第70章ー田原坂戦線の突破
桐野利秋は歯噛みをする思いだった。眼前を田原坂正面を突破した政府軍が進撃していく。ありとあらゆる罵詈雑言が思い浮かぶ。そして、その罵詈雑言が政府軍と自分に振りかかってくる。政府軍に対しては、まだまだ田原坂で食い止めていることは可能だったはずなのに、突破するだけの力を有していたとはという思いからくるものだった。一方、自分に対しては、何故、横平山奪還に自ら率いる精鋭の4番大隊を投入してしまったのか、せめてもう少し早く見切りをつけて、守勢に徹するべきだったという悔恨の想いだった、
そして、桐野の眼前では、政府軍の進撃を食い止めようと田原坂後方に一時下がっていた6番大隊等も最前線に赴いて奮闘している状況が見えていた。しかし、一度、政府軍に傾いてしまった勢いを完全に食い止められるものではない。一旦、政府軍の攻勢を何とかして足止めした上で、戦線の再整理を図るしかない有様だった。幸いにも横平山から追撃が行われる気配はない。裏返せば、4番大隊は後方を全く気にせずに田原坂正面を突破した政府軍の阻止に専念できる状況だということだった。
「政府軍に対して側面攻撃を行う。ただし、無理はするな。政府軍の足止めが出来れば充分だ」桐野は決断して、4番大隊を政府軍への側面攻撃に突入させた。
桐野直卒の4番大隊の側面攻撃は確かに政府軍の勢いを削いだ。だが、一度勢いづいた政府軍の攻勢を食い止めるには必ずしも充分とはいえず、政府軍の更なる対応を生み出した。
「伝習隊も田原坂突破作戦に今から参加しろとの命令か」古屋佐久左衛門は憮然とした表情を浮かべた。今更田原坂突破作戦に参加しろ、というのはどういう考えなのだろうか。この田原坂突破作戦は陸軍のみで行うはずではなかったのか。陸軍は功績を独占したがるくせに、苦戦すると海兵隊にすぐ応援を求めるとは、どういう神経なのだろうか。古屋は理解に苦しんだ。しかし、この古屋の思いが分かっていたら、山県有朋参軍以下の陸軍は酷い誤解だ、と古屋に対して弁明に努めたろう。実際には海兵隊が田原坂緒戦や横平山攻防戦で酷い損害を被っていたことから、海兵隊は休養させ、今回の田原坂突破作戦は陸軍のみで行う予定だったのが、西郷軍の猛反撃を受けたことから、止む無く海兵隊にも参戦を求めたというのが真相だったのだ。
「捨て奸を行いたいと思います。どうかお許しください」桐野の部下の4番大隊の小隊長の1人が桐野の前に赴いて発言した。その小隊長の部下も小隊長に同行していて、小隊長に殉じる覚悟を固めているのが明らかな顔色をしていた。
「今更、そんなことをする必要はない。最終決断を下したのは俺なのだから」桐野は渋った。しかし、その小隊長は透徹したような顔色をして重ねて桐野に言った。
「桐野大隊長の決断にあの時、従うべきでした。しかし、猛反対したために、今の苦境を招いてしまいました。せめて、私の最期の願いとして聞いてください」