第30章ー落としどころ
大久保利通は苦悩していた。清国の提示してきた台湾からの撤兵条件を受けるかどうか。台湾出兵は最早これ以上の日本からの要望は望めない段階に達しつつあった。
台湾出兵の表向きの口実は、宮古島島民や岡山県民が台湾近海で遭難した際に、台湾の住民から受けた略奪等に対する報復だった。清国に賠償を求めても、台湾は清国の統治が完全には及んでおらず、台湾の住民がしたことに清国は責任は取れないの一点張りだったのだ。そうなると、台湾の住民に対して武力で報復するしかない。それ故に台湾に出兵するということになったのだが、隠れた目的もあった。それは、薩摩の士族をなだめるという目的だった。征韓論で下野した西郷隆盛らははっきりいって爆弾みたいなもので、いつ政府に対する不満を暴発させて武力挙兵に及ぶか分かったものではなかった。幸いなことに江藤新平が主導した佐賀の乱には同調しなかったが、彼ら単体でも武力挙兵した際の影響の大きさは他の士族が暴発した場合とは比較にならない。そこで、台湾に薩摩の士族の一部を植民させると共に対外危機をあおることで、薩摩の士族の不満をなだめようと考えていたのだが、台湾があそこまでの瘴癘の地だとは思わなかった。既に台湾に派遣された日本の将兵の多くが倒れている。そんなことはまず無理だと分かってはいるが、清国が妥協して台湾の一部に日本人の植民を認めるとしても、薩摩の士族から希望者はほとんど出ないだろう。そして、内実はともかく清国が台湾に派遣した兵力は明治7年10月現在約1万4000人に達しているらしい。一方、日本側は陸軍と海兵隊合わせても4000人に満たない上、4割以上がマラリア等により戦闘不能に陥っている。こんな状況で、台湾で日清両軍の衝突が偶発的にでも生じたら、日本軍の敗北は目に見えている。西郷従道からは日清両軍が台湾で衝突する事態に陥っても、島津義弘公の泗川の勝利を台湾で再現可能であり、清国が日本に対して充分な条件を提示しないならば日清開戦をむしろ希望すると豪語する連絡が届いているが、西郷はマラリアの高熱でとうとう脳までやられたのではないか、と大久保は疑わざるを得ない状況だった。
台湾出兵に対して政府上層部から国民まで渦巻いている不満の落とし前を自らつけるために8月に北京へ出発したものの、ここまでの条件を清国に付きつけられる羽目に陥るとは思わなかった、と大久保は後悔したが、今や清国が提示する条件を受け入れるしかなかった。見舞金10万両、戦費賠償金40万両を清国から日本に支払う代わりに、日本は台湾から年内に全面撤兵する、というのが清国の提示した内容だった。これ以上は絶対に金を出せないと清国が言い張るうえに、日本は台湾からの撤兵が1日でも遅れるごとに、台湾で将兵が多く病死していくという状況ではどうにもならなかった。
大久保は明治7年10月31日、清国政府との北京専約(台湾からの日本軍の撤兵)に終に同意した。