第89章ー会戦の終わり
「御船が崩れただと。最早これまでか」4月20日の夕刻、桐野利秋は御船からの急報を受け、肩を落とした。政府軍と交戦している西郷軍の防衛線の各所から入ってくる情報は、8対2で悪い情報が20日の朝から占められていた。野村忍助率いる北端の防衛線は3個旅団からなる熾烈な政府軍の猛攻を何とか耐え忍んでいたが、21日以降持ちこたえられるかといわれると極めて困難という返答が来る状況だった。防衛線の南端の御船からは、つい先ほど3個旅団の攻撃の前に陥落したという急報が届いた。中央部の保田窪、大津では何とか西郷軍が優勢を維持しており、熊本城に一か八かの突入を図りたいという意見が具申されるほどだったが、健軍では海兵隊の攻勢の前に大苦戦を強いられているという連絡があり、御船を陥落させた3個旅団は主力が木山の西郷軍の本営をうかがい、一部が健軍から西郷軍の中央部を襲おうとしている模様という連絡があった。この連絡を受けて、健軍では河野主一郎が独断での後退を決断、名目上は木山の西郷軍の本営警護を掲げてはいたが、実際にはこのまま交戦しては政府軍に包囲殲滅されると判断したことによるものなのは明らかだった。そして、それを桐野以下の西郷軍本営は非難することはできなかった。河野が本営の許可を仰いでいたら、健軍の西郷軍は御船を陥落させた政府軍の一部と海兵隊により包囲殲滅されていたのは疑いない。更に、河野が独断で健軍からの後退を決断し、御船にいた坂元隊(ちなみに率いていた坂元仲平は御船で戦死していた。)の敗残兵を収容しつつ、木山への殿軍を務めていたお蔭で、こうして曲がりなりにも西郷軍が軍議を行える時間が稼げていたのだった。
北端で抗戦していた野村らも木山に呼び寄せて、その意見も聴取した末、西郷軍は21日になる直前の深夜までの軍議の結果、次のような方策を取ることになった。木山を速やかに放棄、浜町に後退して、そこで残兵を収容する。その後、熊本隊を先導に山道を経由して人吉に入り、そこを拠点として薩摩、大隅、日向に蟠踞して政府軍に対して抗戦を続行する。御船陥落により会戦が敗北に終わったことから気落ちした桐野らからは、この際、木山で抗戦して死にたいという意見が出たり、西郷隆盛からは熊本城に一か八かの突入をかけ、熊本城を枕に死んでもよいという意見が出たりもしたが、最終的には人吉を拠点に抗戦するという方策が取られることになった。西郷軍はこの軍議の結果を受けて、伝令を走らせ、逐次夜間に乗じて後退を始めた。
一方、政府軍は20日の夕刻を期して、行動を一旦、休止した。山岳地帯を利用した西郷軍の夜襲を警戒したことと西郷軍の抵抗の激しさから明日以降も会戦が続くと判断したことからだった。このため長蛇を政府軍は逸することになった。21日の朝から攻撃を再開した政府軍の多くが西郷軍の陣地からの反撃が無いことで西郷軍の後退を知り、更に後退先の捜索に手間取ったことから、政府軍は西郷軍の後退の阻止が出来なかったのである。4月21日朝、ここに城東会戦は完全に終局した。