第73章ー転機
前章でも書きましたが、しばらく背面軍の話になります。
滝川充太郎少佐は船旅を満喫していた。もちろん、田原坂を巡る戦いで死闘している海兵隊の仲間を心配していないことはない。だが、田原坂には実戦経験もある海兵隊の優秀な前線指揮官、古屋佐久左衛門少佐と土方歳三少佐が2人揃っているのだ。まず、大丈夫という思いが先にあった。それに、これこそ海兵隊の本来の任務ではないか。従っている部下を見渡しながら、滝川少佐はそう思った。
滝川少佐は、当初は土方少佐の後を追って、弾薬が整い次第、田原坂に第2海兵大隊と共に赴くことになっていたが、それに待ったが掛かった。3月13日に黒田清隆の献言により山県有朋参軍が戦局の打開を図るために長崎から八代に上陸し、八代から熊本城を救援する背面軍を急きょ編制することを決定し、それに第2海兵大隊も川村純義参軍の判断により加えられることになったのだ。
大鳥圭介海兵旅団長は、川村参軍の命令にいい顔をしなかった。ただでさえ、海兵隊は補給に苦しんでいるのに、更に部隊を分散させて、補給を更に困難にすることは無いという思いがした。しかし、背面軍に回せる部隊にも限りがあり、背面軍の当初の主力は実質、警視隊が占めるという陣容とあっては、最初から参加可能な第2海兵大隊は貴重な戦力であり、大鳥旅団長も川村参軍の命令を拒絶できなかった。
一方、滝川少佐の思いは違った。こういった海上を迂回して敵軍の後方に上陸して戦うのこそ、海兵隊の本領である。背面軍の先陣を承るのは、海兵隊にとって誉れではないか。
3月18日に長崎から背面軍は乗船し、3月19日に八代近郊に分散して艦砲射撃の援護を受けつつ上陸作戦を開始した。西郷軍は後方を軽視したのか、それとも主力を田原坂等に投入済みであったために余力が無かったのか、監視兵程度の兵力しか八代には配置していなかった。一方、背面軍の主力の一角を占める海兵隊は上陸作戦こそ得意中の得意とする作戦である。この差は大きく、第2海兵大隊等の猛攻の前に八代に配置された西郷軍は背面軍の上陸作戦の阻止に失敗してしまい、背面軍は速やかに橋頭堡を確立した。更にその勢いを駆って、背面軍は上陸後に快進撃を見せ、その日のうちに八代港を無事に確保することに成功して、長崎からの補給線を確立した。八代港から熊本城までは40キロも離れていない。そして、背面軍はその時は知る由も無かったが、同日、遂に田原坂の突破に政府軍は成功しており、西郷軍の熊本城救援阻止作戦は急激に困難になりつつあった。
ここに西郷軍の始まりは終わり、戦局は一大転機を迎えたのである。