摩天楼は薔薇色に
登場する人物、団体は全て架空のものです。
私は何故、不毛な人生を送って来たのか
私はどうして大学進学と言う道に進まなかったのか
この人生の責任者に問いただしたい、責任者は何処か
この物語は私の約二十年間の人生の記録である。
少しのフィクションとほとんどの実話でこの物語は構成される。
が、実話と言う事もあり、いささか見るに耐えない。
第一章:徒花散るジュニアハイスクール
場所は眠らない街と有名な東京でも静かに眠ってしまう東京のベッドタウン、時代はポケットベルが女子高生の間で普及した頃から始まる。
私以外に固有名が付く人物がほとんど登場しない事を思い返すと想像以上に交友関係が狭かった事や、屈辱や鬱屈した気持ちしか残らず、輝かしい思い出が残っていない根拠を示す証拠でありそれを記す事により一層自虐的に感じる所である。
しかし、語ろうではないか。
私は地元の小学校からエスカレーター式に地元の中学校に入学する。
小学校を卒業した頃の私と言えば希望の光に溢れ、才能は無限大に広がり、尚かつ容姿も長身で若干の筋肉質な身体とまさにピカピカの中学一年生であった。
通信ケーブルを用いたゲームに熱中し、トレードや対戦を行うなど年上、年下まで交友関係が広く、かといってゲームばかりもせず、モーター付きプラモデルのレースに参加、絵心もあり風景画を描く為にノートと鉛筆を持ち自転車で旅人となる日々であった。
さらに水泳教室に通い、学習塾で小学校の頃から中学校の勉学の基礎をおさらいし、さらに中学入学と同時に柔道部に入部した、小学校の頃は野球を教わっていた事もあり基礎体力、運動神経は一定以上は持ち合わせ、頭脳明晰、交友関係も良くどのジャンルでも会話に参加出来る、まさに聖徳太子の再来とまで思わせるような神童であった。
しかし、神童が泥沼に落ちるまでに時間はかからなかった、中学二年になるとサスペンスの最終局面とも思える崖からの転落人生が始まった。
通信ケーブルを用いたゲームやモーター付きプラモデルは私が遊んでいた時には人気のピークを迎えていたのだ。
さらに水泳教室も大人の体になるにつれ求められる難易度が上がり、私は五輪を目指せる競泳選手にはなれず水泳教室を退会した。
絵心はあったが、美術部では造形の趣向が強い顧問が担当していた事もあり、肌に合わず辞退。
学習塾では連立方程式という宇宙の数学が私を苦しめ、証明という数学ながら国語力を求める意味の分からない問題につまずいた。
柔道部は女の先輩、痩せたパグと言うべきか、犬のような顔をした先輩に惚れられたらしく寝技で無い乳を擦り付けられるという苦悶に苦しめられた、この好意とも取れる行為から私の女性に対する何かに傷が生まれた事は察していただきたい。
柔道部を退部するきっかけとなったのは、同級生の巨躯でラーメン大盛りはおやつという割腹の良い新入部員が入部した事であった。
それまでの柔道とは先輩から乳を擦り付けられる苦悶と柔道着の臭さ、運が悪いと脳震盪で倒れ白衣の天使が待つ保健室で目が覚めるという以外は形で投げ、形で受け身、勝負とは程遠い同級生や先輩同士のほんわかとした部活であった。
巨漢は一日の授業が終わると教室の前で待ち伏せをして、学生服が裂ける程に強く私を柔道場に連れ込もうとする、無論学生服が裂けてしまうのは親から大きな誤解を招きかねないので柔道場へ向かうがここからがさらに地獄であった。
その巨躯を生かした投げ技や寝技は簡単に例えるならば軽自動車が空から私の体に向かい落ちて来るような衝撃を与えたのだ。
肋骨を砕かれて死ぬ前に勇気を持って顧問に退部届を提出した事は言うまでもない。
帰宅部は認められていなかった為、友達とは言えないが顔は見知った連中が集う科学部に入部する事になる。
科学部は隔週に開かれるかどうかの曖昧な部活であり、私は学習塾に行き勉強をする以外、学校内ではほぼ自由になった私はこの年頃ならではの病気にかかる。
そう、かの有名な中ニ病である。
体育の授業では皆が同じ体操着に着替える事を嫌い学生服で見学、特に水泳の授業では女子の見学に混ざり学生服でプールサイドに居る事に特別な優越感すら覚えたが無論成績が落ちた事は語るまでもない。
音楽の合唱が大嫌いで、一人だけ声が大きいがとにかく音を外す者が過大評価され、音程を整えながら歌っている者は淘汰されると言う状況に私は反発し、口パクと言う秘術を習得していく事で大嫌いな合唱を乗り越えた。
まだ異性と交流を持つ事が破廉恥極まりないと言われる思春期に、異性の少し肌の露出しているアニメキャラのグッズやテレビで見た女優やアイドルの話題を持ち、同年代の男子から異端の眼差しを受ける事になるが、この疎外感がまた私を満たしていた事も事実であった。
季節は流れ、文化祭の頃である。
皆で造花を作っていた中で、私は一人異端の眼差しから来る優越感とは違う疎外感を覚えたのだった。
私は家庭科の授業が大嫌いだった、班分けされ料理を作る、これは男子厨房に入らずを実践し逃れて来たが問題は残っていた。
そう、刺繍や手芸を行う事がとても苦手だったのだ、大人となった今では偏見であったと思えるが当時は肝っ玉母ちゃんもしくは手先の器用な女子生徒が頬を赤らめながら繕ってくれ、あわよくば恋に落ちるものと信じていたのである。
つまり、私は手先が不器用であった、ロボットのプラモデルを作るのには苦労を厭わなかったが、自分に興味の無い事であれば尚更意欲は失せるものである。
造花を私なりに作り、大きな紙に貼付ける。
しかし、周りと同じ材料から作っているにも関わらず私の作った造花は花が開いていなかったのだ、そもそも生まれてから中学生まで造花を作った事があっただろうか、否、一度も造花など作った事は無く作り方を教えてくれる者もいなかったのだ。
今を思えば、この時この先の人生に花が開く事はないと人生の責任者が告げていたのかもしれない。
ついに私の造花に対し同級生からクレームが発生する、この造花を作ったのは誰かと。
そして造花を作っていた大柄な男子生徒、大柄な男子が造花を繊細に作っているとはこれもまた奇怪な光景であるが、その男子生徒に「造花が作れないなら帰れ」と言われ私は見事にそれをやってみせたのである。
鬱屈した気持ちが爆発した私は阿呆な事に帰りに便所の換気扇に指を突っ込み指が無くなれば造花を作らないで済むと言う発想を思い立ち実行に移した。
だが、鈍い音がして激痛が走った後に換気扇が止まってしまい指切断と言う顛末は訪れなかった。
しかし、そんな阿呆な事をしたと告白し白衣の天使が待つ保健室に行けばクラス中に指の怪我が知れ渡る可能性があり、私は血の滴る指をぶら下げて一人学校を後にした。
読者諸君これは実話である。
翌日、絆創膏をした指で登校した私は一通り授業を受け、文化祭の準備に取りかかろうとしていたクラスから逃れよう、また帰れと言われるならば喜んで、自らの意思を持ち勇気ある撤退を行おうとしたのである。
つまり、率直に言えば悪口を言われるくらいならサボろうと思い立ったのである。
廊下に出た途端、教師に見つかり生徒指導室に軟禁される、頬を叩かれたり竹刀で肩を叩かれたりする、まだ体罰が容認されていた時代の義務教育である。
体罰を受ける覚悟を決めていると造花の材料が山のように運ばれて来た、作り方を教わりながら教師と二人きりで夕方まで、クラス全員が帰宅した後まで作り続けると言う人生二度目の屈辱を味わう事になる。
二度目と言う事で一度目の屈辱もここに記しておこう、目を背けてはいけないが、いささか見るに耐えない。
人生一度目の屈辱は小学二年生の頃であった、私は遺伝なのか生まれてからずっとトマトが大嫌いで、給食に出されたトマトをそのまま残した私に対し当時担任をしていた女性教師がそれを見逃さず、膳を下げさせないで午後の授業を終わらせ、クラス全員を帰らせた後、私一人だけが居残りさせられた上、食べられないと言葉を発して泣いている口に対し、地獄のような拷問を行った。
「おいしいでしょっ」
と、無理矢理トマトを私の口に詰め込んだのだ、その女性教師を私は一生恨み、忘れないだろう。
この屈辱が今の歪んだ私の人物像を作り上げる糧となったのは言うまでもない。
現在であれば親が学校に殴り込むような事態が現実に起きていたのが私の小学生、当時であったのだ。
話しを戻そう。
文化祭の展示物、クラスの四分の一以上は私と教師が作ったと言っても過言ではない、造花などの手芸は女子の行う事、男子は屋台骨を組み立てたり訳も無くハンマーで木材に釘を打つものではないか、この屈辱の文化祭も一生忘れないだろう。
この文化祭に対し何が屈辱かと言えば無論、軟禁されている私以外の生徒がどうしていたかがわからなかったからである、これだけの造花の材料が運ばれたと言う事はもしかしたら帰りのホームルームが終わり次第、クラスの人間は全員そのまま帰宅したのではないか、夕方というより日も落ちて夜になっていたが、生徒指導室を脱出した私はがらんとした教室を見て自分がどれだけ嫌われているかを認識したのである。
これが人生二度目の屈辱であるが、自業自得とも受け取れるのは気のせいであろう。
時は流れ、中学三年生になった頃である。
私はクラスの女子に恋をしたのである、幼少の頃から「女性だから」と言う概念があまり無かった私は男女分け隔てなく遊んでいたが異性を意識したのはこの時が初めてであったと記憶している、つまり初恋である。
同じ班で給食を囲み、談笑し自然と惹かれていったのであり、決して野蛮な感情から女性を求めたのでは無い事を私は力強く宣言したい、論理的に異性に惹かれたのだ。
そして学習塾の帰り道、幼なじみと一緒に帰っている時にその娘が好きだと話した事で、張りつめた風船のような私の気持ちが破裂したのである。
翌日、家で電話すると家族に愛の告白を聞かれてしまう可能性があり、さらに告白の最中にご飯が出来た、または電話したいから早く電話を終わらせろなどの外野からの妨害、それだけは何があっても避けねばならないと言う事で近所の公衆電話に十円の束と当時は個人情報の大切さなど微塵もなかった事から連絡網で彼女の家の電話番号を調べ、書き記したメモを持ち、公衆電話まで駆け抜けた。
無論、今であれば携帯電話と言う便利な道具があるが、この頃はそんな物は肩から下げるような大型で高価で電話料金も高く、電波も繋がらないという時代であった。
そして彼女の家に電話をしている最中、私は大きな勘違いをしていた、電話をしたら彼女が出ると思っていたのだ。
「もしもし」
電話の主は彼女の父親であった。
張りつめた私の中では限界状態であった緊張の糸が突然の男性の声により引きちぎられ、新たに構築され鋼鉄で出来た緊張の糸が脳内を張り巡らし駆け巡った。
その後は吃り、噛みを繰り返しながら一方的な告白をし電話を切って勿論、近所を流れる荒川に飛び込もうとしたのは言うまでも無い、秋の寒空の下で飛び込んだら溺死出来たであろうが、無論その勇気もない。
どころか愛の告白が終わった事によって気持ちが高揚しきった私は学習塾に通う幼なじみに電話し、吃りと噛みを消した自己都合の良い饒舌な愛の告白を行った美談を語るのであった。
それから数週間後、彼女の友達から玉砕の報が知らされる。
追い打ちをかける如く、彼女が私に接していたのは私の隣に居た友人に好意を持っていたとの事を知らされたのであった。
彼女が私達、男子生徒に積極的に話しかけ、食卓を囲む班を楽しませていたのは隣の友人に興味があったからなのだ。
更に隣の友人は鈍感だったようで、彼女から年賀状が届いた事に何でだろうと不思議な顔をしているのである。
無論、私に彼女からの年賀状は届いていない。
全ての事実を知っていた私にしてみれば憤死寸前である、何故こういう顛末を迎えたのか。
責任者はどこか。
神様という存在が居るのならば、失恋の傷を癒し立ち直らせようと私の人生に何らかの細工をしたのか、ひょんなきっかけからボブという愛称の友人と知り合う。
本当にひょんなきっかけ過ぎて出会った記憶は微塵もないのであるが、彼の家に上がり込んでいた中学三年生の記憶は鮮明に残っている。
彼の家ではクラス分け隔てなく、心が歪んでいる者達が集まっていた、無論、私は彼と薩長同盟並の熱い握手を交わした。
受験を控えた学生とは無縁の猥褻図書や猥褻動画が持ち寄られ彼の部屋に集められていたし、彼もまた収集していた。
リビングのテレビでは野球ゲームの熱戦が繰り広げられ、廊下を越えた彼の部屋では猥褻映画会が開催され、彼の家の冷蔵庫にはいつも清涼飲料が補充されていた為、飲み放題、正に現実逃避の楽園であった。
しかし、稀にボブを集団暴行し泣かせる、またはボブがトイレに入った瞬間に全員が帰るという非行も行った。
ボブの家は鬱屈したストレスを晴らし、正常に戻った神経が最も敬遠する場所であり、鬱屈と正常のストレスが一気に決壊し集められた捌け口がボブ本人であったと言えよう。
私や心が歪んでいる者同士がクリスマスに鍋を囲んだ事にも触れておこう、具材はそれぞれの持ち寄りであった、普通ならば何をベースにするかは決めておくものであるが、中学三年生の鬱屈した心の持ち主達は各々イメージした材料を持って来た。
鶏肉、豚肉、牛肉、鱈などもはや闇鍋でしか表現出来ない具材の上にキムチ鍋のベースを浅漬けの素と勘違いした者まで現れいよいよ鍋作りは混迷してゆく、最終的に浅漬けの素をまる一本分鍋に流し込み鶏肉と豚肉、鱈、それに野菜を放り込み煮込む、牛肉はフライパンで焼くという顛末になった。
しかし、浅漬けの素に肉と魚と野菜を煮込んだという、箸が進まなそうな読者諸君の思考とは裏腹に非常に美味なる鍋となった事だけは私達の名誉の為に伝えておきたい、美味であったのだ。
ボブとの付き合いはこの先、高校進学後も続くのである、彼との付き合いが私の学力を更に低空飛行させた事は察するに易し、ボブと共に期末試験の最下位争いを行っている事が現実である。
人生の落とし穴を掘った責任者はどこか。
秋に咲いた桜の如く初恋が儚く、見るに耐えない散り際を見せてしまい、シングルベルを浅漬け鍋で過ごし、いよいよ私の人生が更に歪み始める進路選択が迫ってきたのだ。
当時、学区域と言うものが撤廃されるなど、私立校以外の公立校も区を超えて受験出来るようになった、無数の薔薇色に見える進学の扉が多岐に渡り開けていたと思われる。
しかし成績はボブの力も加わりかなりの低空飛行、ボブは推薦入試で裏金を使った疑惑すら持ち上がりながら高校への入学は早々に確定していた、何たる事か、私が取り残されているではないか。
そして人生三回目の屈辱もそこまで迫って来ていた、
卒業文集である、皆が三年間の思い出を書き記し思い出の一冊、嫁入り前の引っ越し整理に見つけて読みふけるなどという感傷的になり易い書物である。
私は、鬱屈していた為、この文集を三行少しで提出する。
巨漢に殺されかけた柔道部での一年と数ヶ月、稀に行われた科学部で蛙を解剖した思い出、三年生になってからはボブの家に入り浸り悪行に走る。
皆で汗を流した体育祭や、工作した文化祭などあるはずも無く特筆すべき思い出がなかったのだ。
それを見た担任が激昂し私を学年全員が居る前で首を締め上げる、罵声を浴びせ晒し者にした。
この事に関しては自分にも責があったが、首を締め上げられる暴力を振るわれる覚えもない為、大きな憤りと鬱屈した人間性を作り出していた事は間違いない、この担任は私の人生すらも変えてしまったと言える人物であり一生許せない人間である。
当然、予定調和の為に嘘を並べて原稿用紙を埋める事で解決したのであるが、これは序曲であり人生三回目の屈辱ではない。
進路について話題を戻そう、私は隣の区にある工業高校に魅力を感じていた。
その頃テレビでその高校が取り上げられ、水の力、水圧により物を切るという技術を見たのだ。
こんなハイテクノロジーがある学校に進学し、エンジニアの道を切り開こうではないか、そう思って推薦入試に臨んだ。
しかし、推薦入試の結果は落選、一般入試があるし、推薦で受かれば儲け物程度の気持ちでいた為、大した傷にはならなかった。
その翌日、登校前に家に電話がかかってくる、担任からであった、内容はこうである。
「お前の実力では志望校に合格する事は難しい、学校には遅れて来ていいから考え直してくれ」
つまり、私はここで一つの岐路に立たされる事になる。
不本意ながら学力が低い、倍率が低い普通高校を選ぶか、倍率は少し高めだが今まで学習塾で学んだ全てや過去問を解いて来た努力を持って、意地でも志望校に行くか。
そこに第三の選択肢が現れる、工業高校で近所の高校があると発見したのだ。
倍率は志望していた工業高校よりは低く、学科三教科と面接により合否判断をされるとの受験内容であった。
一度、推薦入試で面接は経験していた事も手伝い、私は志望校とは別の工業高校を選ぶ事にし、担任と相談する運びとなった。
担任は開口一番に進路変更について考えてくれてありがとうなどの感謝を述べた。
今を思えば、ただ自分のクラスで高校進学が出来ない生徒が居る事を避けたい、保身の交渉だったと思えてくる。
大人の保身の為に人間一人の人生を変える、この事実が三度目の屈辱であった。
そして受験戦争が終わった、ジュニアハイスクールライフの完結である。
学科試験、面接と手応えを感じながら合格発表の掲示を見に行き、落ちた人も居るのだから決して喜ぶなと念押しされたが、勝利の美酒に酔いしれたかった私は自分の番号を見つけるなり、不敵な笑みを浮かべ、立ち去ったのである。
後は、口パクの合唱祭、卒業式、もはや地域性に縛られて、小学校の頃から顔見知った連中とは永遠に会う事がなくなり自由に新しい自分を創造出来る、屈辱の無い新しい環境へ進めると、私の道は桜の花吹雪で美しく彩られていた。
第二章:菊の紋咲き乱れるハイスクールライフ
ここからはハイスクールライフの始まりである。
三年間、色の濃い生活を送って来た為、固有名を持った人物も登場していくので多少はいい思い出があったと察していただきたい。
しかし、この学生生活も充実もしていたが、いささか見るに耐えない。
入学式を迎えた私が驚いた事と言えば、工業高校とは手に職を持ちエンジニアになる為の高校だと思っていた事とのギャップであった、更に言えば男女共学ではない男子校である、他の科と同じ科に女子生徒が少数居たが、九割九分は男子であったと理解していただきたい。
周りは俗に言うヤンキーと呼ばれる不良の集まり、原付バイクを乗り回す暴走族の予備軍、三年生には人を刺して逮捕された先輩が居るなど、入学早々にエンジニアの夢が遠ざかっていた。
入学早々、学級委員を決める際に担任から決まるまで帰れないと言われ皆が険悪になり、暴動が起きかねない状況である事を察した私は早々に挙手をし、自発的に学級委員となる事を決めた。
しかし良いではないか、過去を知る者は居ない、新しい一歩として皆から好かれて、教師からも信頼されようではないか、今までは地域性により子供の頃から見知った連中もなく、内向的であった私の性格を一気に変革させる好機ではないかと、判断したのだ。
その事により、不良達からも学級委員の愛称で打ち解け始め、頭髪は前髪がトウモロコシのような出立ちで口より先に手が出そうな連中も話してみれば同年代のただの少年である、彼らを味方に付ければ怖いものなど無いと悟った私は、彼らの文化も取り入れる為に整髪料で髪の毛を不良風に変えたのだ。
しかし、今まで内向的に生きていた私にとっては、その姿に無理があったのは言うまでも無い。
そして喫煙や飲酒もこの頃に全て経験したが、貞操だけは守り通してきた。
だが、彼らにその事を話せば一気に立場が変わる、または無理矢理貞操を奪われかねないと言う恐怖から、中学校の頃からの彼女と言う架空の女性、成就しなかった中学校の恋を成就させたという物語を作り、その場を凌いだ。
喫煙に関して今思えば可愛いと思う事なのだが、必ず喫煙するのは学校の近くで集団喫煙していた事だ、何故見つかり易い所で皆戯れていたのだろうか、制服姿のまま、見つかれば停学させられると言う事も知りながらの浅はかな時代である。
彼らとの共通の話題は、クラスに二人居た女子生徒の話である、無論、猥談が殆どである。
女子生徒二人は対照的であった、一人は活発的で、男子生徒と隔てなく話し名を小野さん、もう一人はおっとりとした女性で名を冨永さんと言うのであった。
共に外見は守備範囲内の美貌を持ち合わせていた、山姥メイク、日焼けサロンに通うなどとは程遠い、逆に言えば何故、このような不毛な大地に花を咲かせてしまったのかを問いただしたくなるような二人であった。
無論、私は彼女らに何とか接近し抜け駆けしようと、学級委員という権限を活かし何か出来ないか模索していた。
工業高校の授業は中学校一年生の学習から始まった、はっきり言えば私は群を抜いて成績優良な生徒に生まれ変わったのだ。
中学校までは最下位から数えた方が十本の指の中に自分が見つかる状況であったが、高校に入ってからは上位から十本指に入る成績に変わっていた。
当然、自信が持て、体育も参加、合唱が苦手であった私は成績と直結するとの説明を受けた選択授業で音楽を選んだ。
選択音楽の授業は聖者の行進をピアノで弾くだけで済み、音楽の欠点を見事埋められたのである。
つまり落ち度がない、何処にも穴の無い生徒になりつつあった。
そうして自分の変貌ぶりに驚く一学期が終わる。
夏休み期間はボブの家に泊まり込みで入り浸り、一日中ゲームをしていた。
宿題を早々に済ませ遊び呆けていたのであった、そんなある日、事件が起きる。
親から携帯電話を持たされたのだ、不良達と遊ぶと帰宅も遅くなる事から所在確認の為に携帯を持たされる事になった。
当時、携帯電話と言えばモテる男のアイテムと言われる時代であった、私の気持ちは高揚した。
早く夏休みが終わり、女子生徒二人に番号を知らせ、密談を交わしあわよくば恋に落ちようと思っていたのである。
論理的な事を差し置いてエロで頭を一杯にしていたと言っても否定は出来まい。
しかし二学期が始まり、周囲で携帯電話を使い始めるが学校では未だ普及しておらず、最先端技術の結晶として扱われ、モテるではなく時代を一歩進んだ男と思われてしまい、注目を集める事は無かった、これは大きな誤算である。
そんな中で私はこの不毛な学生生活に彩りを加えるべく、自ら行動を起こしてみたのである。
不良を相手に遊んでいた一学期とは違い、部活に所属しようと思い立ったのだ、しかも体育会系ではなく、かといってパソコン部や科学部など中学校にあったような部活は避けて、新たな扉を開いてみよう、そこには輝ける薔薇色のハイスクールライフが待っているのでは無かろうか、と部活動の案内を見ていると、体育会系ではあるが、やった事の無い弓道部、ただ筋力増幅のトレーニング部、書道部、茶道部が目に留まった。
そこで私が選んだのは、茶道部であった。
何故ならば、この工業高校の中に茶道室と言う聖域、専用の六畳程度の和室が用意されていたのだ、そこに入れる特権を得たい、学校中の全ての教室に入りたいと言う欲求を満たしたい、そして一番の注目すべき点は他の科であったが女性の先輩が二人も所属していた事から私は迷う事なく入部届を提出する。
茶道部では外部からお茶の先生を呼び、礼儀作法を教わる事が主な活動であった。
ここで私は大きな過ちを犯した事に気付く、私は抹茶がそんなに好きではなくどちらかと言えば珈琲党であり、お茶菓子が嫌いであったのだ、しかし、自分から入部届を勢い良く提出しておきながら先輩や外部の先生の前でお茶もお茶菓子も嫌いですなどと言えば学校の近くを流れる隅田川に簀巻きにされ放り投げられるのではないかと恐れ息を止めて苦手なお茶菓子を食べて過ごしていたのである。
そう、私は女性の先輩が居るという下心から茶道部に入ったのではないのだ、華やかなるハイスクールライフの第一歩として不良達が決して入室する事が出来ない茶道室と言う聖域に足を踏み入れたい好奇心と理論によって入部したのではないか。
そんな中で転機が訪れる、お茶の先生が痴呆症になり茶道部が廃部となるのだ、その時に部員、先輩二人と私であるが、討論を行い絵を書きたいと言う結論に至った。
私は当時絵心があった為、賛成をし、顧問もお茶の先生やお茶菓子など外注に出費していた部費よりか画材を調達する方が安価という事も手伝い、その年の文化祭を節目に美術部を設立する運びとなる。
美術部は主に一枚の画用紙に好きな事を書くという、活動を行い始めていた。
漫研としなかった事は顧問からオタクと言う人種が集わない事を約束する事で部を発足し運営していく方針であった為で、とても環境は素晴らしいものであった。
その時期に私に小野さんから声をかけられる、もはやモテ気の到来かと思わせるような事態である。
小野さんは私に生徒会に入って活動しないかと、声をかけたのである。
千載一遇の好機ではないか、中学時代の成績は地面すれすれの低空飛行であった私にとって無縁であった、というより阿呆な生徒が入り込める余地がない未知の世界、生徒会という領域、そこには小野さんがいる、下心はないと言い切れないが、地域性に縛られ鬱屈した自分を切り離し新しい自分を見つけ出せる好機ではないかと、この時も論理的に決心したのである。
迷う事無く私はアルバイトという道を捨てて生徒会に所属する事になる、一番学校に貢献していたのではないだろうか。
私は執行役員と言う、名ばかりの役職を与えられ生徒会室にも出入りするようになる。
この年の文化祭ではカラオケの機械をレンタルしのど自慢大会を開催するという生徒会が主催した中では史上最大のビッグイベントを行う事になる、しかし私は所詮一年生であり、のど自慢のスタッフにもなれず、二学期からの入部という事もあり茶道部の活動にも参加させてもらえず、かといってクラスの催し物であった、やきそば屋台にも馴染めず、部活と生徒会という新たな一歩を二歩と勢い良く踏み出した代償として孤独な文化祭を迎える。
そして二学期の後半にもなると一学期に仲の良かった不良達は出席日数の足りなさから退学していく事になり、気がつけばクラスの半数が退学していた。
そうした中でついに小野さんと携帯電話の番号を交換する事になる、当時はメールのやり取りだけで胸が踊ったものである。
他に得たものもあり、当時の生徒会長、柏田先輩から信頼を得たのだ、これは私と生徒会長の趣味、特に好きな漫画やセンスが一致していた事から意気投合、良き先輩後輩となったと思われる。
この秋ほど充実した青春の時期はなかったのではないかと実感するところである。
そして二学期が終わり、冬休みに入る、その時に学習塾に通っていた幼なじみから短期バイトを一緒にやろうと誘いが来る。
私は当時最新機種であったゲーム機を欲していた事もあり、快諾する。
簡単な面接の後、採用が決まる。
老若男女、様々な人たちと過ごし、年末には高校生にとってしばらく遊び放題な金額が振り込まれる、欲しい物を自分で購入するという、当時は無趣味であった私にとっては大きな経験になったと実感するところである。
さらに、短期バイトの中で可愛い女性を発見した事で幼なじみとその女性の会話だけで一日が早く流れた事を記憶している。
そして遊び銭を得た私は更に三学期を充実して過ごして行く事になる。
この頃には堅気の友人も増え、私も無理に髪の毛を固めるなどはしなくなっていった。
高校二年生が始まり、工業高校でも新たな試みとして進路選択を求めるという方針が決まった。
一つは機械設計、もう一つはカーメカニクスであった。
私はカーメカニクスに興味があったが、小野さんと堅気な友人たち、柏田先輩が機械設計の道を選んだ事から空気に流され機械設計の道を選ぶ事になる、おっとりした冨永さんは自動車整備工になる夢を持っていた事からカーメカニクスの道を選び、クラスには紅一点、小野さんのみ在籍する形となった。
ここで私は様々な人物に出会う、イケメンを名乗るマサと言う八の字眉毛で能面のような顔の天然パーマ男である、どう見てもイケメンという要素が一つも無い事は言うまでもない。
そしておよそ褒めるべき点が一つもなく、保存食やコンビニ弁当ばかりを食べている事で顔色が青く、夜道で彼と出会えば八割は妖怪と間違い二割は妖怪である悪友となる並木と出会う。
イケメンのマサは初めはとっつきにくかったが、同じゲームの趣味を持ち合わせていた事から意気投合、学校に居る間は必ず彼と話しをしていたと記憶している、野球談義やアニメ談義、猥談で盛り上がっていた、さらにイケメンのマサも一年生時代の私と同じく空想の彼女を飼っていた様子で名をヒナコと言う、同じ中学校だった女性と付き合っていると豪語していた。
無論、彼とヒナコを同時に確認した者はいない。
並木については、恐るべき嗅覚を持ち合わせており、一年生まで順風満帆に過ごしていた私のハイスクールライフを堕落させていくのであった、しかし、並木と言う男は何故か憎めない性格の持ち主でもあり、過去の私を映した鏡のような存在であり、鬱屈した人間性を私に呼び戻していったのである。
彼との遭遇はある日突然、並木が茶道室に入り込んだ挙げ句、女性の先輩を確認した途端に顔色を変えて入部したのである。
後から彼が自白したが、同級生の女子二人にアタックをかけた後に振られた場合、慰めてくれる先輩が居たら慰めてもらえ、甘えられるのではないか、更には一年生の頃から部活に所属している私が居るから先輩の人柄や機嫌、状況が読み易いと、なんと建設的な理屈をこね上げ入部をしてきたのである。
この妖怪を呼んだ責任者は何処か?
そんな並木が加わった私の生活は蝉が七日で落ちるように、一週間と経たない内に転落を始めてしまう。
まずは、女性の前では禁句とされてきた猥談である、薄気味悪い小声で私にぶつぶつと話しかけて来るのである。
それは、私に向けているのではなく、先輩に聞き取ってもらう為に私を介して先輩に話しかけている事なのだ、恐ろしい妖怪である。
先輩は私と並木の猥談を邪見にせず接してくれていたが、恐らく心の中では引いていたであろう、一年生の頃は純粋無垢のような真面目な生徒であった私が突然、同級生の介入により化けの皮が剥がされ、猥談を繰り広げているのだ。
しかし、イメージダウンは無く、逆に先輩から普通の男子として見る事が出来て良かったなど、安心の言葉を得るという、結局の所は並木に感謝する結末になる。
だがしかし、新入部員の一年生は、正に純粋を地で行くような青年で、彼だけは並木の毒牙から守らねばならない、一年生の彼は汚れなき白だ、私のような灰色ではなく、彼の脳内には猥も褻も何もなく、大人の汚れを知らない子だったのだ。
しかし、その不安も意外な形で終わる、新入部員の子はあまりに無垢すぎて猥談に付いて来れないのだった、様々な猥談は彼にとっては化学元素記号についての語り合いを熱弁し合っていると見えていたのである。
そして季節は流れ先輩との最後の文化祭である、そして美術部としては初の文化祭が迫ってきた頃である。
並木は延々と顧問の顔を模写し続け、それに細工をして死神や魔女を作り出していた、妖怪が化け物を書いている図は何とも滑稽であるが、そんな私は先輩や後輩とラミカードを作りながら短編漫画などを書いていた、警察物だった事は覚えているが、今考えると常に拳銃を携帯している警察官などいないし、かなり突飛した内容の警察漫画を書いていたと思うのである。
文化祭についてはこの年はクラスは生徒会を優先させてくれ、優先された生徒会は運営に携わり、看板の作成と今後の文化祭を考えて備品を買い揃えて貸し出しする事で経費を使った為、前年のようにカラオケの機械を借り、のど自慢大会を行うなどの大規模な催しを行わない事から部活に専念が出来たのである。
文化祭当日、ラミカードは盛況で売れ、短編も午後には増刷しなければ間に合わないという、美術部が売り上げを伸ばした結果となった。
そして、美術部初の打ち上げが行われ、先輩たちの同級生(無論女性である)を連れて近くのお好み焼き屋にて大いに盛り上がった。
無論、盛り上がりのきっかけは並木と私の猥談である、この猥談に対し先輩の同級生は当時の私たちにとって興奮する回答を沢山返してくれ、女性も強く異性を求める事がある事を知ったのである、この当時、我々と言っても私と並木のみであるが、男子は猿の如く発情し、女性はそれを忌み嫌うと言う発想を持っていたのだが、先輩たちから女性とて人間であり、欲求が抑えられない時は勿論あると言う言葉に我々は大きな希望を抱き、逆に女性から求められるという夢を見る事を覚えたのである。
さらに盛り上がった挙げ句、並木が乳談義を始めてしまった、もはやそのテンションは収まる事を知らず、私は腹筋が割れる程笑い続けるしかなかった、理想の乳の形から乳輪の色、大きさまで自分の好みを赤裸々に語り出したのである。
先輩はその点も笑いながら答えてくれて、胸が大きいと可愛い下着がなく、おばさんのような下着しかない事が先輩から告げられるなど、もはや我々は妄想で先輩のブラウスの下にある桃源郷を妄想し、互いの暴れ馬を抑える事だけで精一杯になっていた。
その熱心な議論を純真無垢な後輩がどう聞いて、何を思ったかはもはや眼中には無かった、私も打ち上げの空気に完全に飲まれたのである。
文化祭が終わった後、興奮が冷めやらぬ私と並木の手はついに、もはやアイドル化していた小野さんに伸びようとしていた。
我々は彼女のスカートの中身を拝みたくチャンスを伺う事、また彼女に好意を持つ者あればその気持ちを死神の鎌を振り下ろすが如く遮断し、何かと彼女に声を掛ける男子に対して「彼女はお前に話しかけられる事を生理的に嫌っている」などのデマを何回も風潮し、牙城を築き上げていった。
そして外堀を埋めて本丸に取り付く魂胆である、私も並木もクラスの女子を巡る戦いの中では互いにライバルではあったが、周りを飛び回る五月蝿い男子を排除していく事には賛成であった為、共同戦線を張ったのだ。
一人、我々の誹謗中傷のあまり不登校になり退学した奴が居たが、その時は人間一人を追い込んでしまった言葉への恐怖を思う事より、これこそ我々の求める「恋の糸切り裂きジャック」という称号の賜物、ついに一匹でかい蝿を撃ち落とした達成感で一杯であり、充実感に溢れていた。
高校二年生の秋と言えば、三年生が卒業に向け様々な申し送りをする時期でもある。
私は二年間関わった生徒会から離れようとしていた、柏田先輩が居なくなり、小野さんも乗り気ではなく、もはや楽しみは無いと判断したのである。
生徒会を担当している教師は私をどうしても生徒会に残したかった上に柏田先輩と仲が良かった私に生徒会長を任せたかったようで、強く引き止められたのであるが、私は異性との楽しみが無ければ授業が終わり皆が下校していく中で慈善事業の生徒会、更には学生の頂に立つ生徒会長など荷が重く、参加する意味が無いと拒絶し避けていたのである。
その押し合い引き合いをまとめたのが何と妖怪並木である。
並木は恐ろしき策略を私に話し始めた、女性教師に手を出す計画である。
私が生徒会長、並木が副会長を務める代わりに担当する教師を指名させろと言う計画である、何処までも底の知れない悪事を考え付く妖怪であろうか。
人材難を極め憔悴し切った生徒会を担当する教師にその条件を提示したところ、会長と副会長の座が埋まってくれれば後は一年生を連れてくれば何とか運営出来るという安堵からか条件はあっさりと飲まれた、これには私も並木も驚いたが、我々の顔が妖怪の笑みをたたえていた事だけは間違いないであろう、その数週間後に私が学生の代表、生徒会長となるのである。
推し薦められて生徒会長となった私であるが良い事も稀にあるようで、社会科の授業で歴史ビデオを鑑賞する授業があったのであるが、小野さんは何故か椅子に座らず、窓辺に腰をかけていた。
そして教室が暗くなり、ビデオが始まると無論眠くなる私やクラスほぼ全員であったが、普段は人の三倍は早く眠りの深淵に身を投じる並木が鼻息を荒くしながら声を掛けてきたのである、妖怪としか例えようが無い。
「目線だけを小野さんに向けるんだ」
そう言い残し、並木は眠っているのか薄目を開けているのか分からない薄気味悪い表情と姿勢で机に頭を付け微動だにしなくなった。
私も並木の言う通り、そして並木の体勢を真似して寝てみた所、なんと小野さんのスカートの中身を拝見する事が出来たのである。
思考は現実となるとは言うがこういう形で叶ってしまう、しかもよりによって並木が第一発見者であり、私はそのおこぼれをいただいたような形であるが。
しかし、論理的思考とは別にこの時、私の身体は暴れ馬のスタルヒンを不毛な荒野に走り回らせていた事は察するに易いであろう。
その年の年末、前年と同じく遊び銭欲しさにまたも幼なじみと短期バイトを始める。
この頃は非常にギターを弾きたいという欲求に駆られていたのである、何とか一つ、絵とは違う世界を覗きたいと切に願った結果であろう。
幼なじみは高校でドラムを叩いていた事から話は一気に加速していく、一緒にバンドをやろうかと誘ってくれたのである。
私は小中学校と一緒で中学校時代にギターを弾いていた友人を思い出し、即刻電話をし、教えを乞うたのである。
彼は快くギターを教えてくれ、私は睡眠時間も削り反復練習を行い、一週間も経たない内に最大の難関であるFコードを弾けるようになる。
気を良くした私は譜面と睨み合いを繰り返しながら、独学で様々な曲を弾き始める。
しかし、この行動により後の人生が目まぐるしく動き回る事になるとはこの時は知る余地もない。
この件は音楽を選んだ私が責任者である。
学校生活は小野さんのスカートの中という素晴らしい光景を目に焼き付け、それを反復するように語り合う中でバレンタインの時期になる。
小野さんから手作りシュークリームをいただき、並木と食す、何故小野さんとではなく妖怪並木と共に食べなければいけないのか。
イケメンのマサは小野さんにもお菓子にも興味がないらしく、他の生徒にシュークリームを渡していた、何故なら彼は購買にたまに来るお姉さんに恋していたからであり、バレンタインの日にお姉さんが購買にいなかった事で機嫌が悪かったという事であった。
そして、私は高校三年生の春を迎える。
高校二年の三月で同世代の異性、小野さんと冨永さんが退学してしまい、ついに男子生徒しかいない教室が完成してしまうのであった。
小野さんは付き合っている男性と子供を作り育てたい、母親としての道を早くに選びたいという理由であった。
少し我慢してくれていれば私が父親になろうと名乗りを上げたであろうに、悲しきかな、叶わぬ恋ほど散り際もまた美しいものである、美談としておいていただきたい。
冨永さんは地元の車輌修理工場で高校生の途中ながら早々に内定をもらった事から卒業せずに就職を始めるという結末になった。
ついに不毛な男子のみの学年が完成してしまうのであった。
しかし、がっかりする気持ちの予想を反し、男子だけで固められたクラスはそれで気持ちがよかった。
十分の休憩時間に教室内でサッカーを行い、蛍光灯を割ったが、教師に誰一人見られる事なく用務員室に蛍光灯が切れたとの言い訳をして新しい物と交換し、割れた蛍光灯の残骸は余ったロッカーにぶちこんで南京錠を設置した。
サッカーを行い蛍光灯を割り、新しい蛍光灯を設置するここまでの作業は次の授業が始まる前に終了していた、つまり団結力の塊であったのだ。
この堅気で愉快な連中と最後の一年を送るのも楽しいと、同世代の異性が居ない事をあきらめ私も開き直ったのである。
そして、並木と二人で女性教師に手を付けると言う事態にそれは発展していくのだ、英語教師には事前に図書館(高校に図書室は無く、図書館が併設されていたのである)で調べた英語で猥談を持ちかけ恥じらわせ、科学の教諭にはいつまでお姉さんでいられるかなどとからかい、甘酸っぱいトレンディドラマのような教師と生徒の間柄を醸し出し、家庭科の教師に至っては調理実習であったが調理を全てしてもらう、男子厨房に入らずを実践していた。
成績の低い生徒への悪事も所構わなくなっていた。
工業校なので製図を書くのだが、図面を書く事に悩んでいればフリーハンドで書いてもばれないから書けと、普通ならコンパスを使う円をフリーハンドで書かせて提出させ涙を流す程笑い倒す、下衆と言われても全く動じないのである、気になる異性がいない今となってはクラスを楽しませる事が一番の楽しみとなったのだから。
時は流れ別れの季節が訪れる。私は就職、並木は絵の専門学校へ、お互いの才能を最後まで認めないまま袂を分かった。
卒業式である。ついに来てしまったこの春、思い残す事は黒髪の乙女との仲睦まじい逢い引きではないか?
これを実現できずして私の青春は終わってしまうのか。
語りたくもないが、その通りであった。
ここまで付き合ってくれた読者諸兄、また奇特な乙女よ、私の人生を通して伝えたい事がある。
楽器を演奏出来てもモテない、最新携帯を持っていようとモテない、また出過ぎた杭は目立ち過ぎて逆にお腹がよじれて引き千切れてしまうほど周囲の注目を集めてしい、打ち込まれてしまうという事である。
これから薔薇色のキャンパスライフを謳歌したいと思うのであれば気を付けていただきたい。
そして、これはフィクションであるような気もするが、若干の脚色はあるがやはり事実である。残念
書き始めて早くも半年、締切太郎は随分待ってくれました。そして誰が読むかも分からない物を作ってしまいました。
こんな処女作ですが、一読していただけたら幸いです。
今度はもう少し早く作品を作り上げていきますので宜しくお願いします。
凛世