第97章ー転進
滝川充太郎少佐の死は、海兵隊に様々な波紋を巻き起こした。ここに海兵隊は戦時において編成された4個大隊の大隊長の半数を失ったのである。更に戊辰戦争以来の歴戦の軍人を古屋佐久左衛門少佐に続いて、またも失ったことにもなる。戊辰戦争で自らが戦ったことがある者、父や兄といった親族が戊辰戦争で戦った者、そういった者たちが、あらためて様々な感慨にふけった。
「林忠崇大尉は大丈夫だろうか」
「大丈夫さ、あの人はまだ無傷だ。きっと生きて帰られるさ」
「古屋少佐に滝川少佐、戊辰戦争で有名な人が亡くなると林大尉も亡くなるかと不安になるな」兵士の会話が風に乗って林大尉に聞こえてきた。その兵士たちは物陰になっていて、自分には見えない。きっと、すぐ傍に自分がいることを知らないのだろう。そういえば、自分も戊辰戦争で戦った身だったな、とふと林大尉は考えた。そういうことから考えると、土方歳三少佐の方がずっと危ない気がする、本当に彼岸へとこの戦争の渦中で旅立たれてしまうのではないだろうか、と林大尉は物思いにふけった。山県有朋参軍から、土方少佐と林大尉に出頭するようにとの伝令が来たのはその時だった。
「人吉にいる海兵隊は全兵力をもって、鹿児島へ転進せよ」山県参軍は、土方少佐と林大尉に命令を下した。土方少佐と林大尉は、思いもよらぬ命令に目を見合わせた。てっきり、人吉から宮崎方面へと退却している西郷軍の追撃任務に就くものと2人共考えていた。
「理由は2つある。表向きと本音だ。聞きたいか」傍には副官しかいないという気楽さがあるのだろう、山県参軍は笑みを浮かべた。土方少佐と林大尉は思わず肯いてしまった。
「表向きは、鹿児島では西郷軍の逆襲の前に苦戦しているので、更なる増援が鹿児島には必要ということだ。海上機動は海兵隊の十八番だろう。それに、滝川少佐が戦死する等、損耗した海兵隊には補充も必要ということだ。それで、海兵隊3個大隊は補充の上、鹿児島に向かってほしい」確かに至極当然な理由で、林大尉も納得のいくものだった。
「本音は、これ以上、海兵隊に功績を挙げられるのは困るという陸軍内部の突き上げだ。横平山、田原坂での奮戦、熊本城救援一番乗り、人吉城下への先陣を切っての突入、ここまで功績を挙げた部隊は他にはない。これで、更に西郷軍の追撃任務に就けたら、西郷軍の幹部の捕縛どころか、西郷隆盛まで海兵隊が捕虜にするのではないかと陸軍の内部が心配している」土方少佐と林大尉は、思わず首をすくめたくなった。
「本音は聞かなかったことにしろ。わしは本音は何も言ってないからな。鹿児島に行って西郷軍の撃退に成功したら、そのまま、海兵隊には鹿児島警備任務を命じるつもりだ。以上」
土方少佐と林大尉は山県参軍の前を下がり、海兵隊の駐屯地へと戻っていた。
「どうやら、生きて帰ることになりそうだな」土方少佐は、ぽつんと言った。
「いいことではないですか」林大尉は内心を押し隠し、わざと朗らかに言った。
「そうだな、いいことだよな」土方少佐は自分に言い聞かせるように言った。
次章から鹿児島攻防戦になります。ただ、少し時間をさかのぼった時点、鹿児島上陸作戦からの描写になります。