第13章ー琴
土方歳三の妻、琴は晩年に孫娘らの希望によって、回想録をまとめた。これはそれからの引用である。
明治3年の1月に歳三さん(琴は晩年まで夫のことをそう呼んでいた。)と結婚しました。北の蝦夷地に春から行くのだが、それでも構わないのなら、結婚したいと言われて、私はどんな苦労が待っているかも知らずに承諾しました。祝言を挙げた後、夫婦で北へ赴く準備を整えました。畑が5町歩も与えられると聞いて、大変びっくりしたのを覚えています。
屯田兵として募集されたのは、この時は基本的に旧徳川家の家臣のみでした。だから、静岡の清水港から出発することになっていましたが、一部の募集者から東京をこの目に焼き付けてから出発したいという希望が出て、清水港から東京港、それから小樽港へと屯田兵を乗せた船団は向かいました。小樽港にたどり着いてからは徒歩で屯田兵村に向かいました。初めて石狩川のほとりにある屯田兵村を見たときは、こんなに広い畑を耕せるものだろうか、と不安になりました。歳三さんは私1人に畑を任せることは不安だったのでしょう。甥2人も一緒にきましたが、甥もこんなに広いとは思わなかったと不安そうでした。何しろ共有地も合わせると2000町歩に迫る広さで、しかも第一陣ということで、できるかぎりのことはしてくれていたみたいですが、ほとんどの田畑は区割りのみの状態でした。
いろいろと農具や食糧、もちろん屯田兵ですから銃等も開拓使から与えられました。主に歳三さんは屯田兵の訓練の指導等に勤しみ、私と甥2人は田畑の開墾に頑張る日々でした。馬鈴薯を植え、蕎麦を育て、麦畑を作って、と目の回るような忙しさでした。初めて馬鈴薯が採れたときはお祝いをしましたが、そうなると開拓使からは、自分たちで食料が作れるようになったのだからと米の支給を減らされるようになり、一日三食が馬鈴薯ばかりという日々が珍しくなくなり、甥2人はしょっちゅう不平をこぼしました。歳三さんが食べれるだけマシだと言って、甥2人を叱り飛ばしたこともあります。秋になると石狩川で鮭を大量に獲りました。いろいろ苦心惨憺して保存できるようにして、一部は売ってお金に換え、残りは食べましたが、それが一番のごちそうでした。
歳三さんは村長を兼務していましたから、いろいろと開拓使との交渉にも当たりました。ともかく住居が冬になると問題になりました。夏場を想定して建築された住居だったので、冬になると寒くてたまらないのです。自分たちで少しでも暖かくなるように工夫すると共に、歳三さんは問題点を開拓使に指摘しました。後期に作られた屯田兵村ではそういった点が改善されましたが、これは歳三さんの働き掛けが大きかったと私は思います。




