第102章ー炎上の余波
「本当につらかったでしょうね」北白川宮大尉がぽつんと言った。
「本当につらかったろうな」本多幸七郎少佐も北白川宮大尉に同意して返答した。鹿児島攻防戦が始まって4日目、5月8日になっている。
5月5日、鹿児島攻防戦が始まってすぐに川村純義参軍が命じたのが、鹿児島城下の街並みに対する放火だった。鹿児島の住民の多くは西郷軍に同情的で、鹿児島に乗り込んできた政府軍に対する反感をあからさまに示す住民が多く見られた。更に鹿児島城下の街並みは、いざ西郷軍との戦闘が始まった際には政府軍の射撃に際して射界を妨げると共に、西郷軍の潜入を容易にさせると見られていた。こういったことから、鹿児島の住民を退避させて、鹿児島の住民の西郷軍への協力を阻止すると共に、政府軍の戦闘を容易にするために川村参軍は鹿児島城下の街並みへの放火を命じたのだった。
言うまでもなく川村参軍は、薩摩藩の出身であり、放火に従事した警視隊の面々の幹部から巡査に至るまで薩摩藩出身者が多くいる。そうした人たちにとって、第一の故郷ともいえる鹿児島城下の街並みに火を放つのは断腸の思いだったに違いない。だが、戦闘に際して勝つために必要な合理的な判断である以上はやむを得ない判断でもあった。
北白川宮大尉も本多少佐も、川村参軍らの心情を思うと何とも言えない想いに駆られた。実際には、鹿児島城下の街並みへの火災による死者は出ていないし、負傷者も極めて少ない。だが、鹿児島の住民からは怨嗟の声が強く上がっている。それに対する対策として、川村参軍は米を長崎から急送して、無料配布を行う等のことをしているが、自分で火をつけておいて、米を配り、その米に感謝しろというのか、と鹿児島の住民の評判は好転していない。また、西郷軍と政府軍の戦闘の現状は、極めて政府軍に厳しい。
「艦砲射撃の援護が無くとも、西郷軍が1発砲弾を撃ち込んだら、こちらは10発撃ち返すくらいの砲撃を加えているのに、西郷軍は粘りますな」
「西郷軍にとっては、第一の故郷を奪われたのだ。死に物狂いにもなる」北白川宮の問いに。本多少佐は答えた。
「そして、西郷軍は夜襲に活路を見出すというわけですか。困りましたな。我々、第4海兵大隊は他の海兵大隊、特に第3海兵大隊ほど白兵戦は得意ではないのですが」
「仕方あるまい、我々には土方歳三少佐も林忠崇大尉もいないのだ」本多少佐は渋い顔をした。川村参軍は田原坂の死闘等から海兵隊は白兵戦に強いと思い込んでいるらしかったが、第4海兵大隊は実はそんなに白兵戦には強くないのだった。だが、川村参軍は第4海兵大隊の主力を予備に回し、戦線の危急時に投入することを決めてしまった。
「陸軍の鎮台兵よりは、士族出身者が多いだけ海兵隊は強いがな。精いっぱい頑張るしかない」本多少佐は北白川宮大尉に対する返答というより自分に対して言い聞かせるように言った。




