パンドラの匣
崩れた建物や、人々の混乱を目の当たりにして、鈴の中で何かが溢れて身体を満たしていった。
そのせいか、その夜は懐かしい夢を見た。
あの時…なにから逃げていたのかはあまり思い出せないが、年齢は5歳かそのくらいだったような気がする。
「おい、大丈夫か?」
雨の中で空腹や寒さ、そしてなにより全身のあちこちに出来た大小様々の傷のせいで、蹲った名も無い少女は死にかけていた。
そこに突然数名の集団が通り、その中の1人が声をかけてくれたのだ。
忘れられない。優しい声と、掛けてくれた外套の温かさと、格好良い笑顔……一目惚れだった。
彼等の家は離れつきの平屋。自分達で建てたというその家は立派な、いわゆる日本家屋であった。
そのまま少女は一室に連れて行かれると、外套を掛けてくれた少年によって準備された温かいタオルで身体を拭き、それが終わると怪我の処置をされた。
「すごい…‼︎」
「うん?そうか?えへへ、俺こういうの得意でさ、ここでは俺がお医者さんだぜ。」
得意げな少年の様子に少女はポゥと頬を赤らめながら笑った。
それを見て今度は少年の方がボッと赤くなる。
「ま…まぁ、そんなに大した怪我じゃないから‼︎他に痛いところとかあるか?」
「うーん…頭が…痛い。」
「あぁ、それは風邪かもな。いま布団敷いてやるから待ってな。」
少年はテキパキと布団を敷くと、そこに寝るように促す。
少女は何故かそれを躊躇い、そして少年に心底不思議そうに聞いた。
「なんで私を助けてくれるの?嬉しい…でも私、なにも返せるもの持ってないよ?」
「?そんなの別に……」
ガラッ
「んぉっ⁉︎わりぃわりぃ…でもいきなり怪我人を襲うなよ燈。」
少年がなにか言いかけたところで襖がスッと開かれ、縁側からびっくりするくらいの美青年が顔を覗かせた。
「いや襲わねぇよ‼︎」
少年がそう言うと青年の方はニヤニヤしながら少年と少女を交互に見る。
「戸惑うところがより怪しい…ま、いいや梓が軽く自己紹介して欲しいってよ。」
「今日は無理だ、熱があるみたいだし…明日少し治ってたら話をしてもらえばいいだろ。」
「ふーん…へいへい献身的なこって。」
相変わらずニヤニヤしながらその人は楽しそうに返事する。
「お嬢さん、燈に襲われそうになったら叫べよ。じゃおやすみ。」
わぁ…
最後に綺麗なウインクをして襖を閉めた青年の、あまりにも慣れた余裕感と格好良さに少女は思わず感心してしまった。
その様子を見て、少年は「あの人は付き合ってる人がいる」と何故か聞いてもいないことを二、三度繰り返した。
布団に入ると、疲れがどっと出てきて、少年の優しい手の振動と合わさりすぐに寝てしまった。
「おはよう。おーい、起きろー。」
翌朝、少女は美青年によって起こされた。
昨日のことを思い出すのに時間がかかり、困惑していると、美青年が部屋を出て行きざま、少女の隣を指差しまたウインクで言った。
「そいつ、起こしてやって。」
ウインクは癖かな?などと考えながら自分の左隣を見ると、昨日の少年が丸くなって寝ている。寒かったのか、足だけは布団の中に突っ込んでいる。
「あ、あのー……起き、てください…」
「うー…ん…」
あ…顔冷たい。私が布団に寝たからだ…
少女は慌てて自分の寝起きの温かい手で少年の頬を挟む。
「ん…ん?」
その時、少年がバチっと目を覚まし、2人はしばしびっくり顔で互いに見つめあう。
「う…あの、お、おはようございます。」
「え…あ、うん。おはよう。」
「あら、おはよー‼︎」
結局なんだか気まずさを感じながら、少年に連れられて少女は広い部屋にやってきた。
そこでは美味しそうないい匂いが充満している。
少女は無遠慮にお腹がならないようにと、意識を集中する。
部屋には男女合わせて6人居た。少年と少女を合わせて8人になる。
「と、とりあえずここに…座って。」
「は…はい。」
少女は少年の横に座る。するとその横になんだかかっこいい少女が座った。
「おはよう‼︎燈に変な事されなかった?」
「だからなんでみんなそういうこと言うんだよ‼︎してねぇよ‼︎」
「挙動不審なんだもの怪しいわー。」
「怪しくねぇ‼︎」
少女を挟んで2人が言い争いをしていると、上座に座った雰囲気のある美女が手をぱんっと打ちその場が一瞬にして静かになる。
そして他の人達もぱんっと手を合わせる。少女も慌てて手をあわせると…
「いただきます‼︎」
美女と全員の復唱。そしてみんな一斉に自分の前にあるご飯や真ん中に縦列で置かれたおかず類を食べていく。
「ほらほら、どうぞ‼︎食べて‼︎」
かっこいい少女から勧められ、おずおずと箸を伸ばす。そして口に入れると…
「……‼︎」
何かを食べて感動したことなんて無い。しかし、この食卓に並べられた料理からは単調ではない、豊かな匂いと、そして期待を裏切らない…むしろそれ以上に優しくてあったかい味がする。
涙が思わず出てきてしまい、少女はゴシゴシと袖で涙を拭いながら、次のおかずに手を伸ばす。
これも美味しい、これも、これも‼︎
ご飯も甘みがあって、ほっとする味。
じんわりと温かさが全身の細部にまで染みていくのが分かる。
「じゃあ食事も終わったようだし、新しい仲間を紹介するわね。」
上座に座った美女はそう言うと、少女に手で立つように促す。
「彼女は、昨日燈が見つけて拾ってきた子なの。泉と霞は居なかったから知らないでしょう。えっと…あなた、お名前は?」
少女は名前を聞かれて戸惑う。
「あ…あの、えっと…名前…がわからない…です。」
てっきり侮蔑の目で見られると思っていた。が、美女はふわりと微笑むと「じゃあ貴女にも私が名前をつけてあげるわ‼︎」と言い、しばし熟考し始めた。
「あなた、すごい綺麗な声をしているわよね。それから目がとても繊細な感じがして素敵。……うーんそうね…綺でもちょっと違うし…」
周りの人達まで一緒に名前を考え始める。
すると、少年がこの時を待っていましたとばかりに、手を挙げた。
「はい、燈。」
「俺は…鈴って名前が良いと思う。鈴が鳴るみたいな綺麗な声だし、それに透き通る感じがある。」
「あらいいじゃない。思い入れが凄まじい気はするけれど…ふふふ、まぁ素敵な名前でいいと思うわ。あなたはどう?鈴って名前。名乗りたい?」
少女は一瞬何を聞かれているのかわからないという風にキョロキョロしていたけれど、やがて自分に名前について聞いているのだと理解し、大きく頷いた。
「そう。じゃあ名前決まり‼︎
私達の自己紹介もするとして、なにがともあれ…」
「「「ようこそ‼︎鈴、これからどうぞよろしく‼︎」」」
思えばこれが本当に、鈴という人間が確立した時かもしれない。
懐かしきあの日々の夢はまだ終わらない。