第87章ー城東会戦の始まり
後に西南戦争の帰趨を完全に決めた会戦とも言われる城東会戦だが、実際にその戦場で戦いを経験し、西南戦争終結後、速やかに海兵士官教育の一環としてまとめられた海兵西南戦争史をとりまとめた林忠崇少佐(当時)は、その本の中で両翼包囲を目指していたが、結果的には大軍に作戦なしとばかりに政府軍が西郷軍に襲い掛かっただけ、と評しており、これをどこからか手に入れて読んだ山県有朋は苦笑せざるを得なかった、という逸話がある。そこまで酷評しなくてもと思うが、各部隊の配置と戦況の推移を見る限り、林少佐の評価も当たっている。
北から順に説明すると政府軍の第1旅団、第2旅団、第3旅団が大津を守る西郷軍の野村隊に襲い掛かり、第5旅団が長嶺を守る貴島隊に、第4旅団が保田窪を守る中島隊に、熊本鎮台隊と海兵隊が健軍を守る河野隊に、別働第1旅団、別働第2旅団、別働第3旅団が御船を守る坂元隊にと(厳密に言えば、各部隊がきちんと対応しているわけではなく、大体の配置)攻撃を仕掛けた。しかし、政府軍も十分な準備を整えて西郷軍に会戦を挑んだとはいえず、西郷軍も意見の分裂を引きずっていたこともあり、各部隊が半分遭遇戦を行うような形となった。
「海兵隊は第1海兵大隊を左翼の前線に、第2海兵大隊を右翼の前線に、第3海兵大隊を予備として配置のうえ、健軍攻略を目指す」4月20日黎明、滝川充太郎少佐は隷下にある海兵隊に命令を発した。それまでは熊本鎮台兵が健軍奪還のための攻撃の主力を担っていたが、熊本鎮台兵は籠城による飢餓等の消耗から完全には回復しておらず、更にその3日前には参謀長の樺山資紀が負傷する等の損害も被っていたため、海兵隊が増援として山県有朋参軍により差し向けられたのだった。そして、熊本鎮台兵に代わり、海兵隊が健軍奪還の先陣を切ることになった。
「待ってくれ、第2海兵大隊と第3海兵大隊は逆にすべきだ。総指揮官が前線に近いのはまずい」土方歳三少佐から異論が出た。
「第2海兵大隊が一番損耗していないので、激戦が予想される右翼に置いた方がよいと考えます。第1海兵大隊と第3海兵大隊は再編制直後であり、練度に不安があります」林大尉が滝川少佐を援護した。
「林大尉のいうとおりだと思う。それに指揮権は私にある」滝川少佐が断じた。土方少佐は内心、不満を覚えたが、滝川少佐に従った。
「行くぞ」林大尉が、左翼の第1海兵大隊の先陣を切った。それを遠望した後、滝川少佐は隷下の第2海兵大隊に突撃を下令した。さすがに、指揮権を持つ以上、林大尉のように先陣は切れない。配下の3個中隊が突撃していくのを、予備の1個中隊と共に見守るしかない。
「さすがに堅いな。熊本鎮台兵が苦戦しただけのことはある」滝川少佐は独語した。河野隊は、巧みに陣地を構えており、それを生かしていた。海兵隊にとって城東会戦が始まった瞬間だった。