パンドラの匣 X
「燈?どうしたの?」
あれは亜細亜座もそこそこ人気が出てきた頃だったろうか。
戸口にずぶ濡れで放心している燈の姿を見つけて、私は兎にも角にも傘を持って駆け寄った。
私の姿を見つけると、燈は急にぎゅっと抱きしめてくる。燈もそんなに背が高い訳ではないから、ちょうど頭が肩に乗り、吐息が首元に当たる。
「泣いてるの…?」
そう聞けば、燈は首を振る。
それでもしばらくの間、私の体温で暖まろうとするかのように抱きしめ続け、そして離れると微かに微笑んで鼻声で謝ってくる。
「ごめんな。」
…なにが?
とは聞けなかった。なんとなく、聞いてはいけない気がした。
燈の独特な灰色の瞳が、濡れて雨空のようになっている。
その夜、燈は自分の布団に私を呼んだ。「隣にいて」と頼む様子があまりに寂しげで、私は不安になってしまう。
「鈴……鈴はさ……」
燈は言葉をそこで切ってしまう。聞きたいことが聞けずにもどかしんでいるように感じた。
「どうしたの?私がなに?」
「鈴は…俺のこと…その……どう思ってる?」
私は一瞬本当のことを言うべきか、それともありきたりな返事をすべきか迷った。でも、ここで正直に言わなければ、燈がどこかに行ってしまうような気がして、私は意を決して本心を口にした。
「大好き。燈自身も、燈のやるお噺も、全部大好き。本当に大好き。」
そういうと、さっきまで背中を向けていた燈がこちらを向いて、またぎゅっと抱きついてくる。
「俺、灰眼種だよ?」
「…?関係ないよ?たかだか目の色一つで…それに私は燈の灰色の瞳も大好きだよ。」
そこまで言って、私は燈が震えているのに気づいた。
「俺も……鈴のこと、好き。大好きだ。」
「‼︎…嬉しい、ありがとう。」
本当に嬉しかった。なにがあったかは知らないけれど、1番仲良しできっと好きになってもらうんだって思っていたけれど、いざ言葉にして言われると、本当に嬉しかった。
「鈴…?なにがあっても俺を信じて、俺を好きでいて…俺を…忘れないで。」
「?…うん、もちろんだよ。」
その後の十日間くらいは、本当に幸せだった。燈は今まで以上に私のそばに居てくれたし、燈自身にも笑顔が戻って、みんなとも楽しく過ごして…
それなのに、10日が経った頃、突然カンパニーだかSOUPだかの兵士数名が私達の家に押し入ってきた。
「おい‼︎強姦魔の灰眼種はどこだ‼︎」
「なにごと⁉︎」
玄関先で兵士達と対峙した秀にぃとあずねぇは驚きつつも、連中を家内にはいれまいとする。
私はそんなことよりも…「強姦魔」の「灰眼種」という言葉に気をとられる。だって亜細亜座に灰眼種は1人だけだ。
燈がそんなことするわけない。
「やめろ‼︎灰眼種はここには俺だけだ。でも俺は強姦なんてしたことない、帰れよ。」
燈はその兵士達を睨みつけながら言い切る。私はほっとした。燈がそんなことするわけないもの。
でも兵士達は違った。
「嘘つきのクソッタレが‼︎話は兵舎に行って、被害者の前でするがいい‼︎灰眼種の分際で‼︎」
そう喚き散らしながら、燈を無理やり連れて行こうとする。叫ぶ言葉の品の無さから、下級兵士だろうとは思うがカンパニーかSOUPかその権力の後ろ盾があることにいい気になっているようだ。
「燈から離れて‼︎‼︎」
私は、とにかく必死でそいつらを燈から引き剥がそうとした。でもその時の私は、戦闘なんてしたこともないし、非力だった。
突き飛ばされた私を見て、燈は「大丈夫だから‼︎」とニカッと笑って見せて…そして連れて行かれてしまった。
結局帰ってきたのは、5日後…
土砂降りの雨の日。
ぞんざいに家先に捨てられた布にくるまれて。
燈は帰ってきた。
布を1番に見つけたのは私だった。見覚えのある、兵士達を乗せた車が家の前に止まるのを見つけて、文句をつけてやろうと思った直後に、そいつらが荷台からぞんざいに何かを投げ捨てたのが見えたのだ。
その布からわずかに覗いた手。扇子を綺麗に持って、噺に合わせて降ったり開いたりしていた手。
その手には爪が無い…
「燈………?」
とにかく、寒いだろうと、家の中に運ぶといずとかずがぎょっとして他の人達を呼んでくる。
私は周りなんて気にせずに燈の部屋に運ぶと、布を丁寧に取っていく。露わになるごとにその余りにも変わり果てた姿に私の中の何かがゆっくり崩れていくように感じた。
崩れて、このまま燈と一緒に消えてしまえればいいのに…とも思った。
私は信じ続けて、真実を求めた。
結局、強姦魔なんかじゃなかった。それは女を探して聞き出した。兵士は見つけたが、まだ殺していない。
女はその場で、斬り刻んで捨ててやった。
女はカンパニーに親が居て、SOUPの構成員と結婚していた。だが、亜細亜座の常連の1人でもあって…燈に惚れていたらしい。
無理やり事に運んだのは女の方だった。
「だって子供が欲しかったんだもの。でも殺さないで、って言ったのよ?それなのに…酷いわ。私の彼を殺すなんて。」
「あなたの…?」
こんな屑のせいで…燈はあんな…
本当はそこに居た赤子も殺してやろうと思った。あの女に似た赤毛がイラつく。でも…赤子の灰色の瞳が……
結局その子供は、今も生きている。
私達の見せかけの王座に座っている。
あの日、布の中から出てきたのはあちこちが腫れて、固まった血によって赤黒く染まった大好きな人の姿だった。
他のみんなが泣いたり、怒ったりしている中で、私だけは、ただただ燈を見ていた。
燈も私を見ていた。いつもよりも虚ろな、灰色の瞳で。
私は絶対に忘れない。
大丈夫よ。絶対に…絶対に忘れないから。
そして今に、全部消し去って、私も燈に会いに行くから…待ってて。
もうじき雨が降る。
雨と一緒に、燈の子供が連れてくるわ。
白い天使をね。
私は、忘れないわ。