。しかしそこまでやり過ぎたことをするだろうか…?
それともそこまで人が必要なほど切羽詰っているのか。
「そう…お茶、飲みたかったな…」
茶屋の主人のことは、お茶を入れるのがすごく上手くて、でも普段はあんまり喋らずただニコニコしているばかりの初老の男性というくらいしか知らない。
それでも、その"お茶が旨い"ということがとても重要なことだと思うのだ。
「あぁ、でもね、常連の人が来たらこれだけは盗られずに残ってたから淹れてやってくれって任されたのよ。」
女主人は奥から綺麗に磨かれた茶瓶を取ってきた。おそらくは外側を上手い具合に磨いたのだろう、さすがガラス職人である。
「これね、ジャスミンだそうなの。どう?私の淹れ方じゃああそこまで美味しくはならないだろうけど…」
「ありがたいわ、いただきます。」
「ちょっと待ってね…………はい、どうぞ。」
女主人はガラスのポッドで上手い具合にお茶を淹れる。そしてジェスターの方へ差し出した。
「ありがとう。」
ジェスターが口に含むと、一気に甘く優しい風味が広がる。少し主人よりも薄めになってはいるが、今はその薄さがちょうどよく感じる。
「鈴ちゃん…鈴ちゃんは居なくならないでちょうだいね…」
思わず呟かれた言葉に、ジェスターは応えるでもなく、泣く女主人の背中をゆっくりさすっていた。
出来ない約束は、より傷つけるだけ。
私はいなくならないとは………