第112章ー翻る誠の旗
もし、その時の西郷軍の幹部の声が新選組、いや海兵隊の幹部の面々にその時に聞こえていたら、ひどい誤解だと海兵隊の幹部は思ったろう。なぜなら、海兵隊が鹿児島に駐屯していたのは、陸軍の面々に嫉視されたあげくに西郷軍との前線から追いやられ、後方警備任務に就かされていたからなのだから。
大鳥圭介海兵旅団長の下に、西郷軍が可愛岳の険を強行突破して脱出に成功したという第1報が入ったのは8月19日のことだった。その時点では、西郷軍の行方が不明だったこともあり、大鳥旅団長は副大隊長以上の海兵隊の幹部を招集して対策を協議することにした。海兵隊の幹部は急きょ、大鳥旅団長の下にその日のうちに馳せ参じた。会議の冒頭で、大鳥旅団長が西郷軍が政府軍の包囲網を脱し、行方をくらましたことを告げた。それを聞いた土方歳三少佐が、いきなり発言した。
「彼らはここ鹿児島に帰って来る。必ず。」
林忠崇大尉が疑問を呈した。
「なぜ、そこまで言えるのです」
「俺の勘だ。だが、間違いないと断言できる」
「勘を間違いないと言われても」林大尉がおそるおそる言った。
「考えてみろ。わざわざ脱出したということは、どこかに行きたいからだ。では、どこに行く?今更、熊本や大分に行ってどうする?普通に考えたら、故郷、つまり鹿児島に帰りたいからではないか」
「うむ、言われてみれば筋が通っている」大鳥旅団長が言った。
「それに本当に西郷軍に帰ってこられて、鹿児島に入られては海兵隊にとって恥辱ですな。何としても阻止しましょう。」本多幸七郎少佐も言った。
「では、全力で西郷軍阻止の準備をしますか。私としては無駄に終わってほしいですが。これ以上、功績をあげることになりたくない」北白川宮少佐が言った。
「宮様は謙虚ですな。確かに西郷軍を阻止したら、功績をまた挙げることになります。しかし、きちんと準備は整えないといけません。稲荷川を基本に防衛線を構築しましょう。しばらくすれば、陸軍が駆け付けて、挟み撃ちにできます」大鳥旅団長が発言し、会議を締めくくった。
9月1日早朝、日の出が近づき、明るくなりつつあった。10日余りの準備期間の間に、海兵隊は考えうる限りの陣地を構築して、西郷軍を迎え撃つ準備を整えていた。土方少佐の傍には、新選組の象徴ともいえる誠の旗が高々と翻っていた。
「何も西郷軍を挑発するようなことをしなくとも」土方少佐の傍にいた島田魁が言った。
「この旗が戦いの際に翻るのは、今日で最後になるだろう。この旗に今日の戦いを最後まできちんと見届けさせたい」
「そうかもしれませんが」島田は言葉を思わず濁した。土方少佐の最後という言葉が、最期に聞こえてしまったのだ。
「お願いします。今日まで生きてこられたのです。今日の戦いを生き延びて、琴さんの元に必ず帰りましょう」
「分かっている。琴の元に帰るつもりだ」土方少佐は笑った。だが、島田は嫌な感じがぬぐいきれず、天を思わず仰いだ。
「まさか」島田は雲行きが見えた瞬間、絶句した。
「どうかしたのか」土方はまだ気づいていなかった。
「雲行きが怪しいです。一雨来るのかも、それもかなり激しい雨が」
 




