第101章ー炎上
前章とほぼ並行しています。細かい日時を言うならば、西郷軍の鹿児島攻撃が始まった当日の5月5日の出来事です。
「この命令書を持って、警視隊に赴け」川村純義参軍は険しい顔色を副官に示して言った。その命令書の内容をざっと一読した副官の顔色は一瞬の内に強張り、副官の体は動こうとしない。
「2回も言わせるな。さっさと赴け」川村参軍は、副官に対して怒鳴り声を挙げた。副官があらためて川村参軍の顔を見ると、川村参軍は目元に涙を浮かべている。副官は川村参軍の心の奥底に気づき、慌てて敬礼して退室した。扉を閉めた副官の耳に、川村参軍がすすり泣きながら独り話す声が扉越しにかすかに聞こえてきた。
「許してくれ。決して許されるものではないのは、自分でも分かっている。でも、許してほしい」
副官は沈黙したまま、警視隊の指揮所に赴いた。鹿児島に派遣された警視隊2個大隊は、鹿児島県庁に臨時の指揮所を置いている。
「川村参軍からの命令書を持参しました」副官はやっとの思いでそう言って、警視隊の指揮所で命令書を示した。それを示された警視隊の幹部の面々もそれに目を通した瞬間に顔色を一瞬のうちに変えてしまった。幹部の1人が何とか声を絞り出した。
「これは本当に川村参軍からの命令なのか。間違いないのか」
「川村参軍の署名押印のある命令書を疑うのですか」副官は怒りを奥底に秘めた低い声を上げた。
「いや、そうではない」質問した幹部が慌てて取り繕った。
「だが、余りにも信じられない命令だったもので」
「川村参軍は、私の目の前でこの命令書に署名押印されました。それから敢えて言わせてもらいます。川村参軍も苦悩の末に発せられた命令だと思います。私が退室した後、川村参軍が許してくれとつぶやかれるのが扉越しに聞こえましたから」
「そうか」別の幹部が言った。幹部の多くが、また副官が実は薩摩藩の出身だった。
「それなら止むを得ない。その命令書に従う」
「速やかにここから退去せよ。西郷軍の攻撃に対処するために間もなく火を放つ」警視隊の面々が西郷軍の攻撃を眼前に控えた鹿児島の街を駆け巡りながら、大声を上げた。その声を聴いた鹿児島の住民は取るものも取りあえず担げる限りの物を持って、慌てて鹿児島の街から逃げ出し出した。西郷軍の攻撃は主に東北から行われるとみられていた。そのために西へ南へと逃げる者もいる。また、港から大隅方面へと逃げられないか、と一縷の望みを託して鹿児島港へと向かう者もいる。鹿児島港には政府軍の船舶が待っていて、大隅半島へ渡る者の手助けをしようとしていた。警視隊は幹部から下の者に至るまで実は薩摩藩出身者が多数を占めている。彼らはこの作業に従事しながら、涙を浮かべていた。
「ほぼ住民の退去が完了しました」住民の避難が始まってからしばらくが経った後、副官が川村参軍に報告した。川村参軍は能面のような表情で言った。
「では、始めろ」
「はっ」副官は返答し、警視隊に号令を下した。
「見ろ」別府晋介が、桂久武が、多くの西郷軍の面々が呆然とした。鹿児島の街並みから次々と火の手が上がっていく。
「こんなことがあっていいのか」
「鹿児島が燃えている」西郷軍の誰かが言い、他の者も同じようなことを口走った。西郷軍の面々が見つめる中、鹿児島の街の大部分が焦土と化していった。
なぜ、警視隊が行ったと疑問を持たれそうなので補足すると、陸軍や海兵隊は西郷軍の攻撃への対処で手一杯のために、後方で鹿児島の治安維持に当たっている警視隊が行うしかなかったという事情からです。




