第28章ー銃後(京都)
世間での台湾出兵の評判を島田魁を通じて描いてみました。時期を作中では明確にはしていませんが、明治7年8月下旬頃という設定です。
島田魁は今日も食に困っていることもあったが、台湾出兵のことを思うと気分が悪かった。周囲でも台湾出兵の評判は散々で、政府批判の1つになっている。
島田は維新後、土方歳三らと違って、すぐに釈放されたのは幸運だったのだが、新選組という職を失ったのも事実だったのだ。その後、京都に引っ越して、自分が大好物の甘い物屋で生活しようと考えたのだが、妻が事前に警告したとおり、さっぱり売れずに大赤字になってしまい、すぐに廃業してしまった(大体、島田の作る汁粉とかは他の新選組隊士が食べられないレベルの大甘だったので、材料費はかさむわ、客は1回来たらもう来なくなるわで、島田本人は全く自覚が無かったのだが、要するに売り物になるものではなかったのだ。)。次に思いついたのは、剣道場をやることであったが、幕末の頃と違って、今や剣の時代ではない。何とか食えないことは無いという稼ぎが精いっぱいで、妻の内職の稼ぎもあって何とか生計を立てている状態だった。
そういった島田の血が久々に騒いだのが、今年(1874年)5月に載った新聞のとある記事だった。道場生が「新選組、長崎にて復活」という題が躍る新聞を道場主である島田に見せたのだ。島田は食い入るようにその記事を読んだ。あの土方副長が、北海道の屯田兵村長として生きておられたとは知らなかった。自分も台湾にその新選組の一員として参加せねば、とすぐに思い立って、思いつく限りの方々に掛け合ったのだが、掛け合いだした返事が届く前に、新選組は先日、台湾に出発したという新聞記事が出てしまい、これはダメか、と落胆した。実際、返事すら来ない掛け合い先すらある有様だったし、海兵局からは、この度は義勇兵の参加は認めていないという鄭重ではあるが型通りの返事が結局来た。それからは、台湾での新選組の活動が気になって、道場生に片端から集められる限りの台湾での新選組の活動が載った新聞を集めさせた。台湾に上陸した後、新選組は海兵隊の一員として順調に進軍し、台湾の部族を無事に撃滅したようだった。勝ち戦はやはり気分がいい、とこの頃は喜んでいたのだが、その後の新聞記事は島田の機嫌を悪くさせるものばかりだった。台湾に清国が陸海軍を派遣した、日本軍を兵力では圧倒しているとか。台湾に派遣された陸軍の鎮台兵や海兵隊員(要するに新選組も)は、現地で悪性のマラリアに多くが感染し、生死の境をさまよう者も何人も出ている、既に何人かは亡くなったとか。そんな新聞記事が流れ出したのだ。兵士にとって銃撃されて死ぬとか、敵の刃にかかって死ぬとかいうのなら、まだ救いがある、しかし、異郷の地で高熱の果てに苦しんで死ぬ、そんな死は全く無意味だ、と島田は思ったし、周りもそう言って、台湾出兵の評判は急激に悪化した。そして、とうとう土方中隊長がマラリアで危篤に陥ったが、何とか命を取り留めたという記事が流れた。島田は思わず嗚咽した。土方副長、早くご無事にお帰りください。そして、今度があったら、その時は私を新生新選組の隊士として呼んでください。島田はそう念じた。