第33章ー祖国
土方歳三は明治8年の正月を自宅で迎えていた。妻と3人の子が傍にいる。ささやかと言えばささやかだがその幸せをかみしめていた。何しろ、同じ村の中にはそのささやかな幸せさえ迎えられなかった家もあるのだ。
土方が台湾から帰還したとき、一番に驚いたのは、妻の琴が3人目の子、2人目の娘を抱いていたことだった。琴によると、ちゃんと手紙で知らせたとのことだったが、土方自身がマラリアで倒れたり、周囲の者が相次いでマラリア等で倒れるのに対処したりといった毎日に追われて、そんな手紙が届いたことさえ忘れていた。琴は幾ら何でも3人目の子ができたという手紙を受け取ったことさえ夫が忘れるなんて、と(半分芝居だったのだろうが)激怒し、長男の勇志が、
「お父ちゃん、お母ちゃん、喧嘩しないで」と泣いてしまう有様になった。
土方は屯田兵村から出征して戦病死したことにより祖国に帰還できなかった者全員の家に赴いて、遺族を慰問した。土方からはほとんど言葉を発せられず、遺族からの質問に答えることが多かった。あの京都での日々では想像もできなかったな、と台湾での幻想の中でのことも思い出した。一家の大黒柱を失ったことから、離村の決断をする家もあった。また、新たに屯田兵となる婿を迎える家もあった。離村の決断をした家には、海兵隊と開拓使からささやかといえばささやかだが慰問金も出された。土方は、その慰問金がその家の新たな生活の資金となってほしいと痛切に思った。
土方は琴が作った心づくしの雑煮を味わった。海兵隊から出征した屯田兵への慰労として米ともち米が大量に届いていた。米ともち米が実際に屯田兵村に届いたとき、村では歓声が巻き起こった。それだけ米ともち米に皆、飢えていたのだ。何しろ、土方自身もこの村では米をほとんど食べていない。台湾にいた時、屯田兵の面々は米をたらふく食べられることに歓喜の涙を流したほどだった。陸軍の兵からは、
「屯田兵は芋侍ならぬ芋兵だからな」と陰口をたたかれたが、そんなことは気にならないほど、屯田兵の皆が米を腹いっぱい食べられることに幸せを覚えていたのだった。
土方が正月気分に浸っていると、琴が話しかけてきた。
「それにしても新選組の名がここまでとは私は知りませんでした」
「確かにな。北海道、新選組副長、土方歳三宛だけで、手紙が届くほどとは自分も思わなかった」
土方は嘆息した。土方が留守の間に、元新選組の隊士等から手紙が大量に留守宅に届いていた。土方自身は台湾に出征していたので全く知らなかったのだが、あの新選組の旗騒動が新聞に載ったせいで、元新選組の隊士等に土方の消息が一度に知られたのだった。そして、駅逓寮の職員も特別に配慮し、元新選組の隊士等が土方宛に送る郵便の宛名を、単に北海道、新選組副長、土方歳三と書いてあるだけで配達する有様だった。
「島田魁に永倉新八、斎藤一等々。皆、あの旗で昔を思い起こしたのか、土方さんと一緒に刀を振るいたいと大抵書いて手紙をよこしてくる。今更、刀の時代でもないのに」
「そんなことはないでしょう。刀を振るって戦うことはまだまだあります」
「勘弁してくれ。俺は今の屯田兵には射撃と護身用の銃剣術しか教えていないんだ。刀を振るって戦うなんてありえないよ。そんなことになったら、俺の腕は落ちているから、あいつらを頼らないといけない」
土方は嘆息した。
最後の方はいわゆるフラグを立てた会話です。史実における西南戦争での抜刀隊の活躍は、戊辰戦争等からみると本当に意外としか言えない話です。