第71章ー捨て奸
結局、桐野利秋は部下の懇願を拒みきれなかった。最終的には情で動いてしまった。ただ、桐野も捨て奸に志願しようとする部下に対して釘を刺した。決して自ら死のうとするな、何とかして生き残れ、そして生きて西郷さんのために尽くせ、と諭した。だから、厳密に言えば、この後、西郷軍の4番大隊の志願者が採った行動は捨て奸ではなく、現代で言うところの指揮官を狙撃することによる足止めというべきかもしれない。だが、結果としてもたらされたものにはそう大差は無かった。
西郷軍の捨て奸への志願者は最終的に100名を僅かに満たない程だった。だが、思い思いに志願者は散開して、巧みに身を隠して必殺の一弾を政府軍の指揮官に見舞おうと策した。狙撃射撃の基本は闇夜に霜が降るごとく静かに引き金を引くことだという。身を隠さないと静かに銃の引き金は引けない。また、捨て奸の志願者たちが使用した銃は、今や旧式化した前装式ライフル銃であるエンフィールド銃ではあるが、一弾必殺の狙撃銃として用いるのならば政府軍の主力銃であるスナイドル銃より優れているという評価さえある銃であった。そして、自ら志願するだけあって捨て奸の志願者には皆、狙撃に自信がある者が揃っていた。その結果、政府軍、特に海兵隊は思わぬ痛手を被ることになった。
「この勢いで、植木まで進軍するぞ」野津鎮雄第1旅団長は意気軒昂だった。田原坂突破1番乗りを果たした勢いに乗って、第1旅団は政府軍の先頭に立って順調に突撃を続けていた。野津第1旅団長も部下と共に進撃していたが、いつの間にか自らが最前線に近づいており、西郷軍の捨て奸が仕掛けた狙撃の罠にはまってしまっていた。
第1旅団が罠に気づいたのは、野津第1旅団長が戦死したことによるものだった。まず、野津第1旅団長の腹が撃ち抜かれ、思わず野津第1旅団長が腹を抱え込んだことから、次の銃弾は野津第1旅団長の頭を掠めただけで済んだ。だが、更なる第3弾はその動きを見越して放たれていた。第3弾は野津第1旅団長の咽喉を貫通した。野津第1旅団長は即死した。第1旅団は旅団長戦死を受けて、慌てて捨て奸狩りに奔走し、隊形を大いに乱した。その混乱のため、遅れて最前線に赴いた伝習隊こと第1海兵大隊はいつの間にか最前線近くまで進軍していた。捨て奸に志願した西郷軍の兵にとっては、海兵隊は戊辰戦争、いや幕末以前からの恨み重なる旧幕府諸隊の末裔である。第1海兵大隊は、たちまちのうちに捨て奸の狙撃の的になった。
「落ち着いて、身を伏せて、狙撃兵のいる場所を確認しろ。その上で撃ち返せ」古屋佐久左衛門は部下に対して自らも身を伏せつつ、そう指示した。捨て奸の狙撃は怖いが、そう射撃速度は速くないし、捨て奸の数もそう多くはいない。多少の犠牲は出るだろうが、落ち着いて対処すれば何とかなる。古屋はそう判断しており、その判断は決して間違ってはいなかったが、古屋は自身が第1の目標になっていることに気づいていなかった。
「あの肩章は紛れもなく海兵隊少佐、何としても仕留めてやる」捨て奸の狙撃が多少遠かろうと古屋に集中した。さすがに10発近い狙撃が集中しては幾ら身を伏せていても何発かは命中する。
「やられた」胸からか腹からか血が古屋の咽喉をさかのぼってくる。部下が慌てて周囲を捜索し、古屋を狙撃した捨て奸を全滅させた。それを見届けて血を吐きだしつつ、古屋は声にならない声で叫んだ。
「熊本へ」そう叫んで、古屋は絶命した。