もどかしい担い手
ティト・コルチコフから名影零に連絡があったのは、彼女が行方をくらませて、もう何日も経った頃だった。
彼女にしては珍しく、憔悴しきった声で名影に「戻ってもいいか」とだけ聞いてきた。
「えぇ、もちろん。」
「それじゃあ…明後日頃に帰るわ。」
帰るという表現が殊更に引っかかる。
嫌な引っかかりではない。
嬉しいような、むず痒いような……
名影はティトの帰還をとりあえず恩にだけ伝え、それから方々に連絡をとる。
情報収集のために、名影はあちこちに"友人"を作った。
ティトの帰還も実は事前に知っていた。
しかし情報収集の主な目的はもちろんクラスメイトの監視などではない。
SOUPが不穏な動きを見せている。
それに対して、トラストルノ外の、つまり旧アメリカ大陸に位置する、唯一の平和的地域がなんらかの行動を起こしてくると考えられている。
むろん、各カンパニーもこれに反応し、早くも動きを見せている。
小さなカンパニーは四大カンパニーに吸収され、兵の招集もあちこちで行われている。現に名影までも戦争に駆り出されているのだし。
気になるのは大戦の予感だけではない。
研究島から脱出したと情報が入っている、"レベルE"のこと……むしろこちらの方が余程恐ろしいかもしれない。
いくつもの"脅威"が私達に迫っている。
でも……
昨夜、名影は1人で出掛けた。
無法地帯はいつも通りにぎわい、そして混沌としていた。
人、人、人、ひと、ヒト………人の群れ。
たとえば、この只中に爆弾が落ちたら。
たとえば、この只中にレベルEがやってきたら。
この営みは噴霧の如く瓦解するのだろうか。
無法地帯の中心地を少し抜けたところに、名影の目的の場所はあった。
亜細亜座。
今日は例の彼女が出る日。
情報源は彼女にいつも付いて回っている女の子。
「顔が似ているのには特別なワケがあるのだけれど…私は彼女の、鈴さんの噺が大好きなの。でも鈴さんは私をあまり好いてくださっていなくて…でも好きなものは好きだから聞きにきたいのよ。このことは内緒ね?」
そういうと、やたらに大好きな先輩を褒められたのが嬉しかったのか、クスクスと笑いながら了承してくれた。
さらに
「私、実は学校を抜けて来ないといけなくて…あんまり来られないから、もし良かったら鈴さんの出る日に教えてくださる?」
女の子は優しかった。
教えるのも本当はいけないのだけど…と念を押し、しかし笑顔で了承してくれた。
優しさに漬け込むようで気が引けないでも無かったが、やむを得まい。
私は善人じゃない。
死神に会って話をする。
自分が戦場に出る間に、ある人の殺害を彼女にやらせたい。
そのためにジェスターの過去を出来るだけ詳細に調べ、彼女に会える機会も伺い続けた。
紅楼が南地区あたりでミサイルの類が準備され始めているのを確認したというし、レベルEに関しては体内癒着型のGPSが、研究島の某所で見つかったという。
あちこちで問題が山積みだ。
でも、その諸問題に対してPEPEの首席が出来ることなんてそう無い。
SOUPにこの声は届かない。
城下の人々は興味がない。
無関心ゆえに動かない。
奮起させて、革命を起こせたとして。
その後に統治する組織が現れれば結局また同じことだろう。
戦場に向かう前に為すべきこと為さなくては。
民衆を皆救うなんて大層なことは考えていない。
せめてクラスメイトだけでも……
名影は人の波にもまれて、亜細亜座の劇場の、殊更に混沌とした腹の中へと入って行く。