第80章ー再編制
少し時間が戻ります。田原坂突破以降の第1、第3海兵大隊の話になります。
「全く海兵局は現場に無理を押しつける」林忠崇大尉は思わず口に出してぼやいた。
「幾らなんでも限度というのがあるだろうに」
林大尉がぼやくのも無理はなかった。第1海兵大隊長の古屋佐久左衛門少佐戦死に伴い、林大尉は第3海兵大隊副大隊長から第1海兵大隊副大隊長に転勤を命ぜられた。とはいえ、古屋少佐の後任の第1海兵大隊隊長は海兵旅団長の大鳥圭介大佐が兼務ということになっていて、しかも大鳥大佐は第1海兵大隊が現在いる田原坂にはおらず、海兵旅団全般を統括するために長崎にいる。そのため、第3海兵大隊長の土方歳三少佐が林大尉に転勤前に言ったように、第1海兵大隊の全てのことが林大尉の双肩に事実上かかることになった。第1海兵大隊副大隊長に林大尉が着任してから7日経つが、その間の睡眠時間は単に横になっていた時間まで含めても30時間に満たない。余りの多忙さから、目が半分爛々と煌めいていると部下が噂しているのを小耳に挟み、このままいくと自分は過労で死ぬのではないか、と林大尉自身が疑う有様になっていた。実際、林大尉に課せられた任務は多忙を極めていた。
3月20日に第1海兵大隊副大隊長への転勤の辞令を受け、その日の内に林大尉は第1海兵大隊に着任したものの、林大尉には難題が山積していた。まず第1に、第1海兵大隊が田原坂突破までに累積した損害は第3海兵大隊に勝るとも劣らぬもので全体の4割近くが死傷していた。そのため、至急、兵を補充する必要があった。また、中隊長も屯田兵中隊の中隊長が1名亡くなっており、残りの3名のうち2名が軽傷を負っていた。しかし、それでさえまだ幸運だったと林大尉は内心で喜ぶ有様だった。それ以下の小隊長、分隊長の死傷率は目を覆う有様だったのだ。とりあえず、分隊内の生き残りから分隊長を選考し、または、小隊内の生き残りから小隊長を選考し(ちなみに亡くなった中隊長は林大尉自身が兼務することにした)、というやり方で、何とか分隊長、小隊長を補充した。更に消耗した武器弾薬等の補給といった問題もある。それらを懸命に林大尉はこなしていった。
それでも救いはあると、林大尉は前向きに考えようとした。それは、これだけ損耗したにも関わらず第1海兵大隊所属の将兵の士気が未だに高いことと新任の自分を信頼してくれていることだった。古屋少佐の指導の賜物であると同時に(林大尉には自覚は全くないが)林大尉の歴戦の経験が第1海兵大隊の将兵の士気の高さと林大尉への信頼を生み出していた。そういう意味からすると、土方少佐が林大尉を本多忠勝の生まれ変わりと褒めたことも効果があったのかもしれない。海兵隊の将兵の多くが元幕臣、徳川家の家臣である。神君家康公の家臣、四天王の筆頭と言えば本多忠勝であることは彼らにとって自明の理であった。しかも、林大尉は無傷のまま横平山の激戦を最前線で切り抜けたのだ。本当にそうかもしれないという思いが、林大尉への将兵の信頼の源の一つになっていた。
そういったこともあり、何とか3月30日には林大尉は過労で倒れる寸前だったが、第1海兵大隊の再編制は完了して前線投入が可能になった。同日、第3海兵大隊の再編制も土方少佐の下で完了した。彼らは植木方面の激戦に投入されることになった。