第二章
一
切り裂きジャックの犯行と確実に認められているものは、次の五件である。
被害者は、いずれも売春をして日銭を稼いでいる女たちだった。
一八八八年八月三十一日――メアリ・アン・ニコルズ、当時四十二歳。
ホワイトチャペルロードに面した、ホワイトチャペル駅のすぐ裏手にあるバックス・ロウ小路で発見される。
喉に二カ所の裂傷、腹部に刺傷。
一八八八年九月八日――アーニー・チャップマン、当時四十七歳。
ハンバリー・ストリートにある長屋の裏庭で発見される。
喉に二カ所の深い裂傷。子宮と膀胱を犯人により持ち去られる。
一八八八年九月三十日――エリザベス・ストライド、当時四十三歳。
ホワイトチャペルのバーナー・ストリートで発見される。
喉に一カ所の長い裂傷。
一八八八年九月三十日――キャサリン・エドウッズ、当時四十三歳。
オールドゲイト駅のフェンチャーチ・ストリート側から三本目の通りであるマイター・ストリートの広場、マイター・スクエアにて発見される。
喉に一カ所の深い裂傷。左の腎臓と子宮を犯人に持ち去られる。
一八八八年十一月九日――メアリー・ジェイン・ケリー、当時二十五歳。
ミラーズコートの貸間部屋にて発見される。
喉に一カ所の深い裂傷。皮膚や内臓を含めほぼ完全にバラバラにされ、切り取った内臓や肉は机の上に積み上げられるという、最も残忍な殺され方をした。
切り裂きジャックという名前が、本人と思しき人物からの投書によって世間に知られるようになる前には、「レザー・エプロン」という名前で認知されていた。
理由は、第二の被害者であるアニー・チャップマンの殺害現場の裏の水道栓の近くに、水浸しの作業用エプロンが落ちていたことに由来する。それは職人や運搬人夫、屠者などがナイフで我が身を傷付けないように身につけるエプロンだった。
結局すぐに、エプロンは犯行には関係がなく、長屋の住人が不要になった物を捨てたというだけのことだったが、スコットランド・ヤードがあいまいな態度をとり続けたために、「レザー・エプロン」という名前だけが各新聞社の報道の中で加熱し、もはや取り返しのつかないところまで盛り上がってしまった。
年齢三十代、身長五フィート七インチ、浅黒い顔、黒い口髭、黒一色の服装、外国人なまり、そして、レザー・エプロン。こうした犯人像はユダヤ人と結びつけられた。ユダヤ人に対する根深い差別が、彼らへの非難を更に煽った。
奇しくもこれらの条件にぴたりと当てはまる人物が、マルベリー・ストリートに存在した。
その靴職人のユダヤ人青年は、界隈の人々からまさに「レザー・エプロン」というあだ名で呼ばれていたのである。
だが、この青年には確固としたアリバイがあった。即日釈放された彼は各新聞社を訴えたが、記者たちは反省することもなく、スコットランド・ヤードの無能を糾弾するばかりだった。
――そんな中、一八八八年九月二十五日に「切り裂きジャック」を名乗る者からの手紙が、セントラル・ニューズ・エイジェンシーに届いた。
それは、犯人が売春婦を憎悪しており、これからも犯行は続くと示唆する内容だった。
そのとおりに十一月まで犯行は続いたが、それ以降はぱったりと、切り裂きジャックの手口らしき殺人は止まってしまうのだった。
しかしロンドンはそれからも長きに渡って、姿なき殺人鬼の影に怯え続けた。
――喉の深い裂き傷、腹部切開、内臓の一部切除。悲鳴を聞き付けた者もいない、目撃者無き犯行。
特に第三の被害者エリザベス・ストライドを殺したあと、のちに「二重殺人事件」と書き立てられた、同日に被害に遭ったキャサリン・エドウッズの殺害は、警官の巡回の目をかいくぐり、わずか十五分の間に成し遂げられた犯行だった。
その鮮やかで、解剖学に精通した手口から、犯人は教養のある人間――弁護士や医者である可能性が高いとも言われている。
とはいえ確定的な物証などは未だ見つからず、何人かの容疑者も挙がったが逮捕には至らず、結局一年を経た今になっても切り裂きジャックは世に野放しとなっている。
この間に、切り裂きジャックの犯行だと騒がれた事件も数多く記録にある。
「……切り裂きジャックの事件資料って、頼めば見せてもらえるの?」
朝食の席で切り出したエリアに、リーランドはしかめ面をして見せた。
「無理だ。一般人はもとより、捜査を外れたら警官だって閲覧はできない。大きな事件になったから俺も一時期捜査に駆り出されたが、そもそも管轄が全然違うからな」
「そう……」
「興味があるのか? まあ、おまえの好きそうな気味の悪い事件だがな」
「まあね。新聞で取り上げられた分は、もうだいたい調べてあるんだけど……」
ただの興味本位で新聞の切り抜きを取っておいたことが、まさかこんな風に役に立つとは。
「ずいぶん熱心なんだな。次の作品の題材にでもするのか?」
「まあね」
「その無気力な返事のしかたはやめなさい」
リーランドは父親のような口調で言い、エリアはただ軽く肩をすくめた。
「……今年の八月に起こった、アリス・ローダデイルって女性が被害者の事件は覚えてる?」
リーランドは紅茶を飲みながら軽くうなずいた。
「ああ。ちょうど今追っている事件だ。俺と同じ髪と目の色をした女性だから、印象に残っている」
「それって、切り裂きジャックの犯行として捜査されているの?」
リーランドは軽くかぶりを振った。
「でも、新聞はあの事件も切り裂きジャックの仕業だって書いてたけど」
リーランドは蜂蜜色の髪を掻き上げ、優雅な笑みを浮かべた。
「新聞というのはなんでもおもしろおかしく書き立てるものさ。惑わされないようにな。……まあ、たしかに、アリス・ローダデイルの殺され方は切り裂きジャックのものと似ていたよ。右の耳の下から、こう、左の耳の下にかけて、鋭利な刃物で一気に喉を切り裂いていた。おそらく背後から襲いかかったものだから、犯人は左利きだ。切り裂きジャックも左利きの人間だと言われている。だが、これは内密の話だが、切り裂きジャックの犯行のときにはなかった特徴が見られた」
エリアは思わず身を乗り出した。
「それって?」
「アリス・ローダデイルは長く美しい金の髪の持ち主だったが……その髪が一掴みほど切り取られて持ち去られている。ジャックが被害者のうちの何人かの腹を切り裂いて、臓器を持ち帰ったところを模倣しているのかもしれないが」
「へえ……」
エリアはアディに見せてもらった手紙のことを言いたくてたまらなくなったが、その誘惑をなんとか押さえて、豆のスープ煮を口に入れた。
「ついしゃべりすぎた。誘導尋問はこれまでにしてくれよ、エリア」
リーランドはそう戒めながらも、なんとなくうれしそうに微笑んだ。
そのとき、エリアの背後の窓になにかがぶつけられた。
ガラスが割れるほどではなかったが、その凶行は二度、三度と続く。泥の塊かなにかで窓が汚れてしまった。ジェンセンがすぐさま外へ様子を見に行った。
「まったく、暇を持てあました人間というのは存外に多いんだな」
「兄さんの偽物、まだ捕まってないんだね」
リーランド自身は、恨みも逆恨みもよく買っているので誰の仕業か絞れないなどと言うが、リーランドの姿と名を騙る何者かがあちこちで不義を働くせいで、屋敷に嫌がらせをする者があとを立たなくなってきているのだ。庭に豚の臓物を投げ込まれたり、外壁に卑猥な文句を書かれたりする。
「この俺の姿を騙るとは大胆な奴だ。これほどの美しさを真似できる者などそうそういないと思うんだが」
「……背格好が似ていれば金髪の鬘でも被って、周りの人間がみんな酔っぱらってるような場所ならごまかせるんじゃない?」
なにげなく言ったのだが、リーランドは緑色の瞳を輝かせた。
「なるほど……たしかに、コニーが収拾してきた目撃情報の大半がウェストミンスターからシティにかけてのパブの周辺だった。それで得心がいったよ。更に範囲も絞れそうだな。さすがは我が弟だ」
エリアは照れくさくて、リーランドから目を逸らした。
そこへ、ジェンセンが心底残念そうな顔をしながら帰って来た。
「……申し訳ございません。逃しました……」
エリアはほっとした。きっとジェンセンに捕らえられた者は即刻その場で、いたずらの代償に見合わぬ恐ろしい目に遭ってしまっただろうから。
電話のベルが鳴り、再びジェンセンは食堂を出た。ジェンセンは常に忙しくしているが、あくまで優雅に、猫の脚のように一切の音を立てない。執事の鑑である。
「リーランド様、マクファーデン警部からのお電話でございます」
すぐに顔を見せたジェンセンと入れ替わるために、リーランドはうなずいて立ち上がった。
エリアが紅茶を飲み終えたときにリーランドは戻って来て、のんびりと椅子に座りなおした。
「珍しいね、マクファーデン警部から直接電話なんて。あの人兄さんのこと毛嫌いしているのに」
「なにを言う。警部殿は俺を信頼し、人間として愛しているぞ。態度はぶっきらぼうだが、俺にはちゃんと本心がわかる」
そうは思えない。警部の仕事として、官舎に居住していない部下の住まいを月に一度は訪問するという義務があり、エリアも何度かマクファーデン警部とお茶を共にしたが――まだ三十代半ばと思しき割と見目のいい男だったが、リーランドの戯れ言にいちいち反応して苛々しっぱなしの、堅物そうな人だった。
「用件はなんだったの?」
「……ああ。そういえば今日の夜、ご婦人とレストランに行くんだったな?」
「え? ああ、予約してくれたんだろ?」
「まあ問題はないだろうが……ハイド・パーク近くの小路で殺しがあったので、直接現場に向かうように言われたんだ。さっき話題になったローダデイル嬢の事件と関係がありそうだ」
エリアは眼鏡の奥の瞳を丸くした。
二
ウェストミンスター寺院やヴィクトリア駅を管内に持つB管区の警部であるロイ・マクファーデンは、短く整えた焦げ茶の髪を撫でつける仕草を何度も繰り返しながら、髪と同じ色の鋭い瞳で地面を見下ろしていた。
建物と建物の間にある非常に狭い袋小路の奥で、うつ伏せに倒れている金髪の若い女。
ざっと調べた限りだが、致命傷は喉の深い裂傷。右の耳の下から左の耳の下にかけて一息に切り裂かれている。争った形跡はない。
死ぬ前は綺麗に編み込まれていたであろう髪は乱されて、一部が無造作に切り取られていた。
犯人はすぐ側の通りで被害者を殺して、この袋小路の奥まで引きずって移動させたらしいが、昨夜の霧雨の影響で血の跡はほとんど流れてしまっていた。
傷の具合や被害者の特徴から見て、七月にチャリング・クロス駅近くの小路で、アリス・ローダデイルという貴族の娘を殺害したのと同一犯である可能性は濃厚だと思われた。
髭を生やした恰幅のいい巡査が駆け寄ってくる。
「おはようございます、マクファーデン警部」
「ああ。報告を頼む」
「被害者の名前はプリシラ・エージー。二十一歳。婚約者だという男がさきほど身元を確認しました。昨夜二十時過ぎ、この近くにあるコンサート・ホールの前で喧嘩別れして、プリシラ・エージーはひとりで歩き去ってしまったそうです。それを探して婚約者は夜中じゅう歩き回っていたそうですが、結局第一発見者は、ここらで道路掃除の仕事をしている少年でした」
「ごくろう、引き続き周辺の聞き込みにあたってくれ」
「警部殿」
軽やかな美声に呼びかけられ、マクファーデンは眉間に三本も深い皺を作って相手を見た。
「……フォスター、いいかげんにそれはやめろ」
金ボタンが縦に八つ並んだ詰め襟のオーバーにヘルメット――無論それは、他の巡査部長および巡査となんら変わることのない制服姿なのだが、リーランド・フォスターという二十六歳の巡査部長は、あたかも有名ブランドの広告から飛び出してきたかのような別世界の人間で、彼だけどこぞの王族の服をまとっているかのように錯覚してしまう。
「なんのことです?」
男から見てもぞくりとするほど魅惑的な笑み。それはおそらく、不慮の事故による他界をロンドン中から嘆かれた女優、セオドーラ・ワースとうり二つの美貌のせいだろう。貴族出身の紳士らしからぬうっとうしい髪型が余計に似せているのだ。短く切れと何度注意しても聞かない。あいまいに返事をして、天使のように微笑み、そうして結局己の意志を曲げたことなど一度だってないのだ。
「殿だ。殿なんてつけなくていい」
「どうしてそんなに嫌がるのかわかりませんね。気にしないでください。警部殿」
マクファーデンはしばらく押し黙り、やがて死神のごとき一瞥をリーランドに向けた。
「おまえがやめれば万事がおさまる話だ!」
「あいかわらず低血圧なんですね。お忙しいのは承知していますが、朝食を抜くのはよくない。そうだ、よければ次の機会にサンドイッチを持参してきましょう」
マクファーデンは目を閉じて天を仰いだ。そしてかっと目を見開くと、
「俺は貴様にからかわれるためにオックスフォードを出たんじゃない!」
と、ありったけの声で叫んだ。まだ近くにいた髭の巡査がぎょっとして口を半開きにした。
リーランド・フォスターから離れられるなら、犯罪の温床として悪名高きH管区に飛ばされてもいいと思えた。毎日のように思っている。
「警部殿をからかうなど……私は心から警部殿の健康状態を心配しているのです。男やもめのアパート暮らしはなにかと不便でしょう? 大家も不定期に帰ってくる人間にそうそうきちんとした食事を用意してくれは」
「もういい! もう構うな! さっさと周辺の聞き込みにいけ!」
マクファーデンは大げさに腕を振りながら、リーランドのかたわらを乱暴に通り抜けて小路から出ようとした。
「警部殿! チズム巡査の姿が見えませんが」
「俺が知るか!」
「チズムは今日は非番です」
リーランドの背後に控えていた巡査――彼の「信者」を自称して、常に近くにいる奇特な若者のひとりである――がすかさず答えた。
「そうか」
リーランドは短くつぶやき、考え事をはじめて視線を中空へと向けた。
三
夕刻。久しぶりに倉庫から出した仰々しい箱馬車にて、ベネット診療所の裏手へと乗り付けたエリアは、扉から出てきたアディの姿を見て目を丸くした。
プラチナブロンドを高く華やかに結い上げたアディのイブニングドレスは、胸もとが大きく開いていて袖はふわりとふくらみ、白地に濃い緑の大胆な縦線模様が目にも鮮やかだった。
驚くほど細いウエストを見て、今まではコルセットをつけていなかったのだと気付く。それまでも十分細身だったのに、今や名匠が作り上げた砂時計のようだ。
「本日はお誘いいただき、ありがとうございます」
アディは淑女らしくドレスの端をつまんでお辞儀した。エリアも慌ててそれにならう。
そして紳士らしくアディの手を引こうとして――まさかの失敗をした。
差し伸べた手を、アディが一瞬不思議そうに見て、時間が止まったようになったのだ。決してロマンティックな感じではなく。それどころか異様に気まずい。
――ここで女性の手を取って、馬車にエスコートしてあげるのが普通じゃないのか!?
エリアは動揺してどっと汗をかいたが、顔はなんとか笑顔をつらぬいた。
「あの……手を」
「あ……ご、ごめんなさい」
アディが顔を真っ赤にして、戸惑いがちに手を差し出した。
かすかに震えるアディの手は、冷たかった。
アディに恥をかかせてしまった……自分がもっとスマートに手を出せば、アディも自然と手を差し出してくれただろう。女性をエスコートするなんてくだらない、いちいち勉強する必要もない、とこれまでは思っていたが、あのときの自分の肩を思いきり揺さぶって、考え直してリーランドに教われ! と言ってやりたかった。
なんとか無事に馬車に乗り込み、ふたりは互いにちらちらと視線を投げかけ合ったが、なかなか会話のきっかけがつかめずにいた。
「……あの、綺麗ですね。すごく綺麗だ」
なんのひねりもない賛辞をのべて、エリアは再び目を逸らす。
「いえ、そんな……社交界に出るわけでもないのに、こんな大げさなドレスを持っているなんておかしいでしょう?」
「そうですか?」
エリアはその辺りの事情にまったく拓けていない。
「これは以前に、ジェラルディン様からいただいたんです。女の子なら綺麗なドレスのひとつくらい持っているべきだって、仕立屋に連れて行ってくださって……。高価なものなので持てあましていたんですけど、着ることができて、よかった」
そう言っておだやかに微笑むアディを見ていると、なぜか胸が痛んだ。
「……この馬車は、エリア様が所有されているものですか?」
「はい。昔住んでいた屋敷で使っていたものですが、今は辻馬車で事足りるのでほったらかしになっていました。それを兄が勝手に、御者と馬と掃除夫を手配して準備していたので……使わざるを得なくて」
「……エリア様は、上流階級の方でいらっしゃいますか?」
ふいに思い至ったかのような質問に、エリアは皮肉っぽく笑った。
「そうは見えませんけど、一応」
「あ、いえ、そういう意味で言ったわけでは……ごめんなさい」
なぜ僕はいつも、わざわざひねくれた言い方を……とエリアもすぐに反省して、慌ててかぶりを振った。
「いえ、気にしないでください。今住んでいる屋敷はこぢんまりとしていますからね。貴族といっても父は三男坊だったので爵位は継いでません。金儲けにみじんも興味がない学者でした。ただ、母親が結構有名な舞台女優だったので、遺産は多いです。使い道はありませんけどね」
「遺産?」
「僕が十歳のときに、両親が亡くなりまして。馬車の転倒事故に巻き込まれて……」
アディは口もとを手で押さえ、悲しげに目を伏せた。
「まあ……そうでしたの。お気の毒に……」
「すみません、変な話をして」
「いいえ。実はわたしも、母を列車事故で亡くしました」
「……お気の毒に」
しばらく沈黙が流れた。
「なんだか似ていますね、わたしたち」
「そうですか? 僕はあなたみたいにほがらかな美人じゃないですよ」
「まあ、そんなことおっしゃって」
アディはくすくすと笑った。
「よろしければ、お母様のお名前を教えていただけますか? わたし結構演劇が好きで……」
「セオドーラ・ワースです。結婚後も本名の旧姓でずっと活動していて――」
「まあ! セオドーラ・ワース!? わたし大ファンです!」
大ファン……なんだが既視感だな……とエリアは思う。
「一度だけですけど、家族で舞台を観に行ったことがあります。幼心にもほんとうに美しい方だったと刻み込まれていますわ。兄が先にファンだったんですけど、そういえば、事故に遭われたと兄から聞いた覚えがあります。……ああ、言われてみれば、リーランド様はまるで生き写しですわね。最初にお会いしたときから、どこかで見たことがある気がすると思っていたんですけど」
「あのゴージャスさは、産まれつきでないと身につけられないですよね……」
そのとき馬車の揺れが止まった。目的地に着いたようだ。
馬車から降りると、まず周囲の静けさが気になった。
通りをひとつ挟んだところに、ハイド・パークの外壁が見える。この辺りは夜でもにぎわっているものだが、今日の道行く人々はどこか不安げで、素直に享楽することを後ろめたく感じているかのようだった。
そんな風に考えるのは、このすぐ近くで殺人事件があったことを知っているせいだからだと思ったが、
「……なんだか、今日は街全体が静かですね」
隣に立つアディも同じように感じたようだ。
「実は昨日、この近くにあるセタン・ストリートを訪れたばかりなんです」
「へえ、奇遇ですね」
「ジェラルディン様が、わたしと兄を演奏会に連れて行ってくださって」
――その演奏会が終わって一時間も経たずに、陰惨な殺人が起こったのだろう。
(まさか……ほんとうはアディさんを襲うはずだったのか……?)
「エリア様?」
「あ、すみません。行きましょうか」
エリアはきらびやかなレストランの明かりにたじろぎそうになったが、なんとか己を奮って歩みを進めた。
「あの、切り裂きジャックの件でお話ししたいことというのは、なんでしょうか?」
メインディッシュの小鴨のローストを堪能し、デザートが来るのを待っていたとき、アディが少し遠慮がちにそう尋ねてきた。
「ああ……」
エリアは思わず気のない返事をしてしまった。
そういえば、花束を持ってアディのところへ行った際、切り裂きジャックについて今わかっていることを話したいが、よければおすすめのレストランに連れて行きたい、ということを言ったのである。
レストランに誘うくらい、別に電話でいいだろうとエリアは言ったのだが、リーランドは頑として聞かず、
『ささいなことにかこつけて、わざわざ自分に会いに来てくれる。ここに女は己の価値を見出して喜ぶんだ。相手の男を憎からず想っているならば、効果絶大だぞ。しかしご婦人というのはとかく人前に出るのに時間がかかるものだから、あらかじめ訪問の旨を伝えておいて、一時間ばかり待ってから行くといい』
というありがたきアドバイスを頂戴したのだった。
アディはジャックの話を聞きたくてたまらないという顔をしている。きっと、エリアが話をはじめるまで行儀よく待ってくれていたのだろうが、いつまで経ってもどうでもいい話(血とか怪物の話である)しかしないので、業を煮やしてみずから切り出したのだろう。
エリアはといえば、すっかりふつうのデートをしている気でいた。ひとりで浮かれていたことがなんだか恥ずかしくなって、頬が熱くなっていく。顔が赤いのは今ごろワインが回ってきたからだと思ってくれればいいが。
デザートのチョコレートムースが運ばれてきたのをきっかけに、エリアは咳払いをして口を開いた。
「僕が調べた過去の連続殺人事件の統計の結果、切り裂きジャックのようなタイプの殺人者は、自身の性的嗜好に適う被害者を選ぶ傾向があります。まあ、この広い世の中、その条件に当てはまらない殺人者もいるかもしれませんが、八割方は該当します。……だからもしかすると、五番目の被害者とされているメアリー・ジェイン・ケリーだけは、別の犯人の仕業かも知れない。それまでの四人は全員四十代ですが、メアリーだけが二十五歳で、しかも異様なまでに肉体を傷つけられていたんです」
「……そのメアリーさんを殺した犯人が、アリスを殺したのと同一人物だとおっしゃるの?」
エリアはかぶりを振った。
「言いたかったのは、切り裂きジャックの嗜好と、あなたのご友人のアリスさんとはまるで結びつかない、ということです。要するに、アリスさんを殺害したのは一年前に世間を騒がせたあの切り裂きジャックとは違う」
「でも、アリスは切り裂きジャックからの手紙を……」
「名前くらいどうとでも名乗れるし、タイプライターで打たれた手紙ならなおさら誰にでも偽造できる。……ですが、あなたが何者かに狙われていることには変わりない」
「その人物が誰かは……」
「さすがにまだそこまでは」
「そうですよね、先走ってしまって……ごめんなさい」
「できるだけ早く突き止めるつもりです。……これは明日の新聞に載る事件の話ですが」
エリアが軽くテーブルに身を乗り出すと、アディもつられたように少し身を乗り出した。
「実は、昨夜この近くで殺人があったんです。被害者は若い女性で、アリスさんと同様に、美しい金髪の持ち主だったとか」
途端、アディは両手で口もとを覆い、おもむろに立ち上がった。
血の気が失せた顔は、蒼白く輝いて見えた。
「アディさん?」
「――ああ……どうしよう」
絶望を凝り固めたような声だった。
空色の瞳から、大粒の涙がこぼれる。
周囲のテーブルに座る客がざわめきはじめた。
エリアも立ち上がり、アディの震える身体をそっと支えた。
「ご、ごめんなさい、わたし気分が」
「無理に話さなくていい。もう出ますか?」
アディは小さくうなずく。
エリアはクロークで自分の帽子と外套と、アディのケープを受け取り、彼女の歩みに合わせてゆっくりと店を出た。
入り口近くに控えていた馬車はすぐにやって来て、エリアはアディを気遣いながら馬車に乗せた。
向かいに座って肩を縮こまらせているアディは、いつもよりいっそうか細く儚い少女に見えた。
「……大丈夫ですか?」
心配でたまらないのに、気の利いたことのひとつも言えない自分がもどかしい。
アディは少し目をあげて気丈に微笑んだが、すぐに瞳から涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
「なにか、打ち明けたいことがありますか? 辛いことは胸にため込んでおくより、吐き出してしまった方が楽になると思います」
アディは弱々しくうなずき、ハンカチで目尻を押さえ、何度か深呼吸を繰り返した。
「エリア様に調査をお願いするならば、いつかはちゃんとお話ししなければと思っていたんですが……なかなか勇気が出ませんでした。けれど、そんなこと言っている場合ではなくなってきました。もしものときは、ちゃんと警察にもお話ししなければ」
エリアは黙って、アディの言葉の続きを待った。
「……アリスを殺したのは、もしかすると、わたしの兄かも知れません」
つい先日出会ったばかりの、人のよさそうな男性の顔を思い浮かべる。が、彼と凶悪な犯罪とがまったく結びつかない。
「どうしてそんな風に思われるんですか?」
「昨日、この近くに来たと言いましたよね? 演奏会に行って……演奏会自体はとても楽しかったんですけど、わたし、お開きになって間もなく馬車の中で眠ってしまったんです。気がついたら自分の部屋のベッドにいました。兄だけならともかくジェラルディン様もいらっしゃったのに恥ずかしいと思っていたんですけど……あんなに急に意識を失うなんて、やっぱり変だと思って」
「なんらかの方法であなたとジェラルディンさんを眠らせて、その間にお兄さんが第二の犯行に及んだと?」
アディはこくりとうなずいた。
「最初に兄を疑いはじめたのは……お恥ずかしい話ですが、ただの夢がきっかけなんです」
エリアは眉根を寄せてアディを見つめた。
「夢?」
「はい、何度も繰り返し同じ夢をみるんです。アリスが殺されてからずっと」
アディは大きく身震いし、ためらいがちにだが言葉を続けた。
「夢の中でアリスは地面に倒れていて……首からたくさん血を流していて、すごく恐ろしくて、目を背けたいのに、わたしの視線は彼女に釘付けになって、まばたきもできません。その側に、誰かが立っているんです。視線が少し動いて、その人物の後ろ姿をとらえました。それは間違いなく……兄でした。彼がゆっくりとこちらを振り返ろうとするところで……夢は終わります」
「夢にしては現実的ですね」
「ええ。だからそのうち、ほんとうにあったことなんじゃないかと錯覚してしまって。けれどこんな話を警察に打ち明けたところで、取り合ってもらえないだろうということくらいはわかります」
「お兄さんとアリスさんはお知り合いだったんですか?」
「はい。わたしはローダデイル家の住み込みの家庭教師をしていましたが、よくお休みをくださって、診療所に戻るときにはたいていアリスも一緒でした。ほとんどは日帰りでしたが、二三日泊まることもありました。アリスはほんとうに、貴族の子女らしからぬ奔放な人で……それに、アリスは兄に好意を持っていたように思います」
「あなたに内緒でふたりは恋人関係になったが、それがなにかしらこじれて、殺人にまで発展したと?」
「そこまで極端なことは申し上げられませんけど……でも、兄を怪しむのはそれだけが理由ではありません」
「というと?」
「切り裂きジャックが最初に事件を起こした去年の八月……ちょうどその頃から、兄はイースト・エンドの方へ足繁く通うようになったんです。それまでは、あの辺りは治安が悪いから近づかないようにと、わたしによく言って聞かせていたのに……」
エリアはイースト・エンドのことを考えた。
シティを中心として北西部が「ウェスト・エンド」と呼ばれ、上中流階級が住む高級住宅街や繁華街でにぎわう、ロンドンの文化の中心地である。エリアたちが住むウェストミンスター地区もこの中にある。
対して、東南には「イースト・エンド」があった。それは貧民窟の代名詞でもあった。つねに腐臭がたちこめる不衛生な環境で、建物の外には汚物と貧民、犯罪者と娼婦があふれている。
そんな「イースト・エンド」こそが、切り裂きジャックの犯行の舞台となった場所だ。
「でも、わたしの不確かな推測程度で警察に相談して、兄を犯罪者呼ばわりするのは避けたくて……でも、もしもほんとうに兄がアリスを殺した犯人で、これからも犯行を重ねてしまうとしたら」
「わかりました」
エリアは言って、決然とうなずいた。
「お兄さんのことを調べましょう。疑いをかけるわけではなく、晴らすために」
アディはしばらくぼんやりとエリアを見つめていたが、やがて花開くような微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……エリア様」
エリアは戸惑い、思わず目を伏せてしまった。
心臓の鼓動が激しい。
だけど苦しいわけではなく、温かく穏やかなものが込み上げてきて、胸の器を満たしてくれるような気がした。
「エリア様?」
「え、あ、はい!」
慌てて顔を上げると、アディは優しく微笑んだ。また恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
急に、アディと対面していることに緊張し始めた。
(な、なんなんだ僕は……情けないな……)
「……あ、あの、今日は……すごく楽しかったです」
いきなりそんなことを言ってしまったことを、一秒後に後悔した。兄が殺人者もしれないという不安からレストランを飛び出した少女に対してなんて場違いなことを……。
「はい、わたしも……エリア様とゆっくりお話ができてよかった。お料理もすごくおいしかったです」
エリアの心境をよそに、アディは心からうれしそうに言った。気を遣ってくれたのかもしれないが、エリアはほっとして、ずれた眼鏡を指で押し上げた。
「最後まで楽しく過ごせたらもっとよかったんですけど……ごめんなさい」
「そんな、気にしないでください! よ、よければ、また……どこかに行きましょう、ふたりで」
「ええ。喜んで」
新しい約束をして座席から飛び跳ねそうなほどうれしかったのは、恋愛研究の糧になるからではないことを、エリア自身は気付いていなかった。
四
アディを送り届けたあとは、なんだかずっと夢心地で、いつごろ眠りについたかも定かではないありさまだった。ジェンセンが朝に一度起こしにきたが、邪険に追い払ってしまった気がする。
リーランドも事件のせいで生活が不規則になってきた。こうなると家族揃って優雅に朝食を、というわけにもいかない。
昼頃目覚めたエリアは、今日は探偵らしく、ベネット診療所の張り込みでもしてみようと考えた。
そして屋敷を出ようとした矢先、編集者のレイフ・アンダーソンから電話があった。
『フォスター先生! どうですか、恋愛研究は順調ですか?』
一瞬なんのことだと思ったが、
「……ああ、まあ、おかげさまで」
『ほんとうですか!? それはよかった! もし当てがなさそうならうちの姪っ子でもご紹介しようかと思っていたところなんですがね』
「それはどうも……」
そういえば、恋愛うんぬんのことをすっかり忘れていた。作家生命の危機なのだ。もっと真剣に取り組まなくては。
……とはいえ、アディへの協力もそういった自分の都合でしかないのだと思うと、最初のころにはまったくなかった罪悪感を覚える。
(……でも別に、彼女に迷惑をかけているわけじゃないしな)
そう自分に言い訳して、エリアは屋敷をあとにした。
診療所の南に面した壁には大きな窓がふたつあり、手前はちょうどダグラス医師の背中が見える位置にあった。
そこは隣家との間にあるこぢんまりとした庭でもあった。
エリアは手前の窓から中をそっとのぞき込む。
するとそこには、銀糸のような長髪を背中に垂らした美青年がいた。ジェラルディン・フィーロビッシャーである。姿勢よく立って腕を組み、半分開かれたカーテンの向こうを眺めている。ダグラスが患者の処置をしているところを見ているのだろうか。
奥の窓は分厚いカーテンに覆われていた。
再び手前の窓に戻ると――ジェラルディンが窓の側に移動していて、完全に目が合った。
硬直したエリアに、ジェラルディンは窓を開け放って満面の笑顔を見せた。先日と同じく深紅のロングコートに、青い丸レンズのサングラスといういでたちである。
自分は探偵に向いていない。とエリアは痛感した。
「やあ、エリアくん! こんなところでなにを?」
ジェラルディンはずいぶん気安い口調になっていたが、おそらくリーランドよりも年上の紳士である。いつまでも敬語を使われては気まずかったので、エリアはむしろありがたかった。
「いえ、あの、先日お邪魔したときに、このあたりで落とし物を」
無茶な言い訳だと思ったが、ジェラルディンは心配そうに顔を曇らせ、
「それは大変だ……私も手伝おう」
などと言い出したので、エリアは慌ててかぶりを振った。
「いえ、つい今し方見つかりましたから!」
「それはよかった。ああ、もう少し早く来ていれば、おもしろいものが見られたのに」
目を丸くするエリアに手招きして、ジェラルディンは酷薄そうな笑みを浮かべた。
「中へ入ってくるといい」
言われるがままに診療所内へ入り、中年の看護婦に会釈をして診察室に向かう。
「明日にでも連絡しようと思っていたんだ」
絹の手袋をはめた手で握手をしながらジェラルディンは言った。
「おや、フォスターさん?」
カーテンの向こうには手術台があった。
その上には半裸の男が寝ていて、かたわらには黒いコート姿のダグラスがいた。外科医は白衣を着ない。手術のときに大量の返り血を浴びるので、それが目立たぬように黒っぽい服を着るのだ。
今まさに、ダグラスは全身血みどろだった。
レザーエプロンとコートのおかげで目立たないが、白い頬には点々と血が飛び散っている。足元にも血だまりができていた。
半裸の男はすでに処置を終え、身体の汚れはほとんど拭き清められていた。しかし右足が膝の先から失われていて、真新しい包帯には赤黒い血がにじんでいる。麻酔が効いているからか寝顔は安らかだった。
エリアはその光景を呆然と見つめ、ごくりと喉を上下させた。
頭がくらくらして、動悸が激しくなる。
それはエリアに言わせれば、「恋愛」の衝動に近かった。
胸の高鳴りと表現してもいいこの肉体的変化を、エリアはこれまで「喜び」なのだと思っていた。
血を見ると、いつもこうなるのだ。
けれど同時に強い吐き気を覚える。
だんだん頭が痛くなってきて、目尻に涙がにじんでくる。
……これはほんとうに喜びだろうか?
エリアは初めてそう思った。
アディの美しさに見とれて、彼女が微笑んだときに感じた胸の高鳴り……それと今感じているものとは、明らかに異なっている。
こんなに辛い、気分の悪いものじゃない。
これまでろくに恋愛経験がなかったせいで、単に思い違いをしていたのだろうか。
自分は、ほんとうは血が好きなんかじゃなくて――
「フォスターさん? 大丈夫ですか?」
ダグラスの不安そうな声で我に返り、エリアは額の汗を拭った。傷はふさがったので、もう包帯は巻いていない。
「心配することはないさ。エリアくんは血を見て興奮しているんだ。高尚な次元の喜びだよ」
ジェラルディンの言葉に、エリアは妙に安心した。
――そうか、やはり喜びなのだ。余計な不安など覚える必要はないのだ。
エリアは一度深呼吸をしてから、引きつった笑みを浮かべた。
「こんにちは、ベネットさん」
「こんな恰好ですみませんね」
「や、こっちが勝手にお邪魔したので……」
「昨晩はアディリーンをレストランにお連れいただいたそうで。今朝もその話ばかりしていましたよ」
「こちらこそ、とても楽しかったです」
「おや、アディくんばかりずるいじゃないか。エリアくん、早速だが来週にでも私とデートしてくれたまえ」
「で、デートですか?」
「仲のよい人間同士がふたりきりで出かけるという行為は総じてデートだよ。承知してくれるね?」
「も、もちろんです」
少々……いや、かなり変わった人だが、自分の作品のファンであり趣味も合う貴重な人間だ。ぜひとも交流を深めたいという気持ちに偽りはなかった。
「フォスターさん、やっかいな人に目をつけられましたねえ」
「どういう意味だねダグラス」
ふたりは気安い感じで言い合ったが、なんだかほんとうにやっかいなことになりそうな気がして、エリアは苦笑いしかできなかった。
五
ジェラルディンが馬車で去ったのを確認してから、気を取り直して、エリアは診療所の張り込みを再開した。
診察時間が終わってからダグラスがどこかへ出かけた場合は、尾行するつもりだった。
しかし、待てど暮らせどダグラスは外に出て来なかった。仕方なくエリアは帰宅した。明日からは、夜通しになることを覚悟して準備し、ジェンセンにもその旨を伝えておかなくてはならない。
「それでは私が、護衛を務めさせていただきます」
翌日。リーランドのいない朝食の席でジェンセンに事情を話したエリアは、忠実な執事からそう言われて大いに戸惑った。
「……いや、いいよ」
「なぜですか?」
「そんな、女の子や子どもじゃないんだから……心配してくれるのはありがたいけど」
「引き下がるわけにはまいりません。主人の身の安全を第一に考えるのが私の務めです」
「兄さんはいつもひとりで巡回をしているじゃないか」
「リーランド様はお仕事をされているのです」
「僕だって別に遊んでいるわけじゃない」
「そうは申しておりません。エリア様のお力も信頼しております。しかし、念には念を、という言葉がございます」
エリアは押し黙った。追い打ちをかけるように、ジェンセンは紺色の目で見つめてくる。
「……イースト・エンドは、エリア様が想像されている以上に危険なところです」
たしかにエリアは、夜のイースト・エンドに足を踏みいれたことは一度もない。そしてジェンセンの言葉には説得力があった。
「……わかった。じゃあ、今晩から護衛を頼むよ」
ジェンセンは張りつけたような無表情に、かすかな微笑みを浮かべて見せた。
ジェンセンが用意した薄汚れたコートとシャツとズボンをまとったエリアは、同じような恰好をしたジェンセンと辻馬車に乗り、前の馬車に乗っているダグラスのあとを追っていた。
ふたりで張り込みをはじめてから二日間は、これといって成果はなかった。
一日目のダグラスは、夜に近くのパブへ行き、そこで一時間ほど留まったあとすぐに家へ帰った。
二日目は夕刻に雑貨屋と本屋へ立ち寄り、やはりすぐに家へ戻った。品行方正の代名詞のような生活である。
しかし三日目――つまり今日の二十時過ぎ、ダグラスは診療所の玄関から出てきて、大きな通りまで歩いていってそこから辻馬車を拾った。別段周囲を気にしている風ではなかった。
「……動きがあって、なんかほっとした」
「どういうことですか?」
ふたり掛けの馬車の中、右隣に座るジェンセンが尋ねる。
冷たい印象の無表情が玉に瑕だが、すっきりとした美形で上背に恵まれたジェンセンは、安物を着ていても妙に様になっている。
いい物を着ても「服に着てもらっている感」がにじみ出る自分とは大違いだとエリアは思った。
「ジェンセンに手伝ってもらっているのに、延々成果なしじゃ悪いと思って。仕事がたまってきているだろう?」
ジェンセンは薄く微笑み、かぶりを振った。
「主人のお側にお仕えすることが最優先であり、無上の喜びです。屋敷の仕事に関しては、新しく雇ったメイドがかなりの働き者で助かっています。……正直に申し上げて、エリア様にお怪我を負わせた女を雇い入れるとリーランド様がおっしゃったとき、私は反対したのですが」
「ああ、コニーはたしかに、すごく働いてくれそうだね……そういえば彼女に傷薬をもらったんだ。びっくりするほどよく効いたよ、ほら」
エリアは長い前髪を上げて額を見せた。
「よく見ないと傷があるってわからないだろ?」
「はい。すごい効き目ですね」
薄闇の中ではよくわからないのか、ジェンセンは紺色の目を凝らして額を見つめた。
そのとき馬車が止まり、見るとそこはエッジウェア・ロード駅前だった。ダグラスはここから地下鉄に乗ってどこかへ行くようだ。
臙脂色のコートを着た後ろ姿を逃さないように気をつけながら列車に乗り込み、いくつもの駅を通過して、次にダグラスが下りたのはホワイトチャペル駅だった。
ホワイトチャペル……ここから少し歩いたところにあるバックス・ロウという小路にて、切り裂きジャックの第一の被害者、メアリ・アン・ニコルズが発見されたのだということを思い出した。新聞に載っていたメアリの似顔絵も同時に思い出す。あの苦痛に満ちた恐ろしい顔――エリアは思わず身震いした。
ダグラスは山高帽の位置を直しながら、背を丸めて人気のない通りを歩いていた。手には医者が好んで持つ、黒い革の鞄を持っている。
「スラム街の方へ向かっています。エリア様、くれぐれも私の側をお離れになりませんように」
「……ジェンセンは、昔この辺に住んでいたんだっけ」
異世界へ迷いこんだような不思議な高揚感にまかせて、普段は訊けないようなことを口にしてみた。
「……はい、旦那様に拾っていただけていなかったら、未だにこの辺りで腐っていたでしょうね」
ジェンセンは少しためらったのちに答えてくれた。旦那様とはエリアの父のことだ。父が亡きあとも、彼はずっとそう呼んでいる。
「変なこと訊いてごめん」
「いえ、お気になさらないでください」
近くでガラスが割れるような音がして、エリアは軽く飛び上がり、ジェンセンのコートの背を鷲掴みにした。
「恐怖小説を嬉々として執筆していらっしゃるのに、夜道が恐ろしいですか?」
首だけ振り返ったジェンセンが、軽く笑いながら言った。
「そ、それとこれとは話が別だし……僕は恐がりだからこそ、怪奇小説を書いているんだ。恐怖を恐怖とも思わない人間が怪奇小説を書いても、きっとおもしろいものにはならないね」
「なるほど」
理解する気があるのかないのか、ジェンセンはそれだけ言って、再び無言でダグラスの尾行を続けた。
周辺がだんだんと騒がしくなってきた。煌々と明かりが灯っているのはパブだけだ。
迷路のように入り組んだ狭い通りのそこらじゅうにごみがあふれ、路肩で寝そべり大いびきをかいている酔っぱらいもひとりやふたりではない。なんとも言えない悪臭が鼻をつき、扇情的な身なりの女たちが色目をつかってくる。
自分ひとりで来ていたら、三十分も経たずに路地裏へ引っ張り込まれて身ぐるみ剥がされていたか、最悪生きて帰ることはできなかったかもしれない……エリアは改めて、ジェンセンの申し出に感謝した。
ダグラスはランタンを構えて狭い小路に入って行く。そこには年季の入った長屋が建ち並び、道に人気はなく静まり返っていた。
街灯の明かりも届かない辺鄙な場所で、ダグラスのような立派な紳士が迷いなく突き進んでいくのに違和感があった。
ふいに立ち止まったダグラスが戸のひとつを遠慮がちに叩くと、すぐに中年の女が出てきた。
この辺りに住んでいる女と言えば、たいていは娼婦だろう。再び切り裂きジャックのことが頭をよぎる。犠牲者に選ばれたのは、あれくらいの年格好の娼婦が多かった。
エリアたちは向かいの建物に身を隠して様子をうかがっているため、ダグラスたちの会話までは聞こえない。しかし女は安心した表情で微笑んでいる。
ダグラスは鞄から包帯や紙袋を取り出して女に渡した。女は何度も頭を下げて、そっと戸を閉めた。
目の前で陰惨なことが起こりそうになったときはすぐに飛び出すつもりでいたので、少々拍子抜けだった。
ダグラスはまた少し移動して、長屋の戸を叩き、出てきた女と会話して薬らしきものを渡し、礼を言われて去って行く。そんなことを三回ほど繰り返した。
エリアたちは慎重に近づいて、四度目のときには会話が聞こえるくらいまでに距離を詰めていた。
「ベネット先生、いつもすみません」
ひどく痩せた中年の女が言った。ダグラスは柔和な笑みを浮かべてかぶりを振る。
「いいんですよ。この程度しか援助できなくて申し訳ないくらいだ」
「そんな……ほんとうにあたしら、先生には感謝しているんです。立派なお医者様がわざわざ足を運んでくださって、あたしらみたいな者に、こんなによくしてくださって……」
女は感極まって涙を流した。ダグラスはその華奢な肩に優しく手を添えた。
「またなにか不便があったら、遠慮なく言ってくれるといい」
「はい、あ、ありがとうございます……」
「それじゃあ、また」
エリアとジェンセンはほぼ同時に顔を見合わせた。
「無償の奉仕活動をしていらっしゃるようですね……」
「うん……」
ふたりはダグラスの背中を呆然と見送った。
「ああやって油断させておいて、突然牙を剥く、なんてことはないかな?」
「さあ……しかし、そこまで疑うのは、少々良心が咎めます」
「そうだね」
まだ確信はできないが、アディが懸念しているようなことはやはりないのではと思う。明日にでもアディに報告して、はやく安心させてあげたかった。
「――よお、こそこそとなにやってんだよ?」
突然、よたよたとした足取りで近づいてきた中年の酔っぱらいに声をかけられた。
汚らしい髭面で、醜く膨れあがった腹の肉がズボンからはみ出ている。
「ああ? 男ふたりでくっつきやがって、気持ち悪ぃんだよお!」
「エリア様……お下がりください」
ジェンセンは持っていたランタンをエリアに手渡した。不穏な空気に、エリアは固唾を飲む。
「ハハッ……なんだ? お姫さまを守る騎士気取りか? 色男さんよぉ」
「黙れ」
――ヒュッ、と冷たい風が吹いたかのような音がした。
信じがたい速さで突き出されたジェンセンの右の拳が、中年男の鼻先でぴたりと止められていた。
男は一瞬で酔いが覚めたらしく、額にぶわりと汗を噴出させた。
男が手にしているランタンが激しく揺れ、周囲の壁に怪しげな影絵を描く。
「……よく見たらおまえ、イェイツか……俺の顔、もう見忘れたのかよ?」
粗雑な口調でそう言ったのはジェンセンだった。彼のこんな話し方を初めて聞いたエリアは目を丸くした。
「あ、う……もしかして、ミラーの旦那ですかい……?」
「ああ。おまえによく儲けさせてやったミラーだよ」
――ジェンセン・ミラーはその昔、イースト・エンドの違法な賭けボクシングの選手をして日銭を稼いでいた、という話を父から聞いたことがあった。
が、父は割とほら吹きだったので、幼い頃から冷めた性格だったエリアは、なんでも話半分に聞いていた。
第一、前任の老執事に従って黙々と仕事をする十八歳のジェンセンと、荒々しく恐ろしい印象のボクシングとが結びつかなかった。
その二年後に両親が亡くなり、それまで住んでいた屋敷を出て住み始めた家に、泥棒が入ったことがあった。
ジェンセンは一貫して無表情のまま、捕らえた泥棒に馬乗りになって、重い拳を何度も打ち込んだ。
リーランドが止めなければ殺していたのではないかと、半ば本気で思う。当時十一歳のエリアにとって、少なからずトラウマめいた出来事であった。
それでもまだ、父の話は信じられなかったのだが、
(父さんの話……ほんとうだったんだな)
ついに認めざるを得ない日が来てしまった。
「へへ、旦那、すっかり立派になりやしたね……そりゃ一目ではわかりませんぜ……大変失礼しました!」
男は卑屈な笑いを浮かべ、そそくさと元来た方向へ去って行った。
「そろそろ帰りましょう、エリア様」
振り返って、何事もなかったように微笑むジェンセンに、エリアは真顔で何度もうなずいて見せた。
六
アディリーンは居間のテーブルに座り、向かいにいるエリア・フォスターの話を真剣に聞いていた。
「まあ……女の人たちに、無償奉仕を……」
「はい、本格的に調査したのはまだ一日なので、疑念がはっきりと消えたとは言いがたいですが……個人的な意見としては、心配なさるようなことはないと思いますよ」
エリアは言って、どこか遠慮がちな笑みを浮かべた。彼はいつもこんな笑い方をするが、アディリーンはそれを好ましく感じていた。
「そうでしょうか……それならうれしいのですけど」
「一応、ダグラスさんの身辺調査は継続させていただきます。それから、アリスさんの交友関係についても調べを進めていくつもりです」
「はい。よろしくお願いします。……あ、お茶のおかわりはいかがですか?」
「あ、はい、お願いします」
アディリーンは微笑んで席を立った。
「このケーキ、すごくおいしいですね」
「ほんとうですか?」
エリアのカップにお茶を注いでからアディリーンは椅子に座り直し、にっこりと笑った。
「どこの店のですか? 買って帰りたいな」
「甘いもの、お好きですか? だったら、また作ります」
エリアはきょとんとしたが、すぐに察して目を丸くした。
「アディさんの手作りですか? ……すごい、味も見た目も完璧です」
「まあ、そこまで言っていただけたらすごく作りがいがあります」
「いや、ほんとに。僕結構デザートにはうるさいんですよ。でも、このケーキは素晴らしいな……どうやったらこんなふわふわの食感にできるんですか?」
エリアが心底感心しているようなので、アディリーンはうれしさとくすぐったさがない交ぜになった複雑な心地で頬を染めた。するとエリアも急に目を伏せて黙り込み、少し気まずい空気が漂う。
「それは、秘密です。……いつでも作れますから、また、食べに来てください。あの……調査とは関係なく、いつでもお越しください」
女の方から誘うようなことを言うのははしたないと思ったが、
「……はい、ぜひ」
エリアはなんの衒いもなく、うれしそうに微笑んでくれた。
エリア・フォスターはかなり風変わりではあるが、所作は完璧な紳士で、とても親切な青年だ。
名家の人間なのに気取ったところはなく、むしろやや内向的で、なぜか自分に自信がないようだ。こんなに恵まれた人なのにと、アディリーンは初めて会ったときから不思議に思っていた。
大きすぎる眼鏡の奥で輝く深い緑の瞳が、とても綺麗で――アディリーンは不意に我に返って、白い頬をぱっと赤く染めた。
(いやだわ……わたし、なにを考えているのかしら)
エリアとアディリーンは、あくまで探偵と依頼人という関係でしかない。
エリアのような紳士と自分は全然釣り合わないし、なにより――
(わたしみたいな出来損ないが、好意を持ってもらえるわけがないわ……)
アディリーンは思い、薄い手袋をはめた腕を神経質にこすった。
ベネット家は食事を作るメイドと、掃除や雑用をするメイドをひとりずつだけ雇っている。
今日もキッチンメイドの作った夕食が質素なテーブルの上に並べられ、向かい合わせに座った兄妹はそれを黙々と咀嚼する。
兄のダグラスは、外では愛想がよく穏やかな紳士だと評判だが、妹に対しては少々冷たいところがある。
アディリーンもそれに気後れしてしまい、なかなか打ち解けて話をすることができない。
アリス・ローダデイルが生きていた頃や、最近ではエリア・フォスターという共通の知人ができたおかげで、時々会話が弾むこともあったが、今日の兄はなんとなく不機嫌そうだ。
昔は、もっと仲がよかった気がする。けれどあるときを境に、兄は家族に心を閉ざしてしまった。
きっかけは、母の死。アディリーンが七歳、ダグラスが十七歳のときのことだった。兄妹が受け継いだプラチナブロンドと空色の目が魅力的な、儚げで美しい人だった。
父は母を溺愛していて、他の女には見向きもしないだろうと思っていた。なのに、父は一年も経たずに新しい女を妻に迎えた。その女は子どもが嫌いで、事あるごとに兄妹を邪魔者扱いした。そして次第に父も、兄妹のことをうとましく思い始めた。
兄は医大に進学すると同時に、二度と家に戻ってこなかった。
取り残されたアディリーンは、十一歳のときに遠縁の家に預けられることになった。継母からのいじめが度を超したものになっていたので、それは願ってもない話だった。
それ以来、アディリーンは父にも継母にも会っていない。郊外の家に住んでいるのを知っているだけだ。
けれど家族というものと一切の繋がりがなくなるのは悲しくて、アディリーンは十五歳のときに、すでに開業医をしていたダグラスの元を訪ねた。
ダグラスは妹を邪険に追い払うことはなかったが、かといって歓迎もされず、一緒に住み始めた今となっても、生じた亀裂は埋まっていない。
「……ごちそうさまでした」
形式的に言って、アディリーンは食器を片付けた。
「おやすみなさい、兄さん」
「ああ、おやすみ」
まだ食事を続けているダグラスは、目も合わせずに言った。
たまらず漏れそうになったため息をなんとか押し殺し、アディリーンは階段へ向かった。
「……アディリーン、具合が悪いのか?」
背中に声をかけられ、アディリーンは戸惑いながらも振り返る。
「え?」
「顔色が悪いから。大丈夫か?」
……心配してくれているのだろうか?
たしかに最近、気を病んでいるためか眠れない日が続いている。それも、いま目の前にいる兄が犯罪者なのではと疑っていたゆえのことだと思うと、申し訳なくてよけいに気が沈む。
けれど今日からは、エリアのおかげでちゃんと眠れそうだ。
「大丈夫です。最近少し寝不足気味だっただけで」
「そうか」
ダグラスはずっと料理の皿を見つめたままで、スプーンを口に運び、もぐもぐと頬を動かした。これで会話は終わったようだ。
そっけなかったが、兄がいたわりの言葉をかけてくれたのは覚えている限り初めてのことだったので、アディリーンはうれしくなって、こっそりと微笑みながら二階の自室に戻った。
ガス灯を灯して部屋が明るくなった途端、温かな気持ちは一気に奈落へと突き落とされた。
――向かいの壁に据えたベッドが、大きく膨らんでいる。
誰かが、ベッドの中にいる。
耳の奥で羽虫が暴れているようだった。
恐ろしいのに、確認しないではいられなかった。
ゆっくりと近づいて、手を伸ばす。
心臓が爆発しそうだったが――アディリーンは薄手の毛布を掴んで、思いきり引っ張った。
そして、呼吸を忘れる。
そこにはアリスがいた。
「……わたしのアリッサム」
アリスは血に濡れた唇を震わせた。
アディリーンは青ざめ、死んだように身体を強張らせて、ひたすらアリスを見つめた。
掻き切られた喉から止めどなく鮮血をあふれさせながら、アリスは不気味なほどゆっくりとした動作でベッドから起き上がり、美しく微笑んだ。
血濡れた金の髪が肩口からこぼれる。
「酷いことをされたわ」
ほんとうにそう言ったかどうかはわからない。喉を傷つけられたアリスの声はぞっとするほどかすれていて、壊れた水道管のような変な音が漏れている。
いつの間にか、視界にもうひとり増えていて、アディリーンは思わず小さな悲鳴をあげて後退った。
ベッドの枕元にたたずむのは、黒衣の男だった。
男の髪は、真昼の太陽のようなプラチナブロンド――アディリーンは弱々しくかぶりを振って、涙をこぼした。
男が振り返る。
その顔は、ダグラスのものだった。
「嫌……もうやめて……!」
アディリーンは両手で顔を覆い、しばらくの間じっとしていた。
「もうやめて、もうやめて……」
恐る恐る手を下げてベッドを見ると、アリスもダグラスも、姿を消していた。
血まみれだったシーツも元に戻っている。
しかしアディリーンは涙を止めることができず、その場に力なく崩れた。