エピローグ1ー北の大地にて
土方琴は晩年の回想の中で次のように語っている。
「あれは9月1日の夕暮れ頃だったと思います。何か農作業の準備か何かがあって、甥の家を家族で訪ねた後、暗くなってきたので、家に帰ろうと思い、甥の家を皆で出ました。そして、家の近くまで帰ってきて、家の玄関先を見ると、歳三さんが立っていたのです。思わず駆け寄ろうとすると、姿が消えました。変な見間違いをした、と思っていると、子どもの勇志や喜多までが、お父さんが玄関先に立っていたのに消えてしまったと言い出しました。そんなことあるわけがない、と子どもをたしなめて、家に入ったのですが、胸騒ぎがしてなりませんでした。
それから2、3日して、歳三さんが戦死した旨の連絡が電報でありました。きっと、歳三さんは私たち家族のことが心残りで、あの世へ行く前に私達のことを訪ねてきたのだと思うのです。
永倉新八さんが、歳三さんの遺骨を持って、私達の家に来られたのは9月10日前後の頃だったと思います。その際に、このようなことになって申し訳ありませんと話されながら、深々と頭を下げられたのが印象に残っています。しばらく、歳三さんが亡くなった際のこととかを永倉さんに話してもらったりしていましたら、永倉さんが、申し上げにくいのですが、どうか新選組の面々の願いを聞いていただきたいと言って、懐から何通もの手紙を出しながら、頭を下げられました。遺骨の一部を分骨していただき、その遺骨を新選組の碑に合葬したいと言われたのです。この手紙は、新選組の面々の書いた手紙です、と言って手紙を差し出されました。私は大変驚きましたが、とりあえず手紙を読ませてくださいと言って、手紙に急いで目を通しました。どの手紙からも歳三さんが慕われていたことが分かり、涙があふれ、全部読むのに大変時間がかかりました。気を静めるのにも時間がかかりましたが、私は何とか気を落ち着けて、了解しました。永倉さんが、本当にありがとうございますと涙を流して頭を下げられました。永倉さんが私達の家を出られた後、私はあらためて涙があふれ、しばらく涙が止まりませんでした。
あの戦争(西南戦争のこと)は、私たち屯田兵村にとって、本当に大事件でした。私達の村も、他の村も多くの兵を出征させ、また失いました。大体ですが、出征した兵士の1割が戦死し、更に1割が農作業に支障がある体になって帰還してきました。一家の大黒柱を失ったことで離村する家族もありましたし、あらためて再婚する方もおられました。余りの被害の多さに、翌年の屯田兵の応募も少なく、屯田兵の募集が離村した屯田兵の家族の補充だけで埋まったと聞きます。私達も悩みましたが、甥達が協力を申し出てくれたので、村に留まることにしました。歳三さんが遺してくれた田畑を家族で協力して耕し、ここで生活して行こうとあらためて誓ったのです」