第96章ー破傷風
「滝川充太郎少佐の容体が急変しただと」土方歳三少佐は、8月31日に第2海兵大隊からの急報を受けた際に絶句した。まさか、古屋佐久左衛門少佐に続いて、戊辰戦争以来の海兵隊内の知己がまた逝ってしまうのだろうか。土方少佐は、取るものも取りあえず滝川少佐の枕頭に駆け付けることにした。
滝川少佐は、土方少佐の記憶によれば8月24日に第2海兵大隊が海兵隊内の先鋒を務めることになった際に、最前線で西郷軍の陣地の弱点を観察していて西郷軍の流れ弾を右大腿部に受けたことから歩行困難になり、兵が臨時に作ったもっこに載って海兵隊の指揮をそれ以来は執っていた。
「大したことは無い。すぐに治るさ」と滝川少佐は言っていたのだが。
人吉は西郷軍の放火により街のかなりの部分が焦土と化していた。何とか焼失を免れ、海兵隊に確保された寺の庫裏が、臨時の野戦病院となり、海兵隊の戦傷者の手当てを行っていた。土方少佐が野戦病院に駆け込んだ際、滝川少佐は庫裏の一番奥にどこからか確保された布団の上で横たわっていた。だが、明らかに異常な顔色をし、声を出すのも困難な様相を示していた。これは、どうしたことだ、以前どこかで聞いたことがある病状だが、と土方少佐が考えていると、同じように急報を受けた林忠崇大尉も滝川少佐の枕頭に駆け付けてきた。
「軍医はどこだ」林大尉が大声で叫んだ。
「ここに控えています」土方少佐は駆け付けた際には気づかなかったのだが、滝川少佐の近くに軍医が付いていた。だが、その軍医の顔色は明らかに悪い。
「どうだ、滝川少佐は助かるのか」林大尉がせっつくように軍医に尋ねた。軍医は黙ったまま、顔を横に振った。
「そんな」衝撃から言葉を続けられず、林大尉はひざから崩れるように座り込んだ。軍医は、それを見ながら、感情をできる限り迎えた声で淡々と滝川少佐の病状を語りだした。
「流れ弾を受けた傷口から、破傷風を滝川少佐は発症した模様です。できる限りのことはしていますが、この発症以来の急激な病状の悪化から明らかに重篤な破傷風であると考えます。私の見るところ、おそらく滝川少佐は助からないものと」
土方少佐は軍医の声を聞いてはいたが、その声は頭の中を半分通り過ぎていた。この戦争は間もなく終わろうとしている。人吉が政府軍の前に陥落し、鹿児島も政府軍が苦戦を強いられながらも何とか確保している以上、最早、西郷軍に勝算はない。後は、西郷軍がいかに美しく散るかだけだ。それを知って亡くなるというのは、ある意味、軍人としては幸せな死ではないのだろうか?
ふと土方少佐が気が付くと、滝川少佐は何か書き残したいのか、身振り手振りも合わせて、書くものを寄越せと言っていた。破傷風のせいで筋肉がこわばり、うまく発声が出来ないのだった。書くものを慌てて取り寄せ、滝川少佐に渡すと、滝川少佐は乱れた筆跡で辞世の歌をしたためた後、余白に次のように書いた。
「武士として戦い、その末に死ぬ。武士としての本懐である」
「滝川少佐」林大尉は絶句した。土方少佐も無言で滝川少佐に敬礼した。滝川少佐は答礼しようとしたが、破傷風によるけいれんのためにうまく答礼できない。土方少佐が気が付くと林大尉も涙をこぼしながら、滝川少佐にあらためて敬礼していた。滝川少佐は2人に下がるようにけいれんに苦しみながら促し、2人は滝川少佐のもとを辞去した。
その翌朝、滝川少佐はこの世を去った。