表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第一章


 甲高く暴力的な音が室内に響き渡った。

 路地に面した窓ガラスが割れたのだ。真向かいのソファに腰かけて本を読んでいたエリアには、すぐにわかった。

 しかし、ガラスを割った凶器がその勢いのまま飛んでくるのを避けられるほどの反射神経は、残念ながら持ち合わせていなかった。

 長い前髪が盾になってくれるかとほのかに期待したが、額に凶器が命中した瞬間、確実に死んだと思うほどの衝撃が訪れた。

 結論、髪はしょせん髪でしかなかった。

 喉が大きく仰け反り、顔の大きさに合っていない眼鏡が中空へ吹き飛んだ。

「――エリア様っ!?」

「――エリアっ!?」

 側でお茶の準備をしていた長身の執事と、部屋のど真ん中で優雅にヴァイオリンを奏でていた兄が、ほぼ同時に声を上げた。

 痛いというより熱い。そして痺れていて、エリアは恐る恐る額に手をやった。

眼前にかざした指が赤く染まっているのを見て――かすかに口元をゆるめた。

「さすがは僕の血……綺麗だ」

「エリア様! むやみに触れてはいけません!」

 若さに見合わずいつも寡黙で冷静沈着な執事が、珍しく鋭い目を見開く。上着の内側から救急道具を取り出し、消毒液を染み込ませた清潔なガーゼをそっと額に当てた。びりっとした痛みを感じながら、執事の抜かりなさにエリアは感心する。

「……石ですね」

 執事が床から拾い上げたのは、たしかになんの変哲もない石ころだった。

 眼鏡も拾ってくれたので早速調べた。幸いレンズは割れていなかったので、ほっとしつつかけ直す。

「ガーゼがもう真っ赤になっているぞエリア! おまえがいつも書いている悪趣味な恐怖小説を実践しているかのような大惨事だ! ああ、頼むから死なないでくれエリア!」

 ふわりと波打つ金の髪を振り乱し、完璧すぎる美貌を歪めて、兄のリーランドはエリアの膝元のすがりついた。

「大げさだな……頭の近くは細い血管がたくさんあるから、ちょっとの怪我でも出血が多くなるものなんだ。大丈夫だから、暑苦しいから、もう少し離れてくれ」

「酷いぞ、心配しているのに。……わかった。おまえを元気づけてやれるような、美しい調べを奏でてあげよう!」

 兄は再び部屋の中心でヴァイオリンを弾き始めた。エリアは眉根を寄せて目を閉じる。

 ヴァイオリンを弾くリーランドの姿は、それはそれは優美で豪奢なのだが、演奏に関しては最低最悪だ。不協和音という表現では生ぬるい。親切でやってくれているとわかっていてもなお兄のことが嫌いになりそうなので、せめて顔を見ないように目を閉じているのだ。

「――リーランド・フォスターぁぁっ!! この死に損ないっ!!」

 呪いに似たその絶叫は、割れた窓の向こうから聞こえてきた。

 リーランドはヴァイオリンをテーブルに置き、窓辺の、外から見えない位置に移動して様子をうかがう。

「リーランド様」

 人差し指を軽く振って執事の声を制し、リーランドは再び神妙な顔つきで外を見る。

「偽善の豚野郎! あたしはお綺麗な見かけなんかに騙されやしないからね!」

 迫力のある怒声の主が女だと気付き、エリアは少し驚いた。

「スコットランド・ヤードきっての名物警官だかなんだか知らないが、あたしの亭主は理由もなく人に暴力なんか振るわない! なのにあんたはろくな言い分も聞かずに亭主を牢屋にぶち込んだ! おかげで亭主は仕事をクビになっちまったよ! こんなお屋敷に住んでるあんたには、あたしらみたいな根底の庶民がどれほど食うに困ってるかなんてわからないんだろう! 一生恨んでやる、恨んでやるからねっ!」

「……なんの話かわからないな」

「リーランド様、よろしければ私が、話をつけてきましょうか?」

 執事は無表情ながら、意味深に手袋をはめ直した。

「だっ、だめだめ! ジェンセンが話をつけたらややこしいことになる! そうだろう兄さん!?」

 慌てて声を上げたのはエリアである。執事のジェンセン・ミラーを怒らせてはいけない。これはフォスター家の家訓にしてもいいくらい重要なことだ。

「そうだなあ。俺はどちらでもいいけど」

「兄さん!」

「冗談だ。あのお嬢さんはどうやら誤解をしているようだから、紳士的に話し合ってくるよ」

 てっきり貫禄溢れる中年女かと思いきや、お嬢さんなのか……にわかに興味が湧いて窓辺に行きたくなったが、思うように身体に力が入らない。どうやら出血の量が意外と深刻らしい。

「なんにせよ、可愛い弟に傷をつけた件に関してはしっかり責任を取ってもらわないとな」

 そう言ってリーランドはエメラルドグリーンの双眸を細め、目の覚めるような美しい笑みを浮かべた。



 ロンドン警視庁スコットランド・ヤードの巡査部長、リーランド・フォスター二十六歳は、とにかくゴージャスな青年である。

 蜂蜜のように艶やかな金髪はゴージャスに波打ち、宝石に例えられる緑の瞳は言わずもがなゴージャスで、新雪のような肌とスタイル抜群な長身、自信に満ちた表情や優雅な立ち振る舞いのなにもかもがゴージャス極まりない。

 比べて、彼と血をわけた実の弟である自分はいったい、なにをしでかした罰で神からこのような仕打ちを受けているのかと時々考える。

 趣味が高じて恐怖小説を書く作家になったが、大して売れるわけもなく親の遺産を食い潰しているエリア・フォスター十八歳は、地味な黒髪に灰色がかった緑の目、猫背気味の小柄な体型、青白い顔に洒落っ気など皆無な地味眼鏡をかけ、大地と同化しやすい茶系の服を好む。

 見た目はまるで似ていないフォスター兄弟の唯一の共通点は、「変人」であることだろう。

 特にリーランドは、名門大学の医学部を目指していたのに、突然進路を変更して、激務薄給の警官になった。その理由を尋ねられて「合法的に悪人をいじめられると聞いたから」などと平気で言うとんでもない男だ。

 それに比べれば、血を見ると妙に胸がざわめき、架空の怪物が人の世に恐怖をもたらす話を書くことに異様な使命感を覚えるだけの自分は、大して変ではないとエリアは思う。

 とはいえ周囲の評価は、ひとまとめで「変人兄弟」である。

 そんな変人兄弟の長男は現在、赤い布張りのソファに深く腰かけ長い足を組んで、チェシャ猫の笑みを浮かべている。

「デュボア夫人が言うには、一週間前、夫のヘンリー・デュボアが酒場にて見知らぬ男と口論になり、その勢いでかなり凄まじい殴り合いに発展したそうだ。そこにたまたま居合わせた警官が現場を取り押さえた。喧嘩の原因は明らかに相手の男の難癖だったそうだが、リーランド・フォスターと名乗った警官はヘンリーの主張などいっさい聞く耳持たず、相手の男共々牢屋にぶち込んだ。その汚名が仕事先に知れて……というわけで夫人は俺のことを大変恨んでいらっしゃるのだが、俺は一週間前に酒場に行った覚えはない。果たしてこれはどういうことかな?」

「誰かが兄さんを陥れたんだろう」

「そう。さすが我が弟だ。人間、恵まれた容姿をしているからといっていいことばかりではない。実を言うと、俺は署内で嫌われている。有能かつ美しいせいで。男の嫉妬は時に女のそれより醜いからな」

「実を言わなくても、兄さんが嫌われていることはわかるよ」

「なんだと! そうか、エリアはなんでもお見通しなんだな。俺のことを気にしてくれているということだ。……嬉しさのあまり涙が出てきた。ジェンセン、レースのハンカチーフをくれ」

 ジェンセンがほんとうに上着の内側からハンカチーフを取り出して渡したのを見て、エリアはため息をつき、ソファにぐったりともたれかかった。

「ジェンセン、兄さんの言うことをなんでもかんでも聞くな。この変なノリを増長させるだけだ」

「主人の願いに可能な限り応えさせていただくのが、私の務めです」

 毛足の長い絨毯にひざまずいて濃紺の目を伏せたまま、ジェンセンはそう言った。

「しかし案ずるな弟よ。俺のことを嫌う輩がいる一方、俺のことを大天使のごとく崇める一派も存在するんだ。その派閥が陰湿な嫌がらせ合戦を繰り広げている様は端から見ていておもしろいぞ。エリアも気が向いたら見学に来るといい」

「誰が行くか」

 真新しい包帯でぐるぐる巻きにされた額の傷がうずき、いつも以上に兄との会話に体力を奪われる気がして、エリアは自室に戻ろうと腰を浮かせた。

 そのとき、玄関先から電話のベルが聞こえ、ジェンセンがすばやく立ち上がって部屋を出て行った。タイミングを逸してしまったエリアは再びソファに座りなおす。

「ところでデュボア夫人のことだが、ひとまず誤解を解き、ご主人が元の職場に復帰できるよう口添えをすることを約束した。だが、おまえに傷を負わせた責任として、年三十ポンドでハウスメイドをしてもらうことにした」

「前と比べれば全然大きな屋敷じゃないんだから、ジェンセンと今いる使用人だけで十分事足りるけどね。それと、世間一般のハウスメイドの給金は二十から二十五ポンドだそうだよ」

「ほう、そうなのか。しかしもう三十で了承してしまった。そういうのは全部ジェンセンにまかせきりだったからな」

 白々しい兄に、エリアは軽く笑って見せた。

「その親切心だけは、警官らしいよね」

「だけってことはないだろう。警官は俺の天職だ」

「まあ、医者よりは合ってるかな。兄さんが白衣着て澄ました顔してるとこ想像したら笑える」

「……おまえもいい子だ、エリア。不可抗力とはいえ自分に怪我を負わせた相手を雇うことに反対しないんだから」

「――エリア様」

 兄にしかめ面を返した直後、扉を少し開けてジェンセンが顔をのぞかせた。

「アンダーソン様からのお電話でございます」


 

 ロンドン中心部シティ・オブ・ロンドンにて、レンガ造りの瀟洒な建物を誇る「マルサス社」が、エリアの本を世間に送り出してくれている物好きな出版社である。何人もの売れっ子作家を抱え込んでいるからこそ出来る道楽のようなものだろうと、エリアは常々思っている。

 二階に上がると、あいかわらず騒々しい社内にはもうもうと煙草の煙が立ち込めていた。家内の誰にも喫煙者がいないエリアはいつもこの匂いに辟易しながら、担当編集者のいる中央部のデスクへ向かうのだった。

 デスクの前にかじりついている担当編集者のレイフ・アンダーソンは、誰かの原稿へ苛立たしげにペンを走らせ、左手で浅い茶色の髪を掻きむしっていた。

「あれほど注意したのに、この誤字の群れはどうしたことだ! ここにもここにも、ここにも誤字だ! 寝ながらタイプしているんじゃないだろうな!」

 バリトンのオペラ歌手のようないい声で恨み言をつぶやいている青年に、なんと声をかけていいかわからず、エリアはしばらく背後で呆然とした。

「ちょっと、邪魔!」

 徹夜続きとおぼしき中年太りの男にぶつかられて、エリアは簡単によろめく。そこでレイフが後ろを振り返った。

「おや、フォスター先生! いつからそこに?」

「つい今し方です」

「すみませんねご足労いただいて……って、お怪我をされたんですか!?」

 レイフの深い緑色の目が、大げさに巻かれた額の包帯へと集中する。

「はあ、ちょっとありまして」

「ちょっと?」

「ええ、窓が割れて……」

「ガラスで切ったんですか!?」

「いえ、石が飛んできて」

 レイフは急に黙って、うなずいた。いちいち聞いていたらきりがないと判断したようだ。

「……ともかくお元気そうでよかった。そこへかけてください」

 レイフが示したのは隣のデスクの椅子だった。小綺麗なレイフのデスクとは対照的に、本や原稿用紙や書類の小山ができており、筆記用具や細々した物が雑然と置かれている。デスクの主が途中で帰ってきたらどうすればいいのか。

「ご遠慮なく。あと二、三時間は帰って来ませんよ」

 エリアの表情を察して、レイフがそう言った。

「早速ですけど、次回作のアイデアは浮かびました?」

 エリアは力なくかぶりを振った。

「それが、まだ……血の天啓が下らなくて」

「なるほどなるほど」

 レイフは気のない返事をした。

 そして唐突に身を乗り出し、精悍な顔に薄笑いを浮かべた。

「血の天啓はこの際置いておいてですね、フォスター先生。今回は私のアイデアに乗ってみませんか?」

「レイフさんのアイデア、ですか」

「これまでの二冊のご著作も、まあなかなか、個性的で素晴らしかったですけど、いかんせん売り上げに繋がらなくてですね」

 自分の本が笑ってしまうほど売れていないのは知っている。だがエリアは、自分の書きたいものが書けないのなら作家を辞めてもいいと考えていた。今日喚び出されたのも、てっきり契約を打ち切る話かと思っていたのだが。

「私は先生の創造性と文章力をたいへん買っているんですよ。だから二冊目の時点で、以前に流行ったゴシック文学をなぞらえた作品を書いてみてはどうかと提案しましたよね? 先生なら『フランケンシュタイン』を越える傑作を生み出せると考えたからです」

「『フランケンシュタイン』はたしかに、後世に残るに違いない傑作ですけど……あまり血が流れないですよね? 僕はやっぱり大量に血が流れなきゃ物足りないな」

「先生! 今みたいな話は往来でしないでくださいよ!」

「わかってますよ」

「でもほら、先生の大好きな怪物の話じゃないですか」

「怪物……彼を怪物と呼称するのは気が引けます。なにしろそれがあの物語の核心じゃないですか。人間性の愚かしさは目で見た物の異質さを闇雲に拒絶する……」

「そこまでです! 今は『フランケンシュタイン』について論じたいんじゃありません!」

 レイフの声がだんだん苛ついてきた。が、彼は咳払いをひとつして、落ち着いた表情を取り戻す。

「いえ、失敬。血と怪物に関してはちょっと忘れてほしい、ということなんですよ。……古今東西、人が強い興味を抱く不変のテーマというのがあります」

「そ、そんなテーマがあるんですか」

 レイフは真剣な顔つきでうなずいた。

「考えるまでもなくそれは――恋愛です」

 彼は殊更「恋愛」という単語を強調した。声がいいので凄みがある。

「れ、恋愛……」

 エリアはごくりと喉を鳴らして繰り返す。

 恋愛……愛……自分の対極に存在する概念だと思った。

「先生は物語に対して強いこだわりをお持ちだということはわかっています。しかし、今回はぜひとも、担当編集者である私の立場を理解していただきたいのです。要するに……売れる物が正義だと」

 エリアは目を伏せ、煙草の灰で汚れた床を見つめた。

「……かなり難しいです。……恋愛を書くのは……」

「そ、そんなに深刻にならないでください。先生は若い上に、貴族出身の資産家だ。その眼鏡は正直いただけませんが、お母上が大女優だっただけあって顔立ちも整っていらっしゃる。社交界に出れば貴婦人たちから引く手あまたでしょう?」

「いや、社交界にはまだ足を踏みいれたことがなくて……そういうのはすべて兄にまかせてあるので」

「ああ……あのお兄様」レイフは含みのある言い方をした。

「それではまず、恋愛の経験を積まなくては!」

 まだはっきりと返事をしていないのに、レイフはすでに乗り気である。

「早速今日の夜にでも、ふたりで娼館に行きましょうか?」

 エリアは真っ青になってぶんぶんとかぶりを振った。

「そ、そこには愛はないと思います!」

「冗談ですよ。ははは、先生は潔癖だなあ。でも、気になる女性のひとりやふたりいるでしょう?」

「え……」

「私に隠しごとはなしですよ」

 小説うんぬんではなく、レイフが個人的に下世話な興味を抱いているようにしか思えなくなってきた。

 エリアは少し戸惑い、サイズの合っていない眼鏡を指で押し上げた。

「いえ、いません」

 レイフは高級そうなダークグレーのジャケットに包まれた肩をがっくりと落とした。なんだか申し訳なく思う。

「……いやいや、あきらめてはいけない。先生の人生をここから花開かせるんです!」

「別に恋愛がなくても、僕はそれなりに楽しんでますよ人生を」

「なにを馬鹿なことを! 恋愛なくしてなにが人生ぞ! 彼方まで続く血の海や、ミミズと鳩をかけあわせたような怪物に対して注いでいる愛を、今回の本が完成するまでは現実のご婦人に向けてもらいますよ!」

 レイフ・アンダーソンのこういう熱血な面にはいつも閉口する。が、基本的に消極性の塊であるエリアは、彼のような大人に引っ張ってもらってやっと一人前に立って歩けている気がするので、その点では感謝しなくてはいけないのだろう。



 時折マルサス社を訪れる以外にはほとんど屋敷から出ないエリアは、たいていシャツ一枚に吊りズボンで一日を過ごしているが、さすがに今日はフランネルのフロックコートを着てトップハットを被り、マルサス社を出てからしばらくの間、猫背気味に街中を歩いていた。

 九月も半ばのロンドンは、昼でもすでに肌寒い。

 道行くドレス姿の婦人たちに、エリアは挙動不振な視線を投げかける。

 このうちの誰かと、恋愛研究のために交流しなければならなくなるかもしれないと思うと――大変憂鬱だった。

 女たちはエリアと目が合うとかすかに微笑むが、それは決して好意的なものではなく、小馬鹿にしているとしか思えない類の笑みである。

 不恰好な眼鏡のせいか、童顔で口髭も生やしていないくせに服装だけは立派だからか……いずれにせよ改善するつもりはないので、婦人たちとエリアの間には黒くて深い河が生じるばかりであった。

 辻馬車を止めて乗り込み、自宅の番地を御者に告げた。

 激しい馬車の揺れに三半規管が刺激されるのを、目を閉じて強く感じるのが好きだった。時々気分が悪くなるが。今日は、そうなる前に屋敷へとたどり着いた。

 馬車から降りると、門の前にいた小柄な女性がこちらを振り返った。

 水色の紐付き帽子ボンネットからのぞく髪はまばゆい白金、華奢な身にまとうドレスも帽子と同じく明るい水色で、胸もとや袖口の純白のレースが上品な華やぎを添えている。

 エリアを見て、青空のような瞳をいっぱいに見開いて驚きを表したその少女は、とても可憐で美しかった。

 抜けるように肌が白い。背は割と高いが、すらりと伸びやかなために大柄な印象はなく、どこか妖精めいている。

「あ……」

 少女は薔薇色の唇を薄く開き、エリアの顔をまじまじと見つめた。

「リーランド・フォスター様……ずいぶんイメージをお変えになりましたのね」

 エリアは驚いて目を丸くし、少女に近づいてかぶりを振った。

「僕はリーランドじゃありません。弟のエリア・フォスターです」

「まあ、そうでしたの。失礼いたしました。背格好やお顔はよく似ていらっしゃるから……」

「そうですか? 言われたのは初めてです。なにしろ兄とはあらゆる面で正反対なもので」

 エリアはかすかに首をかしげた。

「兄にご用なんですね?」

 言うまでもなく、リーランドは女性にもてるし、リーランドも女性と遊ぶのは好きなようだ。なので美しい婦人が屋敷を訪ねてくるのは珍しいことではなかった。

 しかし今目の前にいる少女は、遠慮なく屋敷に押しかけてきて、エリアが弟だと名乗るなり意味深に苦笑するような、派手な外見の美人とはまったく異なるタイプである。どちらかと言えば、リーランドに憧れていても直接は言えず、遠くから眺めてため息をついているタイプ、というイメージしか持てない。 

「ええ、こんな昼日中にご迷惑かと思ったのですが、どうしてもすぐにご相談したいことがあって」

 少女は小さな手提げ鞄から白い紙切れを取り出した。そこにはたしかにリーランドの筆跡で、屋敷の住所が記されていた。

「申し遅れましたが、わたくしはアディリーン・ベネットと申します。よろしければアディとお呼びください。一ヶ月ほど前のことですが、リーランド様に大変親切にしていただいて、またなにかあればここを訪ねるようにと、住所をお教えくださったのです。それで……」

「よければ中に入りましょう。いずれにせよ兄が仕事から帰って来るまでは、お待ちいただかないといけませんから」

「わたしったら、気が急いてしまって……ごめんなさい」

 アディは明るい色の睫毛を伏せ、頬を桜色に染めた。

 実に愛らしく、上品な婦人である。

 エリアは別に女性恐怖症というわけではないので、女性と話をするくらいは問題ない。だが、いざ「恋愛対象」として意識し始めると急激に気分が冷めていく。なんだかものすごく億劫になるのだ。

 とはいえ今は、そんな後ろ向きなことを言って逃避をしている場合ではない。

 恋愛について研究し、レイフに原稿を奉呈しなければ、作家生命が尽きてしまうかもしれないのだ。やはり、多少意に沿わぬ物を書いてでも作家という仕事を続けたいと自覚した。

 このアディリーンという少女は、まさに天からの御使いである。

 エリアは心中で何度もうなずき、決心した。

 門を開けてアディをエスコートし、玄関ドアを開けると、すぐさまジェンセンが来てエリアの帽子を受け取り、外套を脱がせてくれた。彼は客人に深々と頭を下げる。

「ようこそいらっしゃいました、マドモアゼル。わたくしは執事のジェンセンでございます。なんなりとお申し付けください」

「ありがとうございます」

 アディはボンネットを外して微笑み、軽くお辞儀をして見せた。ゆるやかに束ねたプラチナブロンドの巻き毛が揺れる。

 ジェンセンが客間への扉を開け、エリアはアディを、ゴブラン織りの布を張った肘掛け椅子へとうながした。自分は白いテーブルをはさんだ向かいの椅子に腰かける。

 ジェンセンが間もなく紅茶と焼き菓子を運んできて、テーブル上に準備が整うまでの間、ふたりはなんとはなしにおとなしくしていた。

 陶磁器のカップを手にしてほとんど息も吹きかけずにこくりと飲んだアディを、エリアは尊敬の眼差しで見つめた。エリアは猫舌なので、熱々の紅茶をすぐに飲めない。

 飲み物を口にして落ち着いたのか、緊張した面もちがふっとやわらいで、アディはまた魅力的に微笑んだ。

 これはいい――エリアは心中で快哉を叫ぶ。

 最初に、エリアを小馬鹿にしたような顔で見なかった時点で、エリアはアディにかなり好感を持った。

「リーランドの弟」という肩書きは、常人には理解できぬ重荷なのだ。リーランド様の弟君ならさぞかし……と思ったら、こんなのが姿を現した、という反応には昔からひそかに傷つけられてきた。もちろん、いきなり押しかけてきた女がそんな態度をリーランドの前で見せようものなら、レディであろうと容赦なく屋敷から叩き出されたが。

 ――アディのような人となら、交流をするのも苦ではないだろう。

 彼女ならきっと、恋愛研究に大いに貢献してくれるに違いない。

「……兄が戻るまでまだ随分時間があるんですが……よければここへ来ることになった経緯でもお話いただけますか?」

 エリアはわずかに身を乗り出してそう言った。

「ええ。喜んで」

 そうしてアディは話し始めた。

 ――およそ一ヶ月前の、午前中のことである。

 フェンチャーチ・ストリート駅にほど近い通りにて、アディは突然、正面から歩いてきた男に腕を切りつけられた。

 男の正体は目深に被った帽子のせいでわからなかった。

 それ以前に、鋭利な刃物で切られた驚愕と苦痛で、冷静に相手を観察などできなかった。

 周囲の人々は最初のうち、血にまみれたアディに恐れおののいて遠巻きに見ていたが、そこへ颯爽と近づいてきて介抱してくれたのがリーランド・フォスターだったという。

「リーランド様は警官だとおっしゃったのですが、少し事情があって、わたしは警察のお世話になりたくなくて……そう言いましたら、犯人についてなにか思い当たることがあれば、自分の家を訪ねるようにと言ってくださって……そのお言葉に甘えて、来させていただきましたの」

「警察沙汰にしたくない理由とは?」

 アディは悲しげに目を伏せ、白い手袋をはめた手を右の頬に添えた。

「ごめんなさい、申し上げられません」

「でも、兄も一応公僕ですから、凶悪な犯罪者に関する情報を入手したなら市警に報告する義務を果たすでしょう」

「そうかしら……」

 困り果てたような顔をするアディに向かって、エリアはさらに身を乗り出した。

「アディさん、よければ、僕が相談に乗りましょうか?」

 思わぬ言葉だったのか、アディは空色の目を丸くした。

「エリア様が……?」

 完全に不審者を見る目つきをされたが、エリアはめげなかった。

「こう見えて僕、作家をしているんですが、それと並行して探偵もしているんです」

「まあ、そうなんですか?」

 空色の目に興味の色が宿る。

「もしかしてそのお怪我も、探偵業の名誉の負傷ですか?」

 額にアディの視線を受けて、エリアは苦笑いをした。

「ええ、まあそんなところです。僕なら警察に関わることなく、あなたが公にしたくないこともきちんと秘密にしますよ。なかなか腕がいいという評判もいただいています」

 薄笑いを浮かべて嘘を並べ立てる。エリアは必死だった。好きな仕事を続けるためなら悪魔と契約してもいいとさえ思う勢いだった。

「あの、お代金などは……?」

「もちろん成功報酬です。なので懸命に捜査させてもらいますよ」

 冗談めかして言うと、アディはにっこりと微笑んだ。

「……それなら、お願いしようかしら」

 エリアは満面の笑みが浮かびそうになるのをなんとか押さえつけ、有能な探偵に見えるよう落ち着き払った態度を貫いた。

 アディとの繋がりは首尾よく獲得できた。探偵という立場なら、調査や質問という名目で彼女と大いに接する機会を作れるだろう。

 そのひとときの中で、アディといい雰囲気になり、恋愛の神髄を心ゆくまで学ぶ……というのがエリアの密かな計画だった。

 無論、自分ができる範囲で、可憐な少女に傷を負わせた鬼畜な犯人についてしっかりと調査するつもりもあった。

「では契約成立ですね。必要な書類なんかは、後々用意しますから。それで、あなたは犯人についてある程度の目星がついてらっしゃるんですよね?」

 アディは神妙な顔つきで深くうなずいた。

「はい……でも、どうか笑わないでお聞きくださいね」

 そう前置きしてアディが告げたのは――

「犯人はおそらく、切り裂きジャックです」

「切り裂き……ジャック……」

 切り裂きジャックとは、今から一年前の一八八八年八月から十一月にかけての二ヶ月の間に、下町にて五人の娼婦を残忍な方法で殺害し、ロンドン中を震撼させた殺人鬼の名称である。

 新聞社に署名入りの犯行予告文を送りつけるなどの派手な動きを見せたが、結局今に至っても犯人逮捕には至っていない。どころか、今年に入ってからも切り裂きジャックの犯行と疑わしき陰惨な事件は頻発している。

 当時、リーランドはこの事件のせいで連日家に帰ることもできないほど酷使され、さすがの美貌にも陰りが生じていたが、エリアの方はのんきなもので、この血なまぐさい猟奇事件に密かに心躍らせていた。

 ロンドン内で起こった事件とはいえ、自分にとっては遠い世界の出来事だという認識しかなかったから無邪気に楽しめたが――目の前に存在する華奢な少女が、突然に「現実」として、その恐ろしげな名前をもたらした。

 ぽかんと口を開けて自分を見つめるエリアに、アディは少し不満そうな顔をした。

「……やっぱり、すぐには信じていただけませんよね」

 小さくため息をついたアディに、エリアは慌ててかぶりを振って見せた。

「いえ、違うんです。あまりに有名な殺人鬼なので、なんだか現実味がなくて……しかし実在する人間には違いない。逮捕されていないんだから、今もまだロンドンに潜伏していてもおかしくないですよね」

 アディはほっとしたように表情をゆるめた。

「しかしどうして、切り裂きジャックだと断言できるんですか?」

「……実は八月の初めに、わたしの友人だったアリス・ローダデイルが、恐ろしい亡くなり方をしたのです」

「ほう」

 エリアの目がにわかに輝き出す。不謹慎だという思いはあるので、興味津々な態度はとらないように努めた。

「わたしはチャリング・クロスにある貴族のお屋敷で、住み込みの家庭教師をさせていただいていました。アリスはわたしの教え子の姉で、わたしより一つ年上の十八歳の女性でしたが、初めてお会いしたときからとてもきさくに話しかけてくれて、わたしたちはすぐに意気投合しました。誰にでも親切な素晴らしい女性で……それなのに」

 アディはうつむき、つぶらな瞳から大粒の涙をこぼした。エリアは困って、どう声をかけていいかわからず、結局彼女が落ち着くまで所在なげに手を組み直したりした。

「彼女は細い路地裏にて、後ろから喉を掻き切られて亡くなりました。それ以外の外傷はなかったそうですが、いっときは切り裂きジャックが再び活動を始めたのでは、と騒がれました」

「ああ……思い出しました。少し前まではよく記事が載っていましたね」

 切り裂きジャック再び襲来――という新聞の煽り文句が脳裏に浮かぶ。しかし結局、事件はいつの間にか風化してしまった。

「あの頃に起こった、女性が被害者の恐ろしい事件は、だいたいおもしろ半分に切り裂きジャックの仕業だと書き立てられました」

 アディは膝に抱えていた鞄から、封筒を取り出してテーブルの上に置き、エリアの方へ差し出した。

「まずはそれをご覧ください」

 エリアは封筒から慎重に手紙を取り出し、そこに記された短い文面を読んで、驚きに目を見開いた。


 私のムルチコーレ

 愛は裂け、赤い河であなたは溺れる

 銀の心を掴んで這い上がるか? 

 その白い手が傷つかぬのならば

 再び芽吹くはあどけないアリッサムであろう


 最後の署名は、「親愛なる切り裂きジャック」

 手書きではなく、タイプライターで打たれた文字だった。

「……これは?」

「家庭教師を続けられなくなって実家に戻ったわたしに、ローダデイル夫人が、アリスの形見分けの品を送ってくださったんです。中身はドレスや宝石箱でした。さっと確認して、それ以上は辛くて、しばらくは部屋の隅に置いておいたのですが……昨夜、なんだか急に気になって、ひと抱えほどもある大きな宝石箱を取り出して、アリスが身につけていた装飾品を眺めて思い出に浸りました。……ああいう箱ってたいてい、裏蓋が開くようになっていて、そこに秘密のものをしまう人が多いんです。それをふと思い出して、ためしに確認してみたら……その手紙が出てきましたの」

「ムルチコーレというのはなんでしょう?」

「お花の名前です。金貨のように鮮やかな黄色の花で……アリスの見事な金髪を例えているんだと思います」

「アリッサムも花の名前ですね。可愛らしい、白やピンクの花で……母親が庭で育てていました」

 すると突然、アディは表情を曇らせた。

「アディさん? どうしました?」

 アディは血の気の失せた唇に手袋をはめた手を添える。

「わたし……アリスからよく、アリッサムのように可憐ねって、言っていただいて……」

「……アリスさんは切り裂きジャックと知り合いで、あなたのことを話題にしていた可能性がある、と?」

 アディはこくりとうなずいた。それで、自分に怪我を負わせたのが切り裂きジャックだと思っているということか。

「手紙がただのいたずらであれば、それでもいいんです。でも、アリスの交友関係を調べたら、もしかすると切り裂きジャックに行き当たるのかもしれないと考えたのですが……ご協力いただけますか?」

 すがるような目で見つめてくるアディに、エリアは力強くうなずいて見せた。



 ちょうど、にぎやかな市場を抜けたところだった。

「――エリア・フォスター!」

 快活な少女の声で、自分のことをフルネームで呼ぶ人物はひとりしか思い当たらない。エリアはいつになくすばやい動作で振り返った。

 声と同じく明るい笑みを浮かべ、薄紫のドレス姿で最新型の自転車をこいでいるラシェル・ライトは、エリアと同じ十八歳。

 両親の死後、エリアたちはそれまでの生家を離れ、ウェストミンスターの屋敷に移り住んだ。その近所にて両親と共に暮らしている彼女は、フォスター兄弟とはかれこれ八年来の付き合いである。

 黒薔薇の髪と瞳、そして真珠の肌を持つラシェルは、まさにライトという姓にふさわしい美少女だった。

 父親が日本人だからか、その顔立ちは生粋のイギリス人にくらべてずいぶん柔和で愛くるしい。実際の年齢よりずっと年下に見えるが、性格はしっかりしていて実に社交的だ。エリアにとってはなにもかもがまぶしすぎるほどの少女だった。

 ラシェルは自転車からおりて、エリアの隣に並ぶ。

「やあ、ラシェル」

「こんな時間に外で会うだなんて!」

「……僕のことを吸血鬼とでも思ってるの?」

「あら! 言ってなかったかしら」

 ラシェルはころころと笑った。彼女になら、からかわれても嫌な気分にならない。

 ――エリアの小説に出てくるヒロイン的な存在は、たいてい彼女をモデルにしている。どれほど陰惨で血なまぐさい連続殺人が起ころうとも、残虐極まりない未知の怪物が大暴れしようとも、そのヒロインたちだけは必ず最後まで無傷である。

 レイフからは『名前が違うだけで、ヒロインの見た目や性格が毎度同じじゃないですか! しかも毎度無傷で生き延びるから読者も飽き飽きしてますよ!』と怒られてしまった。

 ちなみにラシェルはエリアの小説を読んで『お話は不思議な中にリアリティがあって恐ろしさが伝わってくるけど、このヒロインの存在だけすごく浮いているわ。美しくて高潔で強くて賢いだなんて、あまりにも完璧すぎて感情移入できないわ!』と、評したことがある。ありのままの彼女を書いたつもりだったのだが、当の本人が感情移入できないのでは意味がない。

 そういえば、ラシェルを恋愛研究の相手にしてもよかったのでは……と一瞬思ったが、エリアはその考えをすぐに打ち消した。

 エリアはすでに、彼女に失恋しているのだ。

 とはいえ、別に直接想いを伝えてふられたわけではない。エリアの中で勝手に盛り上がり、勝手に完結した話だった。

 ラシェルは、リーランドのことが好きなのだ。女性であればリーランドに惹かれないわけがない。

 リーランドの方は、ラシェルのことを少し恐れているかのような態度を取る。それはおそらく、彼女の父親が柔術の師範で、彼女自身も相当な腕前を持っているからだ。

 気まぐれに柔術を習い始めた十八歳のリーランドは、三日目にして十歳の少女に華麗な一本背負いを決められ、相当なショックを受けていた。だから未だに苦手意識が拭えないのだろう。

「そうだ、ちょっと相談があるんだけど」

「なにかしら?」

「きみくらいの年頃の女の子って、なにに興味がある? なにをもらったらうれしいのかな?」

 アディとの恋愛を進展させるために、まずは贈り物をしようと思いついたのはいいが、エリアは生まれてこの方女性にプレゼントをしたことがなかった。もちろん今の若い女性の流行なんて知るわけがない。ラシェルはいつもお洒落な恰好をしているので、いい機会だと思った。

「……誰かに贈り物をするってことよね?」

「あ、ああ。まあちょっと事情があってね」

「女性に贈り物をするのに、事情もなにもないわ!」

 ラシェルは自転車を止め、真っ黒な瞳でエリアを食い入るように見つめた。

「なんてことなの……エリアが女性に贈り物をするなんて! お祝いをしなくちゃ!」

 なんでそうなるんだ……エリアは辟易して、ぐっと近づいてくるラシェルから逃れるように後退した。

「いや……落ち着いてくれ」

「落ち着けないわ! ああ、なんだか心臓がどきどきしてきた……まるでわたしがプロポーズされたみたい」

「プロポーズ!?」

 ラシェルは昔から、思い込んだら暴走する気がある女の子だったが……ここまでとは思わなかった。

「贈り物をするだけだよ!」

「そう、そうね! ごめんなさい、気持ちが急いてしまって……! だって、あのエリアが……」

 ラシェルが自分を吸血鬼だと認めたことは、あながち冗談でもないのかもしれない。そう思うと落ち込みそうになったが、とにかく今はまず、ちゃんと事情を話して誤解を解かなければならない。

「実は……出版社の人から、次回作は恋愛小説を書いてほしいと言われているんだ」

 するとラシェルはきょとんとして、可愛らしく小首をかしげる。

「まあ……エリアが、恋愛小説を?」

 半笑いで言われたが、気にしないように努めた。

「不本意ながらね。それで今、ちょっとした知り合いに、恋愛についていろいろと指南してもらっていて……もちろんほんとうに恋愛関係になるわけじゃなくて、あくまで参考にね」

「そう。そうなの」

 ラシェルはつまらなさそうにつぶやいた。エリアは彼女が落ち着きを取り戻したのでほっとした。

「でもそういうことなら、わたしが協力したのに」

 ラシェルがさらりとそう言うのが、ありがたい反面、複雑だった。エリアのことをなんとも思っていないから、こんな気軽に疑似恋愛の相手をしてあげるなどと言えるのだ。わかっていても、改めて思い知らされると傷つく。

「いや、きみにそんなことを頼むわけには……」

「あら、どうして? 幼なじみのよしみじゃないの」

「や、だって、リーランドが……」

 その名前を口にした途端、ラシェルは真珠のようになめらかな頬を真っ赤にして、艶やかな黒薔薇の双眸でエリアをじっと見つめた。

 わかりやすいが、自分がひねくれているからか、ラシェルのこういう素直なところに好感を持っている。

「お兄様が……どうかしたの?」

 しかし、この答えはラシェルが期待するようなものではないだろう。

 ラシェルが今まで以上に頻繁に屋敷を出入りするようになったら、リーランドと鉢合わせする機会も増える。きっとそれは……リーランドにとって歓迎できないことだ。もちろんリーランドはラシェルのことが好きだが、あくまで妹に接するような好意である。

 なにより、リーランドは見た目どおりプライドが高いので、相手が玄人だったとはいえ、少女に投げ飛ばされて気絶させられた屈辱を忘れることはできない。これはエリアの想像ではなく、リーランドが実際にそう言ったことがあるのだ。

「きみの顔を見ると、照れるから」

「……そんな、信じられないわ」

 ラシェルはそう言ったが、みるみるうちに喜びで顔がゆるんでいく。

「ほんとうさ。……これはリーランドには内緒だよ」

 失恋した今でも密かに想いを残している相手に対して、こんなことが言える自分はやはりひねくれている、とエリアは思った。

 ラシェルはにっこりと顔をほころばせ、大きくうなずいた。

「プレゼントのことだけど……わたしはお花がいいと思うわ。今の時期なら、淡い紫の薔薇が綺麗でしょうね」

「やっぱり花がいいのか。でも、無難すぎないかな」

「無難ってことは、悪くないってことでしょう? それはつまり、いいってことだわ」

 ラシェルの笑顔で、後ろ向きな心が洗われていく気がした。

「ああ、そういえばわたし、お買い物の途中だったわ」

 ラシェルは慌てたように自転車にまたがった。

「小説、楽しみにしているわね。それじゃあまた、金曜日に!」

 麗しき黒薔薇が去ったあと、エリアも自宅の方へと足を向けた。

 生花をプレゼントするなら、当日に買った方がいいだろう。



 朝食を摂るために階下の食堂へ向かう途中、見慣れぬメイドに行く手をはばまれた。

 しょぼつく目で小柄なメイドを凝視する。栗色の髪に同色の瞳、二十歳を過ぎたばかりかと思われる、なかなか可愛らしい顔をした女性である。

「え、エリア様、あたしはコニー・デュボアと申します。あの、わざとじゃなかったとはいえ、そんなお怪我をさせてしまって、ほんとうにごめんなさい!」

 そう言われてやっと気付いた。彼女が先日、屋敷の窓ガラスとエリアの額を破壊した女性なのだ。

 あの、地獄から響き渡るかのような罵声と、目の前の小柄でおとなしそうな顔が結びつかない。

「いや、気にしないで。それなりの事情があったみたいだし」

 コニーは両手で口もとを覆い、大げさに感涙した。

「ああ! ご兄弟揃ってなんと素晴らしいんでしょう! リーランド様はお噂に違わず、ほんとうに身も心も高貴な、大天使のようなお方ですわ! 偽物なんかに惑わされて、愚かなことをしてしまったあたしに仕事まで恵んでくださって……ああ、あたし、これから一生、身を粉にしてフォスター家にお仕えします!」

 この感情の激しさは、エリアのもっとも苦手とするたぐいであった。朝からだと更に辛い。

「それはどうも……ところで、兄の偽物って?」

 コニーは胸の前で手を組み、ぐっと近づいてきた。エリアは思わず後ろに仰け反る。

「そうなんです! 一体リーランド様にどんな恨みがあるのやら、最近いろんなところで頻繁に、リーランド様のお名前を騙って汚名を着せるような真似をしている輩がいるんです! うちの亭主もバカだから、そのときはすっかり騙されちまって! まったくどうしようもないったら!」

 最後の方はおそらく地のしゃべり方が出た。はっと口を押さえて顔を赤らめたコニーは、すぐににっこりと笑い、握りしめたこぶしを掲げた。

「でもご安心くださいましね! お屋敷の仕事が終わったあと、いろんなところで張り込みしてるんです! 出没する範囲も絞られてきましたし、このコニーが必ずや、リーランド様の偽物をとっ捕まえて見せますからね!」

「ああ、どうも……でも、危険だと感じたらすぐに引き返すようにね」

 いたって当然の心配をしたエリアに、コニーはまたも感極まった様子で目をうるませ、エリアの右手を小さな両手で勢いよく掴んだ。エリアはぎょっとして腰を引いたが、コニーは信じがたいほど力が強かった。ガラス窓を破ってエリアの額まで粉砕せんとしたあの石の投手だと実感する。

「もったいないお言葉です! あっ、そうだわ! うちに秘伝の傷薬があるんです! それを塗ったらもう、少々の傷なんてあっという間に跡形もなく治ってしまいますから、明日にでもお持ちしますわね!」

「ど、どうも……」

 コニーは甲高い笑い声を上げ、可愛くお辞儀をして廊下の奥へと去って行った。



 どれほど自堕落な生活を送ろうとも、食事はなるべく家族揃って摂るというのが、フォスター家の暗黙の了解のひとつであった。

 ぐったりとしながらテーブルの前に腰かけると、向かいに座って新聞を広げていたリーランドが優雅な笑みを浮かべた。

「おはようエリア。今日はのんびりしていたじゃないか」

「おはよう……廊下でコニーと話をしていたんだ」

「そうか、早速仲良くなったんだな。いいことだ」

「別に仲良くってわけじゃ……」

 ジェンセンがかたわらに立つ。焼きたてのパンと固ゆで卵とベーコン、澄んだコンソメスープとチーズ、そしてエリアのために特別に、冷たいミルクをたっぷり注いだ紅茶を用意してくれた。

 熱さのやわらいだ紅茶を口に含んだそのとき、

「女性に興味を持つのは大いに結構だが……アプローチの時期はなるべくずらした方がいい。一度にふたりはおまえにとって難易度が高いだろう」

 盛大に紅茶を吹き出した。

 むせて咳きこむエリアに、リーランドは温かな笑みを見せる。ジェンセンは濡れたテーブルを無言で拭き清めた。

「俄然やる気になってつい焦ってしまう気持ちは分かるがな。俺もおまえくらいの歳の頃はそうだったよ」

「ち、違う! 変な誤解はよしてくれ!」

「しかし、昨日の昼間、美しいご婦人がおまえを訪ねてやって来たんだろう? ジェンセンから聞いたぞ」

 エリアはちらりと恨めしげな視線を送った。ジェンセンは濃紺の目を伏せ、無言を貫く。

「どんな人間がゲストとしてやって来たか俺に報告するのは、執事として当然のことだ。そんな顔をするな」

「昨日の人は、そもそも――」

 エリアははっとして口をつぐんだ。

 アディリーン・ベネットはエリアを探偵として雇うことを了承し、リーランドを信じないわけではないが、自分の訪問は内緒にしておいてほしいと言った。よほど警察に事情を知られたくない理由があるらしい。それをジェンセンに口止めするよう言っておかなかった自分の失態だ。

「いや……ああ、実は、そうだよ。ちょっと前に知り合って、親しくしているんだ」

 エリアは投げやりに言った。きっと今後もこのネタで兄にからかわれるのだろうと思うと憂鬱だったが、ここは耐えるしかない。

「おお、エリアにもついに愛の女神が! とても喜ばしいことだが、同時になんだか少しさびしい気もするな……ジェンセン!」

 リーランドが指を鳴らすと、ジェンセンはすぐさま彼のかたわらに移動し、レースのハンカチーフを手渡した。……やはり変なノリが増長している。

 出てもない涙を拭うリーランドの美しい顔を見つめているうちに、エリアは名案を思いついた。

「そうだ。兄さんならきっと、女性が喜ぶような場所とか、レストランとかに詳しいよね。よければ教えてほしいんだけど」

 リーランドはテーブルに身を乗り出して大きくうなずく。

「そういうことは俺にまかせるといい! 今一番おすすめなのは、ハイド・パークの近くにできたばかりのフランス料理の店だな。早速明日にでも予約を入れておこう」

「いや、そんなすぐには」

「すぐでないとだめだ! 女性との関係は水ものだと肝に銘じておけ!」

 はりきり始めてしまった兄に、エリアは思わずため息をついた。



 ラシェルに言われたそのまま、薄紫の薔薇の花束を抱えて、エリアは辻馬車に乗り込んだ。

 行く先はアディの家である。

 同じウェストミンスター内の、マダム・タッソー蝋人形館で有名なメリルボーン・ロードにほど近い、アンバー・ストリートという閑静な住宅が建ち並ぶ通りにアディの家はあった。

 兄が外科医で開業していると言っていたが、たしかに門の側に立派な看板がかかっている。

 家庭教師の仕事を辞したアディは、今は兄の病院の事務員として、タイピストを務めているという。

 正面玄関から入ると、そこには受付があり、無愛想な看護婦に迎え入れられた。待合室には人影がない。

「ご予約は?」

「いえ、僕は……エリア・フォスターです」

「フォスター様……ご予約はしてらっしゃいませんね」

 発つ前に電話で訪問の旨を伝えておいたのだが、この中年の看護婦には伝わっていないようだ。

「いえ、僕は患者では」

「ずいぶん大怪我をされているようですけど?」

 ジェンセンは今日も大げさな包帯の巻き方をした。

「ああ、これは」

「今でしたらすぐに診られますよ」

「はあ……」

 鷲鼻の中年看護婦は異様に押しが強く、エリアは成り行きで診察室に連行されることとなった。

 磨りガラスのはまった扉を開け、籐の籠に花束を置いてから丸椅子に腰かけた。

 使い古した感じの黒いコートを着て椅子に腰かけているその医師は、果たしてほんとうにアディの兄なのかと思ってしまうほど素朴な顔立ちで、彼女とはまったく似ていなかった。

 正面を向いた医師は、エリアを軽く観察するように眺めてから、にっこりと愛想よく笑った。

 軽く撫でつけられた髪や口髭はプラチナブロンドで、瞳の色も、アディの美しい空色と共通している。背はさほど高くなさそうだが、肩幅が広くたくましい体型だ。年齢は三十前後と見受けられる。

「初診ですね? ははあ、これは見事な巻き方をされている」

「はあ……」

 最初の出血はたしかに酷かったが、実際はそれほど大怪我というわけでもなかった。さぞかしすごい怪我なのだろうと包帯を取った医師がどんな顔をするかと思うと、なんとなく恥ずかしくなってエリアはうつむいた。

「二、三質問をしますがよろしいですか?」

「は……はい」

 エリアは流され続けている。

「お名前は?」

「エリア・フォスターです」

「お住まいは?」

「ウェストミンスターのメイスフィールドに……」

「ほう、あの辺りはいいところだと評判ですよ。ご職業は?」

「……えーと、一応、作家をしています」

「――作家のエリア・フォスター!?」

 そう叫んだのは、目の前の医師ではなかった。

 エリアから見て右側にある、仕切りのカーテンが勢いよく開いた。

 現れたのは一見して個性的な、長身の男だった。

 まず目についたのは、腰までありそうな長髪である。しかも銀糸と見まごう珍しい色合いをしている。

 近寄りがたい雰囲気をまとう美形で、透けた薄青の瞳に、青みがかった丸いレンズの〝保守眼鏡〟(コンサヴァティヴ・スペクタクルズ)をかけている。これは青が保守党の色であることにかけた俗称だ。

 室内だというのに赤いベルベットのロングコートのボタンをきっちりと全部止めていて、足元からは先の尖った黒いブーツがのぞいていた。

 とにかく派手で、奇妙な印象の男だった。

 そしてなぜか、エリアを尊敬のにじむ眼差しで見つめている。

「ほんとうに、作家のエリア・フォスター先生ですか?」

 低くよく響く美声で尋ねられ、エリアはなんとなく首をすくめた。

「ええ、はい……」

「なんということだ! 私は……あなたの大ファンです!」

 エリアは驚きのあまり後ろにひっくり返りそうになった。

 ファンです……その言葉を反芻するたびに、心臓が痛いほど跳ねる。

 身内以外が自分の本を読んでくれて、あまつさえファンを公言してくれることなど、絶対にありえない――だったらなんのために作家をしているのかと自分でも疑問だが――と思っていたのに。

 しかもこんな変わった人が……と、エリアは己の作風を棚に上げてそう思った。

「お名前をおっしゃったときに、まさかと思いましたが……こんなにお若く、美しい方だったとは」

(う、美しい!?)

 男はエリアの手を取り、固く握りしめた。上質な薄い絹の手袋をはめている。

「処女作の『エルリグの妄執』は何度読み返したかわかりません。あれはもちろん、モンゴルのカルムイク人の間で信じられている悪霊に新解釈をくわえてらっしゃるんですよね? あんなアクロバティックな解釈をなさるとは、これはすごい新人が出てきたものだと感服させられました」

 エリアはぽかんと口を開けてしばらく男を凝視したのち、握手したままゆっくりと立ち上がった。

「……エルリグが、完全に僕の想像の産物ではないことに気付いてくださったのは、あなたが初めてです……まさかカルムイク人をご存じだなんて……」

「常識ですよ。二作目の『血海で待つ』はもはやバイブルです。三百頁中二百頁が血の海の描写でしたが、真に迫っていて、何度読み返しても素晴らしい。息苦しく、切なく、怪物を残虐性を見事に描ききって……口の中にも血の味が広がるような心地でした」

 信じがたい賞賛の嵐に、エリアは思わず顔を赤らめてうつむいた。

 なんだかよくわからなくなって、この場から走って逃げ出したくなった。

 突然奇怪な話題で盛り上がって熱く手を取り合うふたりに、医師は困ったような視線を向けていた。

「いつかはお会いしたいと思っていましたが……こんなに早く邂逅できるとは。なんという幸運だ」

「僕もうれしいです。僕のファンなんて、一生お目にかかることはないと思っていましたから……」

「そんなご謙遜を! 先生の作品はきっと近いうちに評価されますよ!」

「そ、そうでしょうか……?」

「間違いありません!」

「あの……診察はよろしいのですか?」

 医師の言葉にはっとして、エリアは男の手を放した。

「すみません……」つぶやきながら椅子に腰を下ろす。

「邪魔をして悪かったねダグラス。つい興奮してしまって」

「あ……というかですね、僕は患者ではないんですよ」

 今更言い出したエリアに、医師も男もいぶかしげな顔をした。

「アディリーンさんに用があって……」

「ああ! ではあなたがそうなんですか!」

 医師は言って、にっこりと笑った。

「明日、自分を訪ねてくる人があると妹から聞いていました。裏口から入っていただくように伝えていなかったですか?」

 エリアがうなずくと、医師は口髭に指を這わせた。

「すみませんね、妹は少々そそっかしいところがあって……ああ、申し遅れましたが、私はダグラス・ベネットです。どうぞよろしく」

 エリアはダグラスとも握手を交わした。

「私はジェラルディン・フィーロビッシャーと申します。私もダグラスと同様に外科医をしていて、近々ロンドン市内に開業する予定です。今後もぜひ親交を深めたいものです」

 いつの間にか椅子に腰かけていたジェラルディンは、鋭い美貌に意外なほど柔和な笑みを浮かべ、再びエリアと握手した。

「こちらこそ、よろしくお願いします。……でも、どうしてカーテンの向こうに隠れていらっしゃったんですか?」

「ああ……久方ぶりにダグラスに会いに来て、つい診察室まで押しかけて話し込んでいましたら、思いがけず患者がやって来る気配がして、とっさにカーテンを締め切って隠れたというわけです。あなたが診察を終えるまで潜んでいるつもりでしたが……フォスター先生のお名前を聞いた途端、いてもたってもいられなくなって」

「先生なんて……よければエリアと呼んでください」

「では私のことも、ジェラルディンとお呼びください」

 また話の輪から外れてしまったダグラスが、大きく咳払いをした。

「いやほんとうに、やっと患者が来てくれたと思ったんですがね。ごらんのとおりさびれた診療所で。内科医になっておけばよかったと後悔しきりですよ」

「あ……じゃあ、せっかくなので傷を診てもらえますか?」

 エリアが言うと、ダグラスは人のよさそうな笑みを浮かべてうなずいた。



 ジェラルディン・フィーロビッシャーと連絡先を交換し合い、看護婦に診察代を払ってから、エリアは改めて診療所の裏手に回った。

 玄関ベルを鳴らすと、まるで扉の前で待ち構えていたかのように、すぐさまアディが出てきた。

「エリア様! よかった、あんまり遅いので事故にでも遭われたのかと……」

 今日のアディは上品なクリーム色のドレスを着ていた。外出用ではないシンプルなものだ。それでアディの美しさが劣ることはなく、むしろこれくらいの素朴な感じがエリアの好みに一致していた。

「す、すみません……実は約束の時間にはちゃんと着いていたんですが」

 そうして事情を説明したエリアに、アディはふんわりと笑って見せた。

「まあ、そうでしたの……ごめんなさい、わたしがお電話でちゃんとお伝えしなかったせいですね」

「いや、そんな。気にしないでください。お兄さんにご挨拶もできましたし、思いがけない素晴らしい出会いもありましたし」

「ジェラルディン様は、たしかに素敵な方ですわね」

 そう言われて、まさかアディはああいう冷血そうな雰囲気が魅力の男を好んでいるのかと勘ぐった。

「兄を訪ねていらっしゃっるとき、いつもわたしにたくさんのチョコレートをくださるんです。わたしのこと、十五歳の女の子のままに思っていらっしゃるのね」

 アディはくすくすと笑った。

 エリアは後ろ手に持っていた紫色の花束を、そっとアディの前に差し出した。

 空色の瞳が丸くなり、子どものようにあどけない表情でエリアを見つめた。

「……チョコレートの方がよかったかな」

 アディほどの美人なら、花束なんてもらい慣れているだろう……というエリアの思いに反して、アディはやけにぎこちなく、慎重に花束を受け取った。

 繊細なレースの縁取りの、短い手袋をしているのが印象に残る。

 しばらく呆然と花束を見つめていたアディは、ふいに顔を上げ、目をうるませて微笑んだ。

「……いいえ。ほんとうにうれしいです。ありがとうございます」

 その笑顔は、薔薇の花よりずっと輝いていて、美しい――彼女に強く惹かれはじめていることに、エリアは気付いた。



 プリシラ・エージーは、きちんと編み込んでまとめた自慢の金髪が風で乱されるのに苛立ちながら、ガス灯の明かりにてらてらと光る、夜露に濡れた石畳の道をひとりで歩いていた。

 真っ白な霧が垂れ込める夜だった。

 ハイド・パーク近くのコンサート・ホールにて行われた演奏会は、素晴らしかった。こんなイベントに誘ってくれた婚約者のことを、更に深く愛そうと誓うほどに。

 だがその愛は、三時間ともたない脆いものだった。

 演奏会の興奮冷めやらぬままに、真新しいフランス料理店へ連れて行ってくれるという婚約者の横顔に見とれながら馬車を待っていたプリシラは、突如目の前に現れたけばけばしいドレス姿の女のせいで、冷水を浴びせられた心地となった。

 女は婚約者の頬を張り、「この嘘つき男!」と叫んだ。

 冷静さを欠いた女の話ではあるが、プリシラの婚約者はどうやら二股をかけていたらしい。

 父親と同伴で今日の演奏会に来た女が、プリシラを連れた「恋人」を見かけて激高した、という経緯だった。

 女は父親らしき男に腕を引っ張られながら去って行った。

 婚約者はすぐに弁解をはじめたが、プリシラは美しい緑色の目を細めてにっこり笑うと、観衆の前で婚約者を張り倒したのだった。

 そして今、みじめな思いを抱えて、人気の少ない小路を歩いている。

 ほんの数時間前まで、この世で一番幸せなプリンセスの気分だったのに。

 怒りに紅潮する頬を夜風で覚ましたくて、辻馬車も呼び止めなかった。

 しかし、探せばすぐに見つかるだろうと思っていた馬車の姿どころか、人影まで見かけなくなっていることに気付く。

 深い霧のせいで、よけいに周囲の様子が不明瞭だ。

 プリシラはにわかに恐怖を覚えて、その場に立ちすくんだ。

 悪いことに、一年前の猟奇的な事件を思い出してしまう。

 ――切り裂きジャック。

 それ以前だって、今だって、気分が悪くなるような恐ろしい殺人事件は日に一度はどこかで必ず起こっているのだと、婚約者は言っていた。切り裂きジャックが目の仇にした娼婦たちは、毎日死と隣り合わせで生きているようなものだとも。

 なのにあの殺人鬼だけが、異常なまでに世間に恐れられた。

 それはきっと、今プリシラが感じているような底知れない恐怖が、あの「名前」によって命を与えられ、醜く巨大な成長を遂げたからなのかもしれない。

 ――大丈夫。ここは治安の悪い地域じゃないし、わたしは娼婦なんかじゃないわ……。

 そう言い聞かせても、早足になってしまうのは止められなかった。

 その足音に、別の足音が重なった。

 プリシラは息を吐き、緑色の目を見開いて更に足を速める。

 背後からの足音も速度を速めた。

 ――嫌よ。やめて、怖がらせないで……。

 どうか、愚か者のいたずらでありますように。強く願いながら、プリシラは思い切って足を止めた。

 背後の足音はそのまま続く。きっとこのまま、通り過ぎる。そう思えた。

 だが、願いは叶わなかった。

 口もとをごわついた手袋の感触にふさがれて、プリシラは全身を硬直させた。

 頭が真っ白になって、抵抗しようという気にもならなかったのだ。

 それは、死を覚悟したも同然だった。

 ひやりとした感触を喉元に感じた直後、火がついたような熱さが襲いかかってきた。

 パニックに陥り、悲鳴をあげたかったが、それすら叶わなかった。

 プリシラの声帯はぱっくりと切り裂かれてしまっていた。

 凄まじい量の血が噴き出す。

 プリシラの薄紅色のドレスも、ガス灯に照らされた地面も、ぞっとするほど真っ赤な色に染め上げた。

 プリシラはがくりと膝をつき、うつ伏せに倒れた。

 血があふれ、流れていく。命とともに。

 死の直前のプリシラが脳裏に思い描いたのは、コンサート・ホールの座席に座って演奏に聴き入る、婚約者の穏やかな横顔だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ