第14章ー琴
前章の事実上の続きになります。
土方琴は語る。
初めての屯田兵村の設置です。本当にいろいろと試行錯誤の連続でした。初めて見る農作物を栽培するようにと開拓使から指示を受けることも度々でした。私どもの家は、屯田兵村の村長です。したがって、開拓使から指示があれば私どもはその農作物の栽培を真っ先に実行せねばなりません。
私は砂糖大根と呼びますが、最近では甜菜と呼ぶことが多いビートにしても、私達の屯田兵村で最初に栽培されることになり、土方家が主導して試みることになりました。砂糖が採取できるうえに、その絞りかすは牛馬の飼料にもなると熱心に開拓使の担当者の方に勧められたのですが、最初は全くうまくいかず、歳三さんがこんなもの栽培できるかと憤激の余り、屯田兵を扇動して開拓使に殴り込みをかけようかとまで私に言い出したので、私が必死になって止めたこともあります。
歳三さんは、屯田兵のことに関しては本当にいつも気を配っていました。装備については、全員の装備をそろえることを常に考えていました。屯田兵村は1つの中隊だ、そこで装備が揃っていないと戦うことなんて夢物語だ、と私にまで話していました。多分、戊辰戦争の実戦経験からでしょう。銃に関してはシャスポー銃に統一させていました。お世話になったブリュネ大尉の母国の銃なんだ、それに幕府歩兵隊でも装備していた銃でもある、俺はこの銃以外には使う気になれないんだ、とまで酔った勢いもあったのでしょう、酔いにまかせて私に口走ったこともあります。軍服も冬の北海道で戦う際の防寒まで考えたものを準備させようと心掛けていて、開拓使からかなり煙たがられていましたが、それだけ屯田兵のことを心配していたことから、当の屯田兵からの人気は絶大で、土方村長のためなら死んでもいいとまで口走る屯田兵まで多くいました。
私に対しては、本当に歳三さんはいい夫でした。私は三味線屋の生まれでしたので、これだけ大きな農作業を北海道でやるなんてことは、歳三さんと結婚するまで夢にも思ったことはありませんでした。だから、牛馬の使い方とか、いろんな農作物、馬鈴薯や蕎麦の栽培方法とか、始めてやることばかりで悪戦苦闘の日々でしたし、食事にしても私の力不足から一時は三食とも馬鈴薯ばかり出す始末でした。でも、歳三さんは不平をこぼすことは全くなく、逆に私をいつも心配してくれて、しまいには私につらかったら実家に帰ってもいいとまで言ってくれました。でも、私にも意地がありましたし、こんないい夫のためなら、とひたすら頑張りました。本当に私には過分の夫でした。子宝にも恵まれて、歳三さんは私が産んだ子どもを本当にかわいがり、もう少し大きくなったら自分の剣術を伝えよう、と常々言っていました。私にとっては理想の家長でした。