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第77章ー熊本城

「兵糧攻めに水攻め、秀吉公の城攻めのようだ。三木の干殺し、鳥取の飢え殺し、備中高松の水攻め。秀吉公子飼いの名将、加藤清正公が築いた熊本城を秀吉公が用いた城攻めの方法で島津軍の末裔たる西郷軍が攻めるとは。何とも言えない気がしてくるな。しかも、熊本城守備にあたる鎮台司令長官のわしは山内家の元家臣で、先祖は土佐藩祖山内一豊の家臣としてその3つの城攻めに参加したと父に聞いておる、何とも重い因縁だ」谷干城は自らの横にいる樺山資紀参謀長に語りかけた。

「この城攻めが始まる前に聞いた話と違いますな。先祖は長宗我部家の家臣で、山内一豊の土佐入りに伴い、山内家の家臣になったと聞きましたぞ。どちらが本当なのですか」

「覚えていたか」谷は樺山に苦笑いした。

「そこまで余裕があるのでしたら、まだ大丈夫ですな。それに熊本城は水没まではしていません。城の外側の一部が水に浸かっただけで突出は可能です」樺山も笑い返した。

「城内の兵糧が間もなく尽きるのは事実だ。4月17日には熊本城内の兵糧は尽きてしまい、三木城や鳥取城と同様となる。この際、籠城している一部の兵力を突出させ、城内の糧食を節約すると共に城内の状況を知らせるべきだと思うがどう考える」谷は樺山に問いかけた。


 熊本城攻防戦は4月に入って末期的状況に陥っていた。2月22日黎明から始まった西郷軍の熊本城攻撃は最初は西郷軍の猛攻の前にすぐに熊本城が陥落するのではないか、と攻防共に錯覚する有様だった。しかし、さすがは清正公が築いた名城、熊本城である。熊本城攻防戦直前に起こった火災によって主要施設が焼失していたが、それにも関わらず熊本城内からの銃火はよく西郷軍の猛攻を阻止した。特に法華坂を巡る攻防では、後に生き残った西郷軍の兵の1人が、すぐに上れるはずの法華坂が、坂を取り囲む両面からの籠城軍の銃火の前に誰1人として上りきれず、西郷軍の死体の山が築き上げられたと証言する惨状を呈する有様となった。その損害の多さと熊本城救援軍の接近により、西郷軍は激論の末に23日には攻囲作戦に熊本城攻めを変更した。それ以降、籠城軍は時折、城内から突出して西郷軍に損害を与えたが、多勢に無勢である。また、熊本城の火災により兵糧の多くが失われていたのも痛かった。西郷軍の監視の目をかいくぐって城外から少量の糧食が届くこともあったが焼け石に水である。だが、西郷軍とて余裕があるわけではない。田原坂等で行われた激闘は、熊本城攻囲軍からの兵力の抽出を余儀なくさせ、その対策として水攻めを西郷軍は併用した。そのために冒頭で記した状況となっていたのである。


「突出するのは、生きて還らぬ決死隊ですな」樺山は言った。

「わし自らがその決死隊を率いようとも考えている」谷は答えた。

「止めてください。熊本城主が自ら敵前逃亡を図ったように見られます」

「それもそうか」

「奥保鞏少佐に1個大隊を率いさせて、川尻方面に突出させましょう。緑川沿いにまで背面軍が迫っています。そちらの方が突出隊が生還できる可能性が高い」

「よし、それでいこう」谷は決断した。

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