第90章ー人吉へ(西郷軍)
4月20日の夜半から翌日の黎明にかけて、西郷軍は夜陰に乗じて速やかに政府軍に対峙していた前線の部隊も含めて逐次退却し、矢部郷内の浜町に順次、集結していった。河野主一郎は、坂元隊の敗残兵も収容しつつ指揮下の部隊を健軍から木山へと退却させることに何とか成功していたが、木山に到着すると既に西郷軍の軍議は終了し、浜町への退却が決まった後であり、木山で一息つく間もなく、部下と共に浜町へと向かうことになった。
「全く負け戦はするものではないな。一休みすることすら贅沢になる」思わず自軍の惨状に河野は自嘲して独語した。だが、木山に長居はできなかった。御船や健軍を制圧した政府軍が木山を目指して急進してくれば、それを阻止する能力は今の河野隊、というか西郷軍にはない。そして、木山地域一帯を制圧されれば、西郷軍は浜町への退路も断たれ、包囲殲滅の憂き目を見るだろう。河野は、部下と共に浜町へと向かうしかなかった。
4月22日の早朝、西郷軍はほぼ全員が浜町への集結に成功していた。西郷隆盛を逃がすために、一部が浜町で殿軍の役目を果たし、主力は西郷と共に人吉へと向かうことになった。主力は浜町から胡麻越、椎葉、不土野峠を経由して、江代へ更に人吉へと向かう。殿軍は浜町から五家荘、那須越、不土野峠を経由して江代、人吉へと向かう。共に九州山地の山並みを抜ける難行軍になるのが目に見えていたが、熊本平野を政府軍がほぼ制圧した以上、人吉へ向かうにはこれらの路を使うしか西郷軍には手段が残されていなかった。殿軍の指揮は、桐野利秋が自ら志願して執ることになった。かくして、西郷軍は人吉へと全軍が向かっていった。
浜町から人吉へ向かう西郷軍の主力は、必ずしも兵のみからなるわけではなかった。西郷軍に呼応して決起した熊本士族の多くは家族を共に従軍させていた。政府軍による後難を怖れて家族を連れだした例もあれば、家族の方から兵と共に行動することを申し出た例もあった。殿軍の方が厳しい行軍になる以上、熊本士族の家族はほぼ全員が西郷軍主力と共に行動していた。西郷軍の兵は、西郷軍の司令部から人吉までの糧食として米3升等が配給されていたが、家族にまでは配給の手が回らない。熊本士族の家族の多くが文字通り着の身着のままで空腹に耐えながら、西郷軍の兵と行動を共にしていた。山間部の険しい山道は、彼らの体力を容赦なく削っていった。4月下旬とはいえ、標高1000メートルを超える山間部ではまだまだ冷え込みがきつい。更に追い打ちをかけるように風雨が彼らを襲った。一部の兵が彼らを助けようと自らの糧食を割いて分け与える等もしたが、焼け石に水としか言いようがない惨状が起きた。夜が来たので宿を求めようにも、山間部にある小村である。西郷軍の大幹部以外は、全員野宿するしかない。濡れた体を家族同士が寄せ合って辛うじて暖を取る光景が各所で見られ、それを見た者は皆、涙を流した。
4月29日、7日余りの難行軍の末、西郷軍は人吉への集結に殿軍も含めて成功した。熊本士族の家族等もようやく蘇生の思いがした。ここ人吉を拠点に西郷軍は抗戦の路を歩むことになる。




